前編
1
もうすぐ、桜の季節をむかえようとしていた。
ここに入院してから、はや半年になろうとしている。正直、長いと感じていた。感じてはいたが、退院の日は近いはずだと、楽観もしていた。そう思い込もうとしていたのかもしれない。
絶望の扉が開いたのは、突然だった。
その日、病室に入ってきたのは《死神》と呼ばれる男だった。
半年という入院期間は、長いようで短い。本当に「長い」というのは、数年を超えていなければならない。
《死神》の話をしてくれたのは、そういう古株の一人だった。ここのヌシのような人だ。
その古株さんが言うには、この病院では余命一ヵ月と診断された患者には、ある医者が担当につくという。もう助からない患者が最期の時をいっしょに過ごす、まさしく《死神》というわけだ。
そして、もう一つ……べつの呼び名もあるという。
『ディセンバー』
十二月。
人生を終える最期の一ヵ月だから、その名がついたそうだ。
「島崎さん、今日から担当になる片桐です」
《死神》が、穏やかな声で挨拶してきた。案外、不吉なものほど、やさしげなものかもしれない。
おそらく、顔面が凍りついているにちがいない。
これが、リアルな死の宣告というものか。
「どうやら、僕のことを知っているみたいですね」
よほど、表情に絶望感が噴き出していたのか、彼はそう言った。
「知ってます」
古株さんから聞きましたから……という付け足しは、声にならなかった。
「では、話がはやいですね。これからの一ヵ月を、悔いのないように生きましょう」
心には届いてこなかった。その言葉は、まるで風のように素通りしていた。
ぼくは、死ぬのか……。
こうして、最期の一ヵ月……人生の十二月がはじまった。
春なのに、ディセンバー……。
年齢は、十九歳。本来なら、大学生活をエンジョイしている真っ最中だ。
去年の夏ごろに症状が出た。全身がどうしようもないほどに、だるくなった。最初に行った近くの病院で、肝臓が悪い、と告げられた。
大学病院での検査をすすめられて、ここの紹介状を書いてもらった。
検査入院の末、肝硬変と診断された。
未成年だから、アルコールは飲んでいない。そんなことがあるのか、と愕然とした。ウイルス性の肝炎にかかっていたそうだ。それを放置していたために、肝硬変にまで発展してしまったという。
肝臓の病気は自覚症状が出にくく、重傷化するまで気づかないことがあるそうだ。
若くして肝硬変。残酷な運命だと感じた。だが、それほど悲観してわけではない。
これも、人生のうちの乗り越えるべき壁の一つだと信じた。
だが、乗り越えられずに、ここで終わるのか。
余命わずかということは、肝硬変が進行して、肝臓ガンになってしまったということだろう。それぐらいの知識はもっている。
ちゃんと入院していたのに、こんなことがあるのだろうか……。
絶望がのしかかってくる。
不思議と、悲しみは来ない。
きっと、恐怖が勝っているのだ。
怖い。
死にたくない……、死にたくない。
と、同時に、どこか他人事のような感情もわきおこっていた。
現実味がない。夢のなかのような……いや、それこそが余命宣告というものの本質なのだ。
面会に来る家族も、友達も、はれものを触るかのように、遠慮がちだ。気を使われてることが、痛々しい。
《死神》の訪問から、数日が経った。
治療のことはよくわからない。あいかわらず身体はだるく、力がわいてこない。とはいえ、すぐに命が消えていくものだという薄命感は、わずかだ。
《死神》との会話は、ほとんどなかった。医者と患者の普通の受け答え。それしかない。
そんなものだ。嫌気がさす。けれど、へんに同情されたり、死への心構えを語られたりするよりはマシか。
いまの自分に、うんざりする。
あとわずかの命に、うんざりする。
あとわずかしか生きられないのに、生きなければいけない現実にうんざりする。
……それは、病室から抜け出し、敷地内、散歩道の途中にあるベンチに腰掛けているときだった。
何歳ぐらいだろう。
まだ、五、六歳ぐらいの少女に思えた。
「にいちゃん、どしたの?」
まだ、たどたどしい言葉だった。
近寄ってきた少女に、答えることはしなかった。鬱陶しかった。遠くへ行ってほしかった。
「にいちゃん、にいちゃん」
どっか行け、と声を荒らげなかったのは、大人としての理性だったのかもしれない。
何度も呼びかけてくる少女を無視しつづけた。罪悪感も、可哀相だと感じる心も麻痺していた。
それどころではなかった。
自分のことで……いや、自分のことすら考えるのも拒否反応をおこしていた。見ず知らずの子供にかまけている余裕はない。
「島崎さん!? 外へ出るときは、一声かけるようにしてください!」
看護婦さんが、血相を変えてやって来た。
看護婦……いつのころからか、女性でも看護師という名称で呼ぶよう、患者のほうにも強制される。女性蔑視だとか、細かな呼び方なんて、どうでもいい。こっちは、命がもう無いってのに!
彼女が来たからか、うざったい少女は、もういなくなっていた。きっとあの子も、無断で散歩に出てしまったのだろう。
「わかりましたか、島崎さん!?」
こっちにも、無視を通した。
会話をかわすのも腹立たしかった。
客観的に見れば、なんて器の小さな男なんだろう。
かまうものか。
他人から、どう見られたとて、もうなんの意味もない。
良い人である必要はないのだ。
反抗的に、看護婦を睨んでやった。
最低の一ヵ月。
最低の自分。
最低のディセンバー。
桜は、まだ咲かない。
2
しばらくしたある日、片桐医師がおかしなことを言いはじめた。
庭の花壇を手入れしてみませんか──。
余命いくばくもない患者に、そんなことをさせようというのか。それとも、もうわずかだから、やらせるつもりか。
この世に生きたという証を残しておけ、とでも言いたいのだろうか……。
「べつに、他意はありません」
《死神》は、顔を覗き込んだだけで、そう口にした。心を読まれているようだった。死期の近い患者の考えを知るなど、《死神》なら造作もないことだろう。
片桐医師は続けた。
末期ガンで、激痛もなく、普通に動けるのは、とても恵まれている──と。
恵まれていないから、死が近いのだろうに……。
だがたしかに、あいかわらずのだるさと、延命治療から来る副作用で胸のむかつきなどがあるとはいえ、鎮痛剤を服用しなければならないような痛みはなかった。そういえば末期の患者は、モルヒネを使用しなければならないほど、激痛にもがき苦しむものだ、というのをどこかで聞いたか読んだかしたことがある。
そうか、だからいま一つ、死の実感がわかないのか。
幸運なのかな。一応。
短時間なら、体力的にも可能だろう。
でも、そんなことをしてなんになる?
アホらしい。
「やりません」
キッパリと断ったつもりだった。
「さあ、行こうか」
「は?」
病室から、なかば強引に、外へ連れ出された。
スコップを渡された。先生自身も、スコップとジョウロを持っている。その光景に驚いたのか、すれちがった看護婦の何人かが眼を丸くしていた。
花壇は、畳一枚分ほどの大きさしかなかった。
まず、土を耕した。片桐医師の真似をするように、スコップを土に入れた。
次いで、種を蒔き、水をあたえた。
こんなことをやったのは、小学生以来だった。
子供のころ──。
太陽はまぶしく降りそそぎ、ゆっくりと時間が流れていた。そんな記憶しかよみがえってこない。
よかったな、あのころは……。
未来があった。
希望があった。
いまの太陽は、あまりまぶしくない。
夏ではないから?
未来が、あとわずかだから?
希望がないから……?
「芽が出るといいですね」
《死神》は言った。
芽が出るまでは、生きていられるだろう。
植物の成長スピードの知識はないが、きっと茎が伸び、葉が生い茂るころには、命はもう尽きているはずだ。
咲いた花を、この眼で見ることは叶わない。
……どうでもいいか、そんなこと。
「これは、魔法の種です」
「魔法の種?」
「見られるかもしれませんよ」
なにが、ということは名言を避けたようだった。
あたりまえだ。さすがに一ヵ月で花は咲かないだろう。期待だけもたせて、それを生きる希望にかえろ、ということなのだ。
バカにしている。
「病室にもどろうか」
自分から連れ出しておいて、なんて勝手な人なんだろう。
汚れるのを防ぐためか、暑さのためか、医師は近くのベンチの背もたれに、脱いだ白衣をかけていた。
白衣を手に取り、それをまとう際に、胸のポケットから、なにかがひらりと舞い落ちていた。
すぐに気がついて、大事そうに、それを胸にもどした。
一瞬しか見えなかったが、家族写真のようだった。
幸せな人は、いいな……。
妬ましさとともに、もう妬む必要もないことに落胆する。
病室へ帰る道が、とても遠く感じられた。
それから毎日のように水をやりにいった。
最初のうちは行かされていたのだが、次第に義務感は薄れていった。
芽が出たときは正直、うれしかった。
ある晴れた日。水をあげて、ベンチで休んでいるときに、いつか出会った少女がやって来た。いまでは《死神》も、看護婦の付き添いもなく、水やりをおこなっている。看護師の嫌いな少女も、警戒することなく近寄ってきた。
「にいちゃん、どしたの?」
このあいだと同じように話しかけられた。
「水をあげてたんだよ」
「め、でた?」
「ああ」
そう顎をしゃくって、花壇を示した。
「なんのはな?」
「さあ、わかんない」
種を植えはしたが、それがなんの植物なのかは教えられていない。どうせ咲くまでは生きられない。たずねようとも思わなかった。
「さくといいね」
「そうだね……」
普通に会話ができていることに、軽い驚きがあった。最初のときに感じたイラつきは、どこかに姿をひそめていた。
「キミは、なんの病気なの?」
その質問は、少し難しかったかな、と反省した。
「おむねがわるいの」
しかし、少女は答えた。
「大丈夫だよ、キミは助かるよ」
少女は、首を横に振った。
子供でもわかるほどの重傷なのだろうか。だが、こうして外に出ているのだから、生死にかかわるような病ではないだろう。
「心配ないって」
それでも、少女は首を振る。
これから、手術でもひかえているのだろうか。だとすれば、ここまでおびえるのも納得できる。
こんなに小さいのに、なんて可哀相なんだろう。
もうすぐ死ぬ自分が、他人を心配しているなんて……。
「手術は、ちゃんと成功するって」
手術するものだと決めつけて、やさしく慰めた。
その思いが届いたのか、少女は微笑んだ。
歳相応の無邪気な笑みではなく、不安を抱えたままの、物悲しい表情。心細さが、こちらにまで伝わってくる。
神様は、いつでも非道で、不平等だ。
こんな子の命をおびやかし、どこにでもいるなんの変哲もない男の人生を強制的に断ち切ろうとしている。
と──。
「島崎さん」
よく見知っている看護婦に、声をかけられた。
「そろそろもどってください。検温の時間ですよ」
もうそんな時間か。少女に別れの挨拶をしようと振り向いたが、すでに彼女はそこにいなかった。
よほど看護婦が嫌いなようだ。
きっと大丈夫。
あの子は、助かる。
自分の命が消えて無くなるのだから、そのかわり、あの子が助かるように運命はつくられている。神様にも、それぐらいの慈悲はあるだろう。
そう心から願いたかった。
3
なにかやり残したことはないか?
そう考えるたびに、圧倒的な時間の無さに打ちのめされる。
将来は、あれになりたい。
これから、あれをはじめよう。
年末までには、あれに手をつけていたかった……。
どれもダメだ。もう時間が残っていない。
できそうなことといえば、あの本を読んでおきたい。もう一度、あの音楽を聞いておきたい。もう一度、あの人に会っておきたい──そんなところだ。
ふと、思い出した。
音楽。もう一度、聞いておきたいわけではない。友人にCDを借りていたのだが、それをまだ返していなかったのだ。
その友人は、入院してから何度かお見舞いに来てくれた。
《死神》に会ってからはまだだが、また顔を出す、と言っていたから、いずれ来てくれるはずだ。しかし、そのときにまだ自分の意識があるかわからない。
どうせなら、元気なうちに直接、渡しておきたかった。
やり残したことのほとんどが、もう叶わないことだから、できることだけでも確実に達成しておきたいのだ。
早速、母親にCDを家から取ってきてもらい、友人にも連絡を取った。その翌日に、友人は来てくれた。
病室に入ってきた彼の表情は、どこか冴えなかった。
余命の告白は彼にはしていないはずだが、それを知っているまわりのだれかから聞いたのだろう。
「元気か?」
元気なく、友人はしゃべりかけてきた。
「ああ、まだ元気だよ」
それを耳にしてみせた笑みも、心なしか引きつっていた。
「CD借りっぱなしだったろ。返しておきたくてさ」
その意味は、彼にもよく伝わったはずだ。
「そうか……」
「そのほかにも、いろいろと考えたんだけどな、どうやらできそうなことで、ほかにやり残したことはないみたいなんだ」
「あ、あのな……、紹介したい人がいるんだ……いいかな?」
思いがけないことを言われた。
「あ、ああ……もちろん」
軽い戸惑いはあったが、そう応じた。
友人は扉を開け、病室の外に顔を出した。
「おい、来いよ」
呼ばれてなかに入ってきたのは、知っている女性だった。
「いま、オレたちつきあってるんだ……」
申し訳なさそうに、友人は告白した。
その女性とは、高校時代に交際していた過去がある。
「おまえにだけは、言っておきたかったんだ……」
命のあるうちに──。
「すまんな……」
「なんで、あやまるんだよ」
本心だった。そもそも、彼女とはすでに別れているし、再び会いたいとも考えていなかった。
「いや、ほら……なんかさ」
友人と元カノが帰っていくまで、とても居心地の悪い空気が流れていた。
とにかくCDは返したし、もう可能なことでやり残したことはない。あとは、死ぬのを待つだけか……。
いや、待てよ。
やり残したこと……というより、心に引っかかることが、もう一つだけあった。
衝動的に、公衆電話へ急いだ。院内では携帯が使えない。もどかしさを感じながら、公衆電話のボタンを押していく。
自分でも、よく番号を覚えていたものだと感心した。中学時代の親友だ。高校に進学したころには、すでに友人とも呼べなくなっていた。
「もしもし、遠藤くん?」
『そ、そうですけど……』
「あ、オレ、島崎、島崎大樹」
「ひ、ひさしぶり……」
どうして電話をかけてきたのか、とても疑問を感じているのが声でわかった。それもそうだ。疎遠になっていた過去の知り合いから、なんの前触れもなく連絡があったら、自分でも困惑する。
『どうしたの?』
「オレ、遠藤くんにあやまらなきゃならないことがある」
『は?』
「遠藤くんは、まだイラストレーターめざしてるの!?」
『い、いやぁ……どうだろうなぁ……』
とても曖昧な受け答えだった。
「もし、あのときのオレの言葉を気にしてたら、ごめん。忘れて、オレの戯れ言なんて気にするな!」
『あ? な、なんのことだよ?』
「いいから、心置きなくイラストレーターをめざしてくれ!」
『な、なに言ってるんだよ、さっきから……』
「夢を追いかけられるって、幸せなことなんだ! 頼んだよ! 遠藤くんなら、きっとなれる」
『お、おう……』
「じゃあね。元気でね!」
『じゃ、じゃあな……』
遠藤は、最後まで状況を理解できていなかった。たぶん、あのときことすら覚えていない。それでもかまわなかった。
かつての苦い記憶。
彼に、ひどいことを言ってしまった。
イラストレーターになりたいと、描いた絵をみせてくれたことがある。それを自分は、バカにしてしまった。
けっして、うまくはなかったから。
いまの彼の反応から推測すれば、きっと、もうあきらめてしまった夢なのだろう。
だけどいまの会話で、夢をもう一度、取り戻してくれたら……。
「もうないな」
声に出すことで、自分自身に確認した。
これで、本当に──。
病室にもどって、ベッドに横たわった。
今度こそ、死ぬのを待つだけ。
「あ」
水、あげなきゃ。
気がつけば、死ぬまでの最後の仕事が、花壇の手入れだった。
それを見越して、先生はやらせたのか……。
植物は順調に育ち、狭い面積を緑が覆っていた。
成長が早すぎるような……。
母親にたずねてみたが、種を蒔いてから花を咲かせるまでに、半年近くはかかるという。
魔法の種──本当だったんだろうか?
ここまできたら、見てみたいな。
花が咲くところ。
それまで、生きていられるかな。
いくら魔法の種でも、それはムリだ。
そういう人生だった。
パッとしない人生。夢は、なんだったかな。いまとなっては意味がないから、思い出すこともできない。
いや、本当は覚えてる。思い出したくないだけだ。明るい未来、遠い将来。そんなものはない。もう終わりなんだ。
終わり。
終わる。
虚しくなった。
いつのまにか花壇を離れ、病棟の屋上へ足を運んでいた。ほかにだれもいない。
夕日に染まる空。
黄昏。自分と同じ空。
もうすぐ陽が沈む。
友人は、元カノと仲良くやっていけるだろうか。もしかしたら、結婚するのかもしれないな。
うらやましい未来。
遠藤は、イラストレーターになれるだろうか?
自分にできることは、花壇の水やり。
このまま、この景色に溶け込んでやろうか……。柵を越えれば、すぐそこに安らぎが待っているはずだ。
「にいちゃん、どしたの?」
突然の声に、ハッとした。
たどたどしいその言葉は、あの少女のものだった。この子だけはいたらしい。
「なんでもないよ」
振り返ったそこには、しかし、少女はいなかった。
いたのは《死神》──片桐医師だった。
「どうしたんですか? 帰りが遅いので、さがしてたんですよ」
「あ、ああ……ちょっと町の景色を眺めたかったので……もう少し、ここにいてもいいですか?」
医師は、困った顔をした。
たぶん、よからぬことを考えているのではと疑われているのだ。
そのとき屋上に、ある人物が姿をあらわした。この病院では、みなにとってのお馴染みだ。
《死神》のことを教えてくれた古株さんだった。
本名は知らないが、その存在はよく知っている。年齢は五十代、もしくは六十前後の男性で、いったいどこが悪いのか疑問に感じるぐらい、いろんな場所に顔を出す。
肌の血色もよく、仮病で入院しているのではないか、と病院の七不思議の一つとして囁かれている。
「わかりました。でも、少しの時間だけですよ」
古株さんが来たことで安心したのか、片桐医師は踵を返してもどっていく。
「聞いたよ。花を育ててるんだって?」
設置されているベンチに腰をかけながら、古株さんがそう話しかけてきた。
「は、はい……」
否定することでもないので素直に答えた。
「どう? 死神先生は」
それには、どう答えてよいかわからなかった。
「ま、信じてみなよ。縁起は悪いが、良い先生だよ」
信じてみたところで、病気が治るわけではない。古株さんの言葉は、虚しく耳を通り抜けていった。
「あの先生、いまじゃ穏やかなやさしい先生だろ」
それはつまり、以前はちがったということだろうか?
「むかしはよ、どちらかといやぁ、近寄りがたくて、冷たい感じがしたんだよ。まあ、いまはちがった意味で敬遠されてんだけどよ」
そう言って、古株さんは笑った。
「変わっちまったのは、三年前……いや、五年前だっけな」
かなり、あやふやな記憶のようだ。
「なにがあったんですか?」
好奇心で──というより、話の流れ上、そう訊かざるをえなかった。
「先生は、ああ見えて、権威のある心臓外科医なんだ」
それは初耳だった。自分の主治医だから、癌の専門だとばかり。
「年に、何百件と手術をおこなう凄腕だったんだぜ、あれでよ。いくつも、むずかしいオペを成功させて、日本中の……いいや、世界からも注目されてたんだ」
そこで古株さんは、一拍置いた。
「……だがよ、先生はメスを置いちまった。原因は娘さんだ」
「娘?」
「皮肉なもんで、五歳になるお嬢さんが、重い心臓疾患にかかってな。手術するほかなかったんだが、成功率はかなり低い。おそらく成功されられる医師は、片桐先生一人しかいないだろうって」
「どうなったんですか?」
「どうなったと思う?」
質問返しが、とてもイラついた。
早く、続きを聞きたかった。話の流れ上ではなく、自らの意志でそれを望んでいた。
「手術したんですよね? 先生が」
「いいや、しなかった。というより、できなかった」
それは、どういうことだろう!?
「自分の身内は、手術しない──それが医学界の常識なんだってよ。理不尽だな」
「じゃ、じゃあ……」
「べつの医師が執刀したが、失敗した」
残酷な結末だと思った。
先生の持っていた家族写真……あれには、亡くなったお嬢さんが写っていたのか。
「自分でやってたら、いまでも生きてたかもしれない。先生は、それから変わった……医師としての一線を退き、いまみたいな、余命の近づいた患者のカウンセラーのような役目に落ち着いた」
幸せな写真ではなかったのか……。
どうしてだろう?
他人の心情をおしはかっている場合でないはずなのに、《死神》の……先生の無念さ、悲しみが、ひしひしと伝わってくるような気がした。