後編
4
どちらかといえば、順調だった入院生活が、ここにきて急変した。
食欲は、まったく無くなり、身体のだるさが倍加していた。歩くことはおろか、立ち上がるだけでも、かなりの体力を消耗する。
桜の木は、もう何輪か花をつけている。
あと数日もすれば、満開になるだろう。
心のどこかで、このまま入院生活が続いていくものだと希望を抱いていた。なんだかんだいって、死ぬのは、まださきだと。
桜の花が散るように、自分の命も散ってしまう。体調の悪化で、それを色濃く実感していた。
花壇の水やりは、続けていた。
それをやめてしまえば、本当にこの世でやるべきことがなくなってしまう。
やめたときが、死ぬときだ。
それは思い込みなのか、真実になるのか……。
やはり、死ぬのは怖い。
死にたくない。
だから、水をやる。
まわりから見ても、具合の悪さはあきらかのはずだ。だが、だれも止めようとはしなかった。そのほうがありがたい。自分の仕事を邪魔されたくはなかった。
水やりを終え、ベンチで休んでいると、きまってあの少女が声をかけてくる。この会話までが、お決まりの仕事となっていた。
胸が悪いという少女。
自分の病状が最末期に突入しても、まだ彼女の身を案じる心は無くなっていなかった。
意外であると同時に、これが人間らしさなのだと感じていた。
この心が失せたとき、自分は人間でなくなり、無に帰すときなのだ。
「だいじょぶ? にいちゃん」
「大丈夫だよ。まだ大丈夫だ」
彼女に言い聞かせるように……自分を励ますように、言葉を繰り返す。
足音がした。
見れば、片桐先生だった。
少女の姿は、消えていた。これまでと同じだ。だれかが近づけば、突如としていなくなってしまう。
「一人で歩けますか?」
「歩けます」
意地のようなものだった。
必死で立ち上がり、病室へもどる。
そこまでの道のりが、何時間もかかったように長い。たぶん、数分のことなのに。
ベッドにたどりついたとき、荒い呼吸がいつまでもやまなかった。
「先生! 大樹を殺す気ですか!?」
母の激昂が、病室に響いた。
先生は、なにも言い返せないでいる。
「い、いいんだ……オレの好きにさせてくれよ……」
かわりに自分で言った。しかし口から出た声は、思いがけず力がなかった。
想像以上に、生命力が落ちている。
だが、まだいける。
気力は萎えていない。
精神で体力をカバーできるうちは、死なないはずだ。
そう信じるしかなかった。
日に日に体調は悪くなっていき、改善することはなかった。
そのつど全能力を結集し、水やりをどうにか続けていた。たとえようもないつらさがのしかかっているが、充実感はあった。
病気に負けない自信もある。
あるとき、先生に言われた。
「もうやめていいんですよ」
それは、死刑宣告にも等しかった。
「な、なんでそんなことを言うんですか!?」
自分でも、まだそんな力が残っていたのかと驚くほど、熱くなっていた。
「あんたは、《死神》だろ! 患者のことなんて心配するなっ」
自分の口許に、なにが浮かんでいるのかを悟ったとき、まだまだいけると実感した。
片桐医師もつられていた。
「そうですか」
先生の唇にも、笑みが。
そうだ、自分は笑っているのだ。
少しだけ、自分自身が好きになった。
桜の咲く、十二月。
あともう少しのディセンバー。
5
窓から見える桜は、もう満開に近かった。
上半身を起こすだけでも、億劫だ。痛みというものはないが、とにかく身体が重くて、だるさが極限にまで達していた。身体に力が入らない。入らないどころか、どんどんと抜けていく。
命そのものが、抜けていってる……。
そう思わずにはいられなかった。
水をあげなければ。
ダメだ。今日はムリだ。今日は休んで、明日のために力を蓄えよう。
一日が経った。
今日こそ、行かなければ。
動かない。
動かない……。
身体が悲鳴をあげている……いや、悲鳴をあげる力さえ残っていない。
このまま終わるのか……終わってしまうのか……。
今日も休む。
そして明日へ、力を──。
一日が経った……。
立ち上がることなんてムリだ。
車椅子に乗せてもらって行くか?
それはちがう。それでは、ダメなんだ。
自分の力で行かなければ、意味がない。
あと、どれくらい時間が残されている?
もし、行けたとしても、あと一回……その一回にすべてをかけるしかない。
今日まで休んで、明日、すべてをかける。
明日だ……。
一日が経った……。
昨日よりも、さらに悪化している。
もうダメなのかな……。
立てないのかな……。
「にいちゃん、どしたの?」
少女の声がした。振り向くこともできない。
しばらく姿をみせなかったから、病室まで来てしまったのか。
「みずやり、いかないの?」
「ム、ムリみたい、だ……」
どうにか声を絞り出す。
「だいじょぶじゃないの? いつも、だいじょぶ、っていってくれた」
「大丈夫、だよ……お兄ちゃんは、大丈夫だ……」
ここでは死ねない。
あと一回。
もう一度、あの花たちを見るまでは。
「にいちゃんは、だいじょぶ。まだたてる」
なにかが手に触れた。
少女の小さな手のひら。
胸の病気で苦しんでいるはずなのに、その手はとても温かく、力がこちらにまで伝わってくる。
「う、うう……っ!」
彼女が勇気と力をあたえてくれた。
這うようにベッドから出ると、床に足をつけた。かなりやつれているはずの軽くなった身体でも、下半身が押しつぶされそうだった。
重力に逆らうということが、これほどまでに苦しいことだったとは。
一歩、一歩、進む。
「た、大樹!?」
「島崎さん!」
母と、看護婦さんの驚き声が、行く手を阻もうとする。
邪魔しないでくれ!
ぼくは、やり遂げる。
一歩、一歩。
長い廊下。階段。一階ロビー。
すれちがう人、すべてが奇異の眼差しを向けてくる。
瀕死の男が自力でどこへ行くのか、興味津々なのだ。
玄関から出て、遊歩道。その途中に、水道場がある。いまでは、そこにジョウロも置いてある。
そこまでたどりつけるだろうか……。
一歩、一歩。
実際はわからないが、途方もない時間をかけて水場についた。
ジョウロに水をいっぱいに入れる。
おそらく、これが最後になるだろう。
思い残すことがないように……。
ここから花壇までも、いまの自分には想像を絶する距離がある。
少しずつでも進んでいくしかない。
一歩、一歩……。
あと何メートルだろう……!?
もうダメだ……。
立っていられない。
膝をついた。こうなったら、たぶん、もちかえせない。
ここまでか……。
そうあきらめかけたとき、少女の涙声が耳に──心に届いた。
「にいちゃん、だいじょぶ! だいじょぶっ!!」
いっしょに、ついて来たのか。
この子の正体は、もうわかってる……。
「わたしも、いっしょいく!!」
少女がジョウロに手をかけ、重さを軽減してくれる。
「い、行こうか……いっしょに」
再び立ち上がり、少女とともに歩みを進める。
視力のかすむ眼にも、花壇が見えてきた。
絵の具で色づけしたように、青々と繁っている。よく、ここまで育ってくれたな。
やっぱり、花は間に合わなかった。
でもいいんだ。
これが、自分の生きた証だ。
こんなものと、他人からは笑われるかもしれない。こんなものでも、自分は誇りに思っている。
あと少し、あと少し。
「まけないで! にいちゃんっ」
泣きながら、彼女が叫んだ。
大丈夫だ、大丈夫。
「だ、だいじょうぶ……」
名前も知らない植物たちは、こんな自分でも、こころよくむかえてくれた。
歓喜して、風に揺れているように見えるのは、幻覚か?
ジョウロをかたむけて、水をあげる。
満足してくれるかな。
これが……本当に、本当に最後の、自分にできること。
最後の仕事──。
水が尽きたと同時に、精神力も限界をむかえた。
足が浮くような感覚。
天地がひっくり返る……。
ドスッ!
しかしその感覚は、思いのほか、やわらかかった。
かすかに覚えていることは、白衣の「白」だった。
先生が……。
やさしいな。
やさしい《死神》──。
6
暗い視界に、人の姿がうっすらと見える。
父、母、友人たち。そのなかには、あのCDを返した親友の姿もある。そのとなりには、元カノの姿も。
そうか……みんな呼ばれたのか。もう最期のときなんだ。
不思議と恐怖はないし、苦痛もない。
これが、安らかな死というものなのか……。
はたして、どれほどの人間に、こういう死が許されているのだろう。若くしての逝去は、不幸以外のなにものでもない。だが自分の死は、きっと幸せの部類に入る。
穏やかな気持ち。
静かな音。もしかしたら、もう耳が聞こえていないのかもしれない。
眼の前に、片桐医師の顔が。
なにかを言っている。
唇は、どんな動きをしているだろう?
わからない。
まあ、いいか。
視界がさらに暗く、意識が遠くなっていく。
ああ、この世の……さいご……。
眠いよ……ねむ……。
みたかった、な……。
はな……。
小さな花壇に、いっぱいの花が咲き誇っている。
見える。たしかに見える。
ここは、どこ?
空。
飛んでいる。
大空を浮遊している。
なぜ?
自分は、だれだ?
何者であったのか?
だれかに手を引かれていた。
知っている少女だった。あの、少女。
そうか、自分は死んでしまったのだ。
そして、彼女も……。
いまならば、わかる。
あのとき、片桐医師の持っていた写真のなかにいたのは、この子だ。
先生が助けられなかった自分の娘。
胸の病気……。もう治らないと……もう亡くなっているのだと、この子自身も気づいているのだ。
「きれいでしょ?」
少女が言った。
「間に合ったんだね」
そう応えた。
予感があった。自分はこれから、ここではない遠いところへ行かなければならない。
最後の最後に、希望か叶った。
自分の育てた花々。赤や黄色、ピンクもある。
短い人生でも、報われた気がした。
「え?」
思わず、声に出していた。
空を飛んでいたはずが、べつのどこかに一瞬で移動していた。
街中?
とても人であふれているのに、だれも自分たちの存在を察知していない。透明人間になった気分だった。
まあ、似たようなものか。
「あれ」
手をつないだままの少女は、片方の指をある一点に向けていた。
商店のガラスに、ポスターが貼ってある。
写真ではなく、絵だ。
独特なタッチで、ヘンに個性的。
どうやら絵は、なにかの動物を描いているようだった。それがなにかまでは不明だ。
ネコなのか、イヌなのか、タヌキ……キツネ、それとも空想の生き物なのか。
一応、企業名らしきものも記されてるが、聞いたこともないし、なんの業種なのかも絵からは推理できない。宣伝として貼られているのだろうが、はたして効果があるのかどうか……。
なのに、一度眼にしたら忘れないのではないか、この絵は。
心に衝撃がくるほどカラフルで、ずっと印象に残る。
「この絵が、どうしたの?」
少女に問いかけた。
「みて」
彼女の指に従い、ポスターに近づいた。歩いたのではなく、一瞬で──まさしく瞬間移動で絵の眼前まで。
右下隅に、小さくサインが書かれていた。
かなり崩してある字だが、それでも『T.ENDOU』と書いてあるのがわかった。
遠藤……。
自然に、涙があふれてきた。
そうか……あいつが戸惑っていたのは、もう夢を叶えていたからなのか。
「あいかわらず、下手な絵だな」
嬉しさをこめて、つぶやいた。
場面は、再び一変していた。
とてもまぶしく、明るい場所。
ここがどこなのか、想像もつかない。
ほかの人間はおろか、建造物や動植物も見当たらない。虚無の空間ではあるが、冷たさや孤独は不思議と感じなかった。
少女と二人だけ。
手をつないだまま。
「ここは?」
そう訊きはしたが、答えは返ってこない。
いや、それを耳にするまでもなく、予感のように……本能で知っているように、頭のなかに浮かび上がってくる。
べつの世界への入り口──。
これから自分は、この先へ足を踏み入れなければならない……。
少女の手が、ふいに離れた。
「どうしたの?」
少女は無言のままだ。
「キミは、行かないの?」
小さな顔が、縦に振られた。
「パパがしんぱいだから」
「そうか……」
この子は、これからも先生を見守っていくのだろう。
やさしい《死神》を。
少女とは、ここで別れた。
溶けてゆく意識のなかで、最後まで鮮明に浮かんでいたのは、自分の育てた名も知らぬ美しい花たちだった。
心の平穏が、永遠のものに。
やさしい光のなかの十二月。
素晴らしかった人生。
最高の自分。
最高のディセンバー。
エピローグ -《種》あかし-
片桐は思いをはせる。
あの世へ旅立った彼に、最後の言葉は伝わっただろうか?
臨終の間際、片桐は、それまで教えていなかった花の名前を彼に告げた。
シベリアヒナゲシ。
一般的に、アイスランドポピーと呼ばれるものだ。
この花は、秋に蒔いて春に咲く花。
魔法の種など、この世には存在しない。
わずか一ヵ月で花を咲かせられるわけがない。
蒔いた種は、いまの時期に蒔くべつの植物のものだ。出てきた芽も、当然シベリアヒナゲシのものではない。べつの芽が出てしばらくして、さらにべつの植物の若い苗に植えなおした。そして、ころあいをはかって、花が咲く寸前のシベリアヒナゲシに入れ替えたのだ。
本来、シベリアヒナゲシは、成長してからの移植は難しい。入れ替えのさいには、根を傷つけないよう、細心の注意をはらった。
そのかいあって、こうして無事に咲かせることができた。
花言葉は、慰め。
少しでも、彼の……これまで看取った患者たちの慰めになってくれれば……。
そして、わが娘の鎮魂に──。
あの子は……ゆりえは、天国で元気に暮らしているだろうか?
片桐は、ずっと大事に持っている娘の写真を取り出した。
成長した姿を見たかった。
いつか自分があの世へ旅立ったとき、成長したゆりえに、きっと出会える……。
それが、片桐の唯一の望みだった。