第82話 寒空の試行
鎌倉では見ることの叶わない無数の星々が、冬の夜空に瞬いている。
その輝きを、手が届きそうなほどに近く感じながらモービルは風を切っていた。
七里は、俺の百メートルほど隣を併走している。
「寒くー。ないですかあー?」
カニスが問うてくる。
「あ、ああ。そういえば。寒いですね」
言われて初めて思い出した。確かに寒いし、頬も痛い。
でも、そんなことは元より眼中はなかった。
俺の視線はただ前だけを向いている。
「ごめんなさいー。私たちは割と寒さには強い方なのでー。温度調節の設備にはお金をかけてないんですよー」
「大丈夫です。作戦のことで頭がいっぱいで、寒さなんて忘れてましたから」
「じゃあー。これからはもっと寒くなくなりますねー。そろそろー。人間さんでもー。プドロティスが見える近さにー。なると思いますからー」
「わかりました」
カニスの報告に、俺は清冽な山の空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐きだした。
数秒後、まず俺の視界に飛び込んできたのは、山の山頂にある木でできた『かまくら』だった。巣に篭るというドラゴンの本能か、乱雑に斬られた木々を組み合わせて造られたそれは、もはやかまくらと呼べるような生易しいものではなく、ちょっとした洞窟といってもいいレベルの規模がある。
次いで、モビールから放たれた強烈な光が、闇を照らしだすと共に、その内実が露わになった。
邪竜プドロティス。
それは、全く王者の態度で、奥多摩で一番大きな山の頂に堂々と鎮座していた。
その巨躯は、今まで俺が遭遇した全ての生き物と比ぶべくもない、圧倒的な威容を誇っていて、人が腰かけても余りあるほどの巨大で毒々しい緑の鱗が、モービルの白光を不気味に照り返している。
とぐろを巻いて寝そべるプドロティスが、その尻尾と身体で造り出した円状の空間。そこに我が子のように大事に守られているのは、石化させれた冒険者と異世界人たちだ。物言わぬ石像と化した彼らは、苦悶の、あるいは起ったこともわかっていないような呆けた表情で、こちらを見ている。
プドロティスの舌が、彼らの命をすするようにチロチロと石像の表面を撫でていた。
その顔に至っては、描写することすら許されない。プドロティスの、その二つの双眸を見た者は、たちまち『麻痺』のバッドステータスに襲われてしまうからである。
映像とは違う、本物の壮絶な迫力に、俺は唾で喉を鳴らす。
「案山子!」
七里が行った。
スキルの効果範囲ぎりぎりまでモービルで近寄って、スキルを発動する。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
地の底を震わせるような咆哮と共にプドロティスはその翼を広げ、大空へと舞う。
そのプドロティスの羽ばたき一つで烈風が辺りを襲い、俺はモービルから振り落とされないように、カニスの腰を強く掴んだ。
たちまち、マオが急旋回でプドロティスに背中を向け、陽動を開始する。
「第一段階はー。成功ですかー?」
プドロティスに背中を向け、マオとある程度の距離をとって並走する態勢に移りながら、カニスが問う。
口調は間延びしたように聞こえても、その耳はへたり、尻尾はピンと直立していて、彼女の緊張はしっかりと俺にも伝わってきていた。
「ええ。とりあえず、ちゃんと『カロン・ファンタジア』のスキルには反応してくれたようですから」
これでゲームのシステムが通用しないかもしれないという最大の懸念は取り払われた。
デバイスの端に映る双方向中継の映像で、ちらっと、瀬成たちの動向を確認する。俺たちの陽動の成功を受けて、彼女たちも、獣人たちのモービルに乗せられて、救出に向けて動き始めたようだ。
よし。これで後は、俺たちが死なずに、プドロティスを奥多摩ダムの自衛隊まで誘導するだけだ。
とは言うものの、ここから先は、俺に出来ることなんてたかがしれている。
俺の役目は、ひたすら振り落とされないようにカニスにしがみつき続けることと、タイミングを間違えないように敵のヘイトを集める『臭い袋』のアイテムを使用すること。この二つだけだ。
簡単な任務だ。
――敵の攻撃を一発でも喰らえば、命が吹き飛んでしまうことを除けば。
「お義兄ちゃん。あと十秒でスキルが切れるよ!」
「わかった」
俺は手早くコマンドで『臭い袋』を発動する。
「わふうー。本当に臭いですねー」
カニスが鼻をひくつかせる。
「そうかな? ごめんね」
俺としては、『香辛料のきいたカレーっぽい匂いだな』、くらいにしか思わないのだが、鼻の利く者にとってはきついらしい。
「いいえー。仕方ないですよー。それより、これから動きが激しくなると思うんでー。舌を噛まないように気を付けてくださいねー」
「わかった」
俺は奥歯を噛みしめ、より強くカニスの腰を掴んだ。
グエエエエエエエエエエエエ!
プドロティスの咆哮が近づいてくる。
右、左、下。
ゴオオオオオオオ!
俺の上を、ヘドロのような色をしたドラゴンブレスが通り過ぎる。
右、右、左、上。
すぐ真下を、禍々しい棘のついた尻尾が薙いだ。
「七里。そろそろ交代頼む」
「わかった」
プドロティスの鳴き声が遠くなる。今度は七里がアイテムを使用したのだろう。
アイテムの使用は、スキルの使用に比べればクールタイムはほとんどないが、カニスの集中力的にちょこちょこ休憩は挟んだ方がいいだろう。
「普通に操縦上手いじゃないですか」
「それなりにー。お金をかけた機体ですからー。下手でもそれなりに使えるんですよー」
俺が誉めると、カニスはそう言って首を振った。謙遜だろうか。
機体がすごいのか操縦者の腕が良いのかは不明だが、とにかく俺たちだけだったら、プドロティスをつかず離れずの、アイテムやスキルの効果範囲内で陽動する作戦なんて、どう考えても実行不可能だったことは確かだ。
体感では一時間にも二時間にも思えた逃避行だったが、実際に二十分も経ってないかもしれない。
七里とお互いに三回ほど交代を繰り返した頃には、奥多摩ダムを臨める距離にまで、プドロティスを引きつけることができた。
眩しい。
自衛隊のサーチライトが、俺たちを補足したのだ。
しかし、攻撃はない。
本当に自衛隊の人たちは俺たちを助けたいと思っているから、協力的な行動を取ってくれてるのだろうか?
そんな都合のいいことを考えてしまう。
まあ、とにかく、予定通りだ。
全てが予定通り。
やがて、モービルが貯水池に差し掛かる。
後、少し。後、少しで、作戦は成功だ。
希望の目印とするように、俺がサーチライトの灯りを真正面から見つめた、まさにその時――
ブウン!
俺の眼前に出現したのは、ドーム状に広がる緋色の壁。
それは無限に続くようにも見え、あっという間に俺たちの視界を埋め尽くす。
「わふっ!」
カニスが短く叫んでハンドルを切る。
高度が急激に下がり、俺の足のつま先が水面を撫でた。
「な、なんにゃ!?」
マオが上擦った声を上げる。
「くそっ。このスキルは、まさか――」
「……真紅の牢獄!」
俺の思考を引き受けるように、七里が苦々しげに叫ぶ。
それは、逃げ足の速い敵を囲い込む、単純な支援魔法。
一瞬、判断に迷ったのは、その効果範囲があまりにも広すぎたからだった。
普通の真紅の牢獄の効果範囲は、せいぜいが半径五メートル程度。
こんな規模の真紅の牢獄を維持するには途方もない精神力と、魔法詠唱のスキルレベルが要求される。
こんな芸当ができるのは――
「よう。また会ったな。道化なる裁縫士」
耳朶に響く気怠い声。
「下級クラスの魔法とはいえ、不可視化と真紅の牢獄の同時詠唱は、さすがに疲れましたわ」
不機嫌なお嬢様口調の呟きが、それに続く。
貯水池に浮かび上がるのは、鯨に似た召喚獣の巨大な魚影。
その背中には――
アイカに膝枕されながらくつろぐ、『首都防衛軍』ダイゴの姿があった。