天使がささやく夜
雪と森に埋もれた山の奥。
それは最果てよりもさらに遠く、人の訪れを語らずに拒む場所であった。
ある時、その未踏の地に来客が訪れていた。
明らかに山登りに適さない格好だ。冬の制服とダッフルコートという格好の少女は、雪の上で何時間も仰向けになっていた。ふもとの学校に通う女子高生で、周りからはニイナと呼ばれている。
ニイナの体力はもはや限界にあった。雪は止み、空の青は濃くなり、夜が近づきつつある。マイナス10度を下回る低温は確実に少女の体力を蝕んでいたが、ニイナは死を恐れたりはしなかった。むしろ、死神が手を差し伸べてくれるのを心待ちにしていた。
意識が遠のく。まぶたが重くなり、目の前に銀の粒子がちらつくのを幻視した。
それは、あまりにも幻想的で美しい星々の集い。現実での絶望など思わず忘れてしまいそうなほど。
「おほしさま きれい……」
「これは細氷よ」
突然の声。ニイナは驚いたか、その驚き具合に見合った反応を示すことができない。
目だけを動かすと、白い薄衣を身につけた少女が見下ろしているのに気づく。銀色の長い髪と、水色の切れ長の瞳にニイナの視線は釘付けになる。
(きれい……)
まるで銀色の点滅たちを従えているかのよう、あるいはそれらを人間の形に落とし込んだ風にも見えた。明らかに寒そうな格好の少女にニイナは声をかけた。
「あなたは……?」
「私は天使。細氷の訪れとともにこの世界に降りてきたの」
「さいひょう……?」
「あなたの目の前にちらついてる光たちのこと。この国ではダイヤモンドダストとも呼ばれてるわね」
その単語なら、聞いたことがある。だが、細氷の天使とはあまりにも非現実的な。
ニイナがそう思ったのも一瞬のことだ。意識のほとんどを向こう側へ投げ出したせいか、その非現実的な存在を受け入れる余裕ができたのであった。
むしろ、死に際に敵意を持たない人に会えたのが嬉しくて、もっと会話をしたくなってきた。
「すてき……」
「そうね。お持ち帰りしたいくらい」
一瞬、自分のことかと思い、ニイナはドキリとした。そんなはずないのはわかっているのに。でも、天使さまにまっすぐ見つめられると、ついそう誤解したくなる。
「あなた、どうしてここにいるの? 人間がこんなところにいたら命を落とすわよ」
「そのために きたんです……」
天使の水色の瞳が驚きに見開かれる。
ニイナは細々と説明した。自分は志望校に落ちて、家族に見捨てられ、学校にも自分の居場所がなかったことを。半年以上は耐え抜いたが、もはや精神的に限界であったことを。
「さいごに すてきなもの みれました。てんしさまにも あえて しあわせです……」
「悪いけど、あなたの命をこんなところで落とさせやしないわ」
きっぱりと天使はのたまった。救わないで、と反射的に言い返そうとした瞬間、ニイナの顔が驚愕に染まる。
天使の白い薄衣の背中から、透き通った白い羽根が現れる。羽根はそれ自身が光っているかのようで、地表をさすらう糠星の中、自身の羽根の逆光を受けて天使は優しく微笑んだ。
「落ちる前に、私が拾うから。そして、あなたを連れてってあげる。どこよりも遙かに遠いところへ」
ニイナの心が溶けた。ほとんど身体の自由の利かない状態で、涙だけが静かに流れる。彼女に会えただけでも、自分のろくでもない人生にも意味があったような気がした。
「あり がとう」
かすれた声で言い、ニイナはまぶたを閉じた。
消えゆく意識の中で、唇に柔らかいものが当たった感触があった。
(あたた かい……)
雪と森に埋もれた山の奥。
そこには人はなく、音もなく、地を這う銀のささやきたちもとうに姿を消していたのであった。