彩、薄紅
僕は浮かれていた。
自宅へと帰るために遠回りをしていた路で、アルマさんと会ってしまったことに浮かれていた。
僕は懐かしかった。
あの頃の僕は16才だった。そして、5つ年上のアルマさんに憧れていた。
今のアルマさんは、あの頃と変わらない。
柔らかなウエーブがかかるローズピンクの髪、蒼い瞳、しなやかな体つき。口調は勝ち気だけど、ちゃんと女性らしさを表していた。
僕は、僕はまたアルマさんに惹かれてしまったーー。
***
アルマさんと僕がまた会うきっかけをつくったのは、シーサだった。
シーサも僕を知っていた。
シーサはアルマさんの姪っ子と、いうのはずっと前から知っていた。
「タッカさんに『おじちゃん』と言ったこと覚えているかな」
僕は結局、アルマさんとシーサを自宅に招き入れた。リビングルームで軽食とお茶を振る舞って『あの頃』の思い出の話しで場を和ませた。
「とりあえずは」と、シーサは僕が訊いたことに顔を真っ赤にしていた。
「シーサ『とりあえずは』の意味が理解できない」
シーサの右隣に、長椅子に座っていたアルマさんは苦笑いをしていた。
「おばさまのいじわる」
シーサはアルマさんから視線を反らすように、顔を左に向けた。
「もう、いいでしょう。おふたりとも、そろそろーー」
「イヤ、今日はおばさまと一緒にタクトさんといる」
僕はリビングルームの壁に掛けている振り子時計の針が差す時刻を見た。僕が言いかけていたことを遮ってまで言うシーサの言葉に耳を疑った。
「だから、言っただろう。さあ、帰宅するぞ」
「イヤといったら、イヤです」
今度はアルマさんに反発。
ロウスさんとエターナさんのお子さんにしては、随分と勝ち気な。いや、こんなに強情だったっけ。と、僕は思ったのだった。
僕がシーサについて感情的なことをいう理由は、シーサの『あの頃』が印象的だったからだ。印象的だったから、アルマさんを連れてきてまでの『何か』が知りたくなった僕だった。
「アルマさん。僕が思うには、シーサはアルマさんを助けたくて、僕に意見を聞きたくて僕を頼って此処まで来てくれた。相談だったらシーサのご両親、ロウスさんとエターナさんがいるのに、それでも僕のことを頼った。僕だから、きっと……。」
言葉が続かなかった。
何も、ロウスさんとエターナさんを持ち出すことはなかった筈だと後悔をしたとたん、言葉を続けることは、とても出来なかった。
「すまぬ、タクト。突然の来訪にでさえ戸惑っているだろうに、シーサの頑な態度の為に迷惑をかけてしまった」
「先程、僕は聞いていた。アルマさんのお子さんたちが『あの頃』のシーサのようなことに巻き込まれてしまった。僕から詳しく訊くなんてとても無理だと思いました。ただーー」
「タクト、おまえの癖だな。気を回すはいいが遠回しは逆に相手を不快にさせてしまう。何れ遠からず、情報は公になる」
アルマさんが寂しそうにして言った。
今のアルマさんには家庭がある。
ずっと想いを寄せて、寄せあったバースさんとの間に二人の子供が生まれて、幸せに暮らしている。
僕は、見守るを選んだ。
『あの頃』はいつか忘れると、頑な思いで今の今までを過ごしていた。
「バースさんは『例の件』に於ては、ご意見を仰ったのですか」
アルマさんと少しでも長く居たいが為の、口実だったーー。
***
僕たちが話しを終えたのは、深夜の2時だった。
話しの始まりは『あの頃』で何が起きたを振り返った。続けて今『何が起きているのか』を、アルマさんから語られるで終わった。
「おやすみなさい」
シーサには、僕の寝室を使わせた。
シーサが下げていた鞄の中には一泊分の着替えがしっかりと詰められていると、アルマさんが明かしてくれた。
「足を伸ばして横になるほど、眠くはない」
アルマさんには、僕の母の寝室を使うようにと勧めた。だが、まだリビングルームにいた。
「《団体》は、まだ動いていた。表向きは、正統で清純だけど、人々の記憶が風化されたことを狙ったかのように、再び動くをした」
「感の鋭さは健在だな、タクト」
「アルマさん、買い被り過ぎですよ」
僕は目を擦ってアルマさんに言った。
「結局、何も変わらなかった。おまえを巻き込んでの『あの時』に我々が動いたことは《団体》には効果はなかった」
「僕の中に『巻き込まれた』は、ありません。もし僕が『あの頃』に参加していなかったら、母と会うことは今でもなかった」
僕は眠気を堪えていた。
いつもだったらとっくに就寝して、深く眠りに就いていた時間。
僕は目の前にいる、長椅子に座っているアルマさんの前で、椅子に腰掛けたまま眠ってしまった。
ーータクト。おまえが母君の為に用意していた部屋で私が脚を伸ばすことは出来ない。私には、出来ない……。
微睡みの中でアルマさんの声が聞こえたーー。
***
ーーおばさま、火加減を弱くしないと食材を駄目にしてしまうよ。
ーー話しかけるのではない。ああっ、失敗したではないかっ。
ーー炒り卵焼きにしましょう。
何だか騒々しい。
僕は、てっきり眠って見た夢の出来事だと思った。
そうか。僕はリビングルームで、リビングルームに備えている椅子で寝てしまったのだった。
焦げ臭い。
寝ぼける暇がないくらい、一発で目が覚めた。視野だって黒々と怪しく、部屋中に煙が充満している。
しまった。
シーサとアルマさんが泊まっていたことを忘れていた訳ではないけれど、油断をしてしまった。
キッチンでは、恐ろしくておぞましい創作が繰り広げられている。臆測ではなく、夢でもない。紛れもない、間違いでもない現実が、目の前にあったーー。
***
本音は、言えるわけなかった。僕だって、其処まで無神経ではない。
ふたりとも寝不足だろうに、僕より先に起きて朝食を作ってくれた。
朝からあたたかい食事を誰かと一緒に食べるは、今住んでいる家では殆どなかった。
僕の母さん。もとい、母はあれから十年以上経っているのに【国】から連れて帰ることが出来たのに、僕と一緒に暮らすことが出来ないままだった。
『あの頃』僕は【国】での実態を見てしまった。母は、其所にいた。身体が弱ってしまっていても【国】で働く女の人たちの支えをしていた。
【国】から帰っても、母の身体は今でも弱ったままだった。
「わたしは何度もおばさまに訊いたわ。家族がばらばらになってしまうかもしれない、それでもカナコちゃんとビートくんを《育成プロジェクト》に参加をさせるのと、訊いたわ」
「シーサ、私は何度も言った。バースが反対をしなかったと、私は何度も言った」
僕は珈琲を淹れていた。
珈琲豆をハンドル式のミルで挽いて、珈琲メーカーで、挽いた珈琲豆をドリップした。
出来上がった珈琲を用意した珈琲カップに注ぐ。そして、トレイ乗せてシーサとアルマさんがいるリビングルームに運んだ。
テーブルの上に淹れた珈琲が入っているカップを置く。
ふたりは、言い合っていた。
僕が珈琲を淹れ終わっても、ふたりは言い合っていた。
「おばさまのわからず屋」
シーサは顔をきつくさせて、リビングルームから出ていった。
「ほっとくのだ」
僕がシーサを追いかけようとしたら、アルマさんが激昂して僕を止めた。
「僕だって、シーサと同じ気持ちですよ。それなのに、バースさんが今回の件に動揺さえしていない様子がーー」
「『気に入らない』『がっかりした』と、言いたいのだろう。私にではなく、バースに直接掛け合え」
無茶苦茶なことを言う。
僕はアルマさんの性分を嫌というほど解っていたが、ここまで頑な人とは思わなかった。
「タクト、おまえはーー」
「僕はもう『子供』ではありません」
僕ははっきりとアルマさんに言った。
「失礼。そうだったな、おまえはとっくに『あの頃』ではないおまえだった」
アルマさんが僕を見て笑っていた。
「僕の方こそ、アルマさんに失礼なことを言って申し訳ありません」
僕は顔が熱かった。
啜る珈琲でも舌を火傷させてしまった。
「アルマさん、バースさんと喧嘩をしたのですね。だから、シーサと一緒に僕のことを訪ねに来た」
「タクトのところに行くの言いだしっぺは、シーサだ」
「便乗したには、変わりはありませんよ」
振り子時計から時を知らせる合図が9回鳴った。
僕たちは、鳴り終えるのを待っているかのように、口を閉ざしていた。
「アルマさん、隣に座って良いですか」
「構わない」
僕は飲みかけの珈琲が入っているカップをテーブルの上に置いて、椅子から腰を上げた。
長椅子に座っているアルマさんは、肘掛けに右手を置いて顔を右下にと俯くをしていた。
僕はゆっくりとアルマさんの左隣に腰を降ろした。
「僕は、あなたに会うことをずっと我慢していた」
「つまらない意地をはっていたのか」
「アルマさんらしい言い方ですね」
「タクト、おまえは私に何を言わせたいのだ」
アルマさんが僕の肩に寄り掛かっていた。
僕はアルマさんの甘い息を頬で受け止めていた。
「だから、会うことを我慢していたのです。会えば、やっぱりーー」
僕はアルマさんを、アルマさんの肩を両腕で包んで、僕の腕の中へとアルマさんを手繰り寄せた。
「私はどうかしている。私は、私は……。」
「『遠回しは逆に相手を不快にさせてしまう』誰が言いましたっけ」
アルマさんは僕の腕の中で小さく震えていた。
僕はアルマさんの柔らかい髪を右の指先で撫で下ろし、髪の先を指に絡ませた。
「私だって、ずっとおまえのことを覚えていた」
アルマさんの声は、僕の耳元でやっと聞こえるほどか細かった。
僕はアルマさんの髪から指先を解し、そのまま耳の裏を這わせ首筋に伝わせると、垂れる髪を肩の後ろへと寄せた。
アルマさんは、僕から離れない。僕の胸元に額をくっつけて、それから頬を押し当てながら息を吹かせていた。
「越えたい。でも、此れで勘弁してください」
僕は徐々に高ぶる感情を懸命に抑えていた。
アルマさんが僕の背中に腕を回して僕のことを抱き締めてくれていた。
僕は、アルマさんを求めることが出来なかった。
「十分だ。私も、此れでいいと心に刻ませる。だから、おまえが落ち込む必要はない」
アルマさんは僕から離れる。甘い息を吹かせて、僕の手を握ってくれた。
アルマさんの手は温かかった。
温かいから、僕で冷ましたくなかった。
僕もアルマさんと同じく、此れでいいと僕に言い聞かせをしたーー。
「タクト『先生』明日、学校でお会いしましょう」
僕はふたりの帰りを玄関で送っていた。
僕はシーサが言うことに身震いをしてしまった。
そうなのだ。
アルマさんとはいつ会えるかはわからない。だが、シーサは僕が勤務をしている大学の学生。付け足すと、僕が講師を勤めている科目を必修して、講義を受けていた。
「タクト、顔色が悪いぞ」
アルマさんは僕のことを心配して言っていただけだ。僕が深く気にすることは何もない、でもシーサが突いた言葉に凄く焦心があったに、否定は出来なかった。
けして、シーサに口止めをしようという魂胆はないが、アルマさんだけには知られたくない事実をシーサは知っているのだろうかと、不安で堪らなかった。
「わたし、学校の単位は実力で取ります」
シーサは笑っていた。アルマさんの手を引いて、来た路を歩いて行ってしまった。
気が抜けた。
安心して良いのかと、迷ってしまった。
家の中に入ろう。
玄関の扉を閉めて錠を掛け、ちょっと横になろうと、僕は寝室に向かった。が、寝るのは止めた。
寝室のサイドテーブルに置かれていた、文章が書き記されていた一枚の紙切れを手にして内容を読んだ途端、暫くは寝室で寝ることが出来ないと思ったからだった。
〔時々、タクトさんの自宅に泊めて貰うから、持ってきた衣料品及び、コスメチックの一部を置いときます〕
僕は咄嗟にベッドの下を覗き見た。
本当に、置いて帰った……。
どうりで僕の家に来たときのシーサの鞄は大きくて、しかも矢鱈とぱんぱんと膨れていた。
気付いた時点で、どうにもならない事実を突きつけられた、気がしたーー。
***
『仕事』をしている時が、落ち着く。
ころころと。その時、その時の気分で考え方を変えることはあるのだと、僕は僕に呆れた。
〔“光”で生きると“光”を活かせる〕
講義の時間が余ったので『講演』として、学生に語った。
「“光”は照らすだけでなく、生きる為の糧を産出に於いて不可欠。皆さんは基本の基本だと、ご存じでしょう。僕が何故、今更ながらのことを皆さんに語る理由……。は、時間が来たので、続きはまたの機会に致します」
僕は、講義の終わりを告げる鐘の音に耳を澄ませた。
学生たちは教室の席から立ちあがり室外へと向かっているのに、ひとりだけ残っている。
「時間稼ぎ。さぞかし大変でしょうね」
なるべく目を合わせないようにしていたが、やっぱりあっちから来てしまった。
「シーサ、此処は学校だよ。色々な人がいる、下手をすればあることないことでーー」
「『先生』がしっかりとしていれば、誰も何も言いません。と、わたしは思います」
負けた。僕は、負けた。
シーサが僕に見せる笑顔に、僕は叩きのめされたーー。