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中編

「……うん、安定感がある。声質も、音程も、それぞれでは安定している。ひょっとすると、相当な実力者の集まりなのかもしれないぞ?」

 基礎がしっかりしているのは素人のファウストにも分かった。

「必死で努力して、ようやくたどり着いたのがこのステージなのだとしたら? 僕は哀れむべきなのか? それとも祝福するべきか? 今はまだ分からない。彼らのことを何も知らないからね! ブログとかやってたら読んでみたいなあ!」

 ジライヤが、笑いをこらえきれないといった感じで顔を背け、お前ちょっとマジで黙れやとつぶやいたような気がしたが、絶叫のせいで何も聞こえなかった。

「んんん?! 待って待って待って?! 今、テノールの男! 明けの明星って言った? 白目を向いている女性の、ボコー! ボコー! っていうのは、もしかして!」

 わずかに聞き取れた二つのヒントで、ファウストは閃いた!

「これ校歌だ!!!」

 ファウストは両手で頭を抱えた。

「アレンジが違うから気がつかなかった!!!」

 一瞬だけ合唱隊の何人かがファウストの方を見たような気がした。聞こえているはずないのだが。

「なんてこった生徒会が! 生徒会室において! 校歌のバージョン違いをBGMにしているなんて!」

 本来の校歌とはかけ離れているのでリミックスというべきかもしれない。

「挑戦的! 背徳的! 神をも恐れぬ所業!」

 この場合は神が学校ということになる。法人格である。

「自らが神に取って代わろうとするかのごとく! 大胆な上にも大胆な! 首謀者は! 会長その人!」

 右端の女性がサッと左手をあげる。どうやらリーダーのようだ。

「育ちが良さそうで、きっと将来は音楽の道に進むのだろう! 家族は音楽一家に違いない! 音大も楽に受かるだろう!」

 リーダーの合図を見た他のメンバーは、それまでの反復をやめ、らー、と長く伸ばし出す。声が重なっていく。奇妙な和音である。

「いよいよか?! 来るのか?!」

 ファウストは身を乗り出して身構えた。何かが起こる気配ぷんぷんである。

「BGMの影響力たるや、絶大だな!」

 わざわざ会長が準備させるだけのことはある。権力者の発想である。

 合唱団のロングトーンのテンションがピークになり、照明が落ちる。スポットライトが一つだけ点くや否や、バコーン!というけたたましい音を立て、扉が開かれた。

「おお開いた! あそこから入ってくる気だな!」

 いつの間にかスモークが焚かれていて、スポットライトの一条の光がまっすぐ伸びている。照らす先にはまだ何もいない。これから出てくるらしい。

「まだ引っ張るか?! 合唱隊の酸素は限界だ!」

 実際にはロングトーン中にもちょっとずつ息継ぎはしているだろうが、それでもかなり辛そうである。

「急に入ってきた! いざ入ってくるとあっけないものだ!」

 最初に姿が見えたのは、半裸の成人男性である。二人。目隠しをされ、猿ぐつわをかまされている。

「なんてビジュアルなんでしょう!!」

 ファウストが驚いている最中にも現象は続く。二人の男に続いて、台車が入ってくる。

「うほうおおおう!! なんてこった! 台車を曳かせているんだ! 馬車の馬のように!」

 台車といっても普通ではない。スポットライトを浴び、ピンク色に輝いている。車輪は白く、キラキラ光る石がびっしりと散りばめられている。優雅さと気品を漂わせている。

「!!! あ、あれが、会長……!」

 台車に立ち、腕を組んでいる人物。顎を引き、前を睨み、不適な微笑みを浮かべている。

「じょじょじょ! 女生徒なのか!」

 ファウストは仰天した。会長が女性である可能性をまったく考えていなかった。

「しかも! 小柄!」

 マクベスは170センチくらい、ジライヤは180を越えているだろう。台車に仁王立ちの会長は、ファウストの位置から見ても、150センチくらいではないか。

「肌が白い! 不健康に白い!」

 透き通るような、とか、フランス人形のような、などという比喩はそぐわない。

「深海のカニみたいな白さ! 日光を浴びずに育ったと言われても違和感はない!」

 馬車のスピードは速くない。むしろゆったりと進んでいる。会長の長い髪も、さほど揺れていない。

「髪が長い! 腰まである! そして色! なんと鮮やかな! 濡れ羽色っていうの?!」

 台車はもったいぶるようにゆっくりと進む。中心である玉座を通り過ぎ、部屋の端まで行って、また引き返してくる。

「見せつけるように! なんなら! オーディエンスからよく見えるようにという心遣いか!」

 方向転換するときには、会長は手綱を足で思いっきり蹴るように引く。腕組みしたままだ。

「おふっ!」

 二人の男性は喜悦の歓声をあげる。猿ぐつわ越しでも喜んでいるのがわかる。

「! 片方の成人男性! どこかで見たことがあるかなーと思っていたけど、今の声で確信に変わった!」

 ファウストは内心で、どうか違っていてほしいと願っていた。その願いは叶わなかった。

「うちの担任!」

 普段は教壇から偉そうに指図してくるくせに、放課後は半裸で女生徒にむち打たれて喜んでいる。

「性癖は人それぞれですなー」

 ファウストも腕を組んで、困った顔でうなずいた。

「ああはなりたくないですけどねー」

 首を逆方向に傾け、さらにうなずいた。

「本人が気持ちいいなら、よしとしますかー」

 もう一度逆に倒してうなずいた。早くいなくなってほしかった。

 馬車は二往復して、ようやく中央で止まった。照明は見ていて気持ち悪くなるくらい激しく点滅し、合唱はクライマックスを通り越して全員倒れそうである。馬車を止めるとき、会長は両手で手綱を握り、背負い投げの要領で後ろに引き切った。全体重を、肩に掛けた綱にぶつける。体当たりのような体勢で、全く躊躇も容赦もない。

「うおぎゃ!」

 二人の男性教師はもんどりうって二人同時に倒れた。両手両足をばたつかせ、猿ぐつわの隙間からは泡が溢れでる。

「いったか?!」

 ファウストの疑問が解決される前に、男性は二人とも、スタッフらしき生徒に引きずられて退場していった。

「アーーーー!!!!」

 合唱団も絶頂を迎えたようだ。すでに何人か後ろに倒れていたが、最後にリーダーも白目のまま後ろへと倒れていった。

「果てたな!」

 ファウストが指摘するまでもない。合唱団も同じようにスタッフに引きずられていった。

 さっきから打撃音がする。なにかと思えば、会長が台車を破壊していた。スレッジハンマーを台車へと振りおろしている。

「ロックスターが! ドラムセットやギターを破壊するかのごとく!」

 会長の表情は、それほど狂乱でもない。ただし凄絶な笑顔である。

「ハーフのような端正な顔立ち! 病的な白さと相まって、一目でただ者ではないのはわかる!」

 これほどの演出は不必要ではないか。そもそも、いったい何のためにやっているのか。

 会長は台車を破壊尽くした。床にはキラキラとした装飾品が散乱している。熟練のスタッフたちが手慣れた様子で片づけてゆく。

「あう!」

 一人のスタッフが会長に尻を蹴りあげられた。

「なんというパワーハラスメント!」

 ジャージ姿のスタッフは文句も言わず、また作業に戻る。見る見るうちに片づいた。徐々に照明も落ち着いていく。

「私がエイメだ!」

 会長は叫んだ。まだ興奮しているのか、左右にステップを踏んでいる。落ち着きなく辺りを見回している。

「名前をエイメというのかな? ステージでウロウロする様は、まるでプロレスラーだ! メイン戦を控えた!」

 ホール内の空気感も落ち着いてきた。エイメは首をグルグル回したり、手をブラブラしたりしている。

「文句があるならかかってこいよこの野郎!」

 エイメは誰にともなく毒づいている。ホールにはマクベス、ジライヤ、そしてファウストしかいない。

「誰に言っているのか? 少なくとも僕じゃないことは確かだ! まるで眼中にないものな!」

 ファウストはソファーの端っこで身を小さくしている。独り言も聞こえていないと思っている。

「それにしても、なんという存在感だろう! その身体は華奢でも、放たれるオーラは! 途方もない! 戦闘能力はマクベス先輩やジライヤ先輩には及ばないだろうし、もしかしたら普通の女生徒並の体力かもしれない。いや、平均よりも身体は弱いかもしれない! なのに! あの迫力! 精神だろうか? それとも魂?!」

 マクベスらとは異質の迫力を感じている。

「なんというか不安にさせられる! 女性的な優しさなど皆無! 安心感も皆無! 有るのは恐怖! 間違いない! あのオブジェのモデルはエイメ会長だ! オブジェの怖さなど! 本物に比べたらアリんこも同様だ!」

 エイメはオブジェの前、玉座の前に立った。ウロウロすることもなくなった。

「虚空をずっと見つめている! 睨みつけている! ああ怖い。怖いぞ! なんて怖いんだー!」

 ファウストは特別な存在になりたがっていたが、今はそうでもない。単純に、見つかりたくないと思っている。

「あんな目で睨まれたら! びくついちまうだろう! 今日、ここに来るまでに何度も死にかけたけど、恐怖の種類が違う! どう違う?! 前者は単純な恐怖だ! 生命の危機! 分かりやすい! 後者は、漠然とした不安だ! 不安で不安で仕方ない! まだ正体が分からないという恐怖! いつまでたっても解決することのない! それどころか! 時間が経つほどにどんどん増幅される恐怖だ!」

 エイメがどんな人間で何を考えているかが分かれば恐怖も和らぐかもしれない。だがエイメの姿には、そんな期待を抱かせる隙はなかった。

「この、人間の恐怖心の源泉とも思える存在に! エイメ会長に! マクベス先輩は、僕を紹介してくれるという! やめてほしい! 帰りたい! だが逃げることはできない! 文字通り命がけで僕を守ってくれたマクベス先輩を思えば、やっぱいいですなんて口が裂けても言えない! 言うことはできないんだ! だから僕はこうして座っている! これから何が起きるのか! 注意深く見ていよう!」

 ダン!という音を立てて、エイメは靴を踏みならした。ファウストの独り言は聞こえていないはずだが、この一撃でファウストは沈黙した。口をほの字にしたまま停止してしまった。

「まーくーべーすーぅ」

 エイメが甘えるような口調で言う。

「怪我はないのかいマクベス? 私は心配のあまり、また特注の馬車を壊してしまったよ?」

 エイメはマクベスが立ち膝でいる所まで降りていった。

「面目次第もございません。敵を取り逃がしたばかりか、会長にご心配をおかけするなど、撃剣抜刀隊の隊長にあるまじき失態! このていたらく! かくなる上は、いかような責も喜んで受け入れますゆえ、なにとぞ! つまらぬご容赦などおかけ下さいませんことを! 殊に望むものであります!」

 マクベスは背筋を伸ばし、毅然とした声で言った。

「マクベス? んもー! マクベスー!」

 エイメはさらにマクベスへと近づいてゆく。マクベスの姿勢は崩れることはなかったが、わずかに身体が後方向に傾いたような気がした。

「私が今から言う言葉は、マクベスが望んでいる言葉と正反対だっていうのかい? そんなの悲しいじゃないか! 私がマクベスを責めるようなことを言えないって知っていて、そんなことを言うのならば! それはマクベス! 意地悪ってやつだー」

 もはやエイメはマクベスの目の前に来ている。かなり近い。ファウストの手は震えのあまり、指同士が摩擦で熱くなっている。

「はい! 持ってきて! 早く! びゃーって! 持ってきて早く!」

 エイメは急に横を向いて、扉の向こうに言った。スタッフは常に待機しているらしく、すかさず音もなく入ってくる。

「な、何を持ってこさせるつもりなんだ?」

 エイメが横を向いたのでファウストには呼吸できる瞬間が訪れた。震えは止まらない。

「飲み物?」

 スタッフが持ってきたのはペットボトルだった。小さめのサイズである。

「いいかいマクベス? 私が言いたかったのは、この言葉だよ。お疲れさま。この言葉だけなんだよマクベス」

 無言でペットボトルをスタッフからむしりとり、顔はマクベスを見たままでスタッフのわき腹をぐりっとした。スタッフは身悶えながら退場していった。

「ありがたいお言葉! そのお心に返すべき言葉を私は持っておりません! ならば行動で! 行いをもって示すまで! 必ずや次回こそは……、え……」

 エイメが人差し指を縦にしてマクベスの唇に押し当てた。これ以上しゃべるなという意味だろう。

「う……」

 ファウストの震えも止まった。

「なんだろう。この、胸を突かれたような衝撃は……」

 鳩尾の上の辺りに軟球をぶつけられたような感覚だった。

「……」

 マクベスの柔らかい唇に、エイメの白い指が食い込んでいる。それほど強く押し当てているのでもないだろうが、マクベスは動けない。

「マクベス先輩の唇! ああ! 唇!」

 もちろん口紅など塗っていない。健康的な朱色の、形のよい唇が、今は不格好に歪められている。

「特に下の唇が! プルンとした下の唇が!」

 先ほどの恐怖もどこへやら、ファウストの心はエイメグッジョブグッジョブと叫び続けている。

「マクベス先輩の前歯と! エイメ会長の指との間にあるもの! その弾力を! 僕は想像している!」

 ファウストにとっては想像だけで十分であり、想像だけで容量オーバーであった。

 マクベスが放心状態なのに満足したのか、エイメは指をそっと離す。下の唇が指にくっついていたのがはがれ、プリンと揺れ、ファウストが奇声を上げた。

 エイメはマクベスの目をじっと見たまま、なにも言わずにペットボトルのふたを回して開ける。静寂の中に、プラスチックのふたが開くプチプチという音が流れた。

「あ、ありがとうございます……」

 マクベスの声は小さかった。

「こんなマクベス先輩の声は聴いたことがない! いつもの勇敢さが嘘のようだ! 恐るべきはエイメ会長! 指一本でマクベス先輩から何かを奪ってしまった!」

 かといってそれほどマクベスが動揺しているという風でもない。真顔で戸惑っているといった様子だ。

「……」

 ペットボトルを受け取ろうとしたマクベスの手を、エイメは無言で制した。自分でペットボトルを差し出しておきながら、マクベスが受け取ろうとすると、さっと引っ込めるのだ。

「飲ませてあげる」

 エイメの声は甘えるような、鼻にかかるような、とにかく官能的な響きであった。

「ええっ? もっと来るの?」

 ファウストは限界まで前のめりになっている。

「え、いや、大丈夫です……」

 マクベスもさすがに動揺しだした。

「いいから。あーん」

 エイメは揺るがない。口を開けろと迫る。

「あ、あの、ほんとに」

 マクベスの腰が引けている。不安定な体勢になっている。

「来るのか?! 受け入れてしまうのか?!」

 ファウストは生唾を飲み込みながら凝視している。

「いーいーかーら」

 エイメの追撃は容赦ない。ずんずんと、マクベスの口へめがけて突き進める。

「あ、こ、こぼれます」

 ペットボトルは斜めになっていて、今にも中の液体がこぼれ落ちそうである。

「水のようだが! 少しくらいこぼれたって構わないだろうに! ぎりぎりでこぼさずにプレッシャーを与えているのか!」

 極限まで追いつめられ、マクベスはやむを得ず口をペットボトルの下へと持っていった。

「こぼれた水を下で受け止めようとするのか? ……ああ!」

 ファウストは見た。マクベスの口が開いた刹那、エイメはペットボトルをひねり込むように突き入れた。

「……はあっ!」

 ファウストは甲高いため息を出しながら顔をのけぞらせる。

「おおおううう!」

 ペットボトルの飲み口はマクベスの唇を割り込み、歯列に挟まれながら、5センチほども突き立てられている。中身の水は一気にマクベスの口腔に流れ込んだ。

「うううおおおう!」

 マクベスの口の横から、飲みきれない水が滴り落ちる。のどを伝って制服の胸にしみこんでゆく。

「マクベス先輩! ……ああ! 先輩!」

 ファウストはソファーの肘掛けを辛うじて掴んではいるが、完全に立ち上がっている。この光景を少しでも見逃したくないと、瞬きを我慢している。

「お疲れさま。私のかわいいマクベス」

 口ではそう言いながらも、エイメは水をそそぎ入れる手を緩めない。マクベスも必死で飲もうとしているようだが、どんどんと溢れだしている。

「マクベス先輩の、あの完璧だったマクベス先輩の! 体勢が!」

 腰も膝も完全に砕けており、尻を突き出すような格好でなんとか耐えているが、今にも尻餅をつきそうであった。

「いいかマクベス? 私はお前のことをよく知っている。このまま負けっぱなしで終わるようなタマじゃない」

 エイメは水をマクベスの口に注ぎつつ、腕をマクベスの首に回した。肩を組むような姿勢だ。

「ち、近い近い!」

 エイメとマクベス。両者の顔が触れ合うほど接近していた。

「生徒会最強の戦士が? 負けたままでいいと思って、ないよねぇ」

 エイメはマクベスの耳元で言う。肌と肌が触れ合うかのギリギリの距離である。

「私は知ってる。最後には絶対に勝利してくれると。そのために力を蓄えているんだよね?」

 マクベスは横目でエイメを見ながらも、首を縦にも横にも振らない。ペットボトルをくわえたままでもできただろうが、そうはしなかった。

「なんという! なんという追い込み! あのマクベス先輩が怯えているのか?!」

 マクベスが首を振らなかったのは恐怖からなのかどうか、ファウストには分からない。だが、相当なハイプレッシャーを受けていることは想像に難くない。

「ねえ? マクベスが、私の期待を裏切ることなんか、絶対あり得ないよねえ?」

 ペットボトルの中身はもうすぐ無くなる。無くなったらマクベスは解放されるのだろうか。

「びしょびしょだ。ああ、びしょびしょだよ!」

 ファウストは濡れたマクベスの制服を心配している。

「どの辺りまで濡れてしまったのだろう? 想像してはいけないと思いつつも! 脳が勝手に想像してしまう!」

 いよいよ中身は1センチくらいまでになった。完全に無くなる前に、エイメはペットボトルをマクベスから引き抜いた。

「うっ、ううはっ」

 マクベスはうめき声を発しながら呼吸を繰り返す。ずっと無呼吸で水を飲まされていたのだろう。エイメは引き抜いたペットボトルを、そのまま床へ投げ捨てた。叩きつけるように。わずかに残った中身も飛び散る。

「おおお! もったいない!」

 ファウストは思わず駆けだしてペットボトルを回収したかったが、そこはぐっと堪えた。

「ちょっとこぼしちゃったね。せっかく飲ませてあげたのに」

 まだマクベスの首に残っている水滴を、エイメは指先ですくいとる。

「ま、まさか……!」

 エイメは濡れた自分の指先を、マクベスの唇へと擦りつけた。

「あー、あああ……」

 ファウストは口を押さえ、目を見開いたまま固まった。

「う、ふっ、うう」

 マクベスは眉根を寄せ、ついに泣きそうな顔になる。唇は左右にこねくり回され、蹂躙され、白い歯が見え隠れする。

「こっちにも垂れちゃって。あらあら」

 逆側の首についた水滴も同じ指ですくいとる。マクベスは泣く寸前で踏みとどまったまま、身を堅くし、さらなる蹂躙に耐えようとしているようだ。

「……舐めない?」

 エイメは冷たく言い放つ。

「決して強制ではないという、逆にとてもひどい方向性! 自分の意志で行っているかのように誘導している!」

 マクベスは、信じられない、というような目で、呆然とエイメを見ている。エイメからは、許すような素振りは全く見られない。ただ、黙って、濡れた指先をマクベスの鼻先に突きつけている。

「水滴は指先から落ちそうで落ちない! まさに舐めごろ! これも計算のうちか!」

 マクベスが、ゆっくりと、震えながら、舌を出した。唇の外にでた舌の部分はごくわずかである。

「ああ! 迎えに行かれるのですね! その可愛らしい舌先で!」

 ファウストはもはやソファーから離れ、なるべくよい位置や角度で見ようと、あちこち動き回っている。

 マクベスは、まだ信じられない、という表情のままだ。エイメがさせようとしていることも、自分がしようとしていることも。

「どうやら完全にエイメ会長に飲まれてしまっているようだ! 思考力を奪い、否応なく従わせる! 生まれながらの支配者!」

 エイメに戦闘能力は必要ないのだろう。誰もが命令に従うのだから。

「ぐむっ!」

 マクベスがくぐもった声を出した。舐めようと舌を出して近寄っていた途中で、急に、エイメの指の方から突っ込んできたのである。

「わーお!」

 ファウストは前のめりの体勢のままで飛び上がった。空中で足をバタバタさせた。

「んんん!」

 エイメが突き立てたのは人差し指と中指の二本。その二本でマクベスの口の中を激しくかき回す。

「んんんおおお!」

 エイメの指は、マクベスの舌に絡みつきながら、何度も出し入れされる。じゅぷじゅぷと音を立て、一気に擦りあげられた。

「ん! ん! ん! ん!」

 舐めようと顔を上に伸ばしていた位置で、エイメの手首と指だけが小刻みに激しく振動している。

「そんなに激しくされたら!」

 ファウストの予想は当たったのかどうかは分からないが、マクベスの身体は、腰を中心に何度か大きく痙攣した。

「ああん!」

 そして横座りになるような形で尻餅をついた。身体が落ちたので、当然エイメの指はマクベスの口から抜けている。

「ふん」

 エイメは笑顔になった。睨むような、恫喝するような笑みであった。荒い呼吸をしながらも無意識でスカートの裾を整えようとするマクベスの、その顔に、エイメは二本の指を擦りつけた。唾液を拭おうとしているのだろう。

「あまりにも非道! あまりにも無慈悲! まさかここまでとは! いくらなんでも!」

 マクベスは顔を真っ赤にして俯いている。その姿は弱々しく、痛々しかった。

「マクベス先輩を心配し、労うようなことを言ったのは偽の姿! ハンマーで馬車をたたき壊す、あの悪魔のような姿が本性だ! 僕は本物の悪魔を目の当たりにしている!」

 エイメはゆっくりと立ち上がった。その表情は満足げである。ほんの少し、頬が紅潮しているかもしれない。病的に白いことには違いない。

 ファウストは慌てて目をそらす。一挙にまた恐怖心がぶり返してくる。こちらに向かって来られたらたまったものではない。ファウストは斜め下を見ながら体を縮こませ、斜め後に少しずつ下がっていった。

 エイメの次なる標的はもちろんファウストなどではない。ジライヤである。ファウストがちらっと盗み見ると、すでにロックオンされていた。エイメは突っ立ったまま、足下に崩れ落ちているマクベスを従え、じっとジライヤを見据えている。たっぷりと時間を使う。

 ジライヤはエイメの方は見ていないようだ。頬は少し赤い。マクベスの乱れようを間近で見せられ続けていた結果だろう。挑戦的な笑みは維持されているが、視線は幾分虚ろで、何もない中空を漂っている。

 ジライヤを睨みつけるエイメと、それに気づいていながら知らぬ顔のジライヤ。同じ構図のまま時間だけが過ぎてゆく。ファウストはゆっくりと、音を立てないようにソファーに座った。

「もう一人の可愛いやつ! じーらーいやー?!」

 またしても猫なで声。これが偽りのフォルムであることをファウストは知っている。

「ここに控えてございます」

 ジライヤは涼しい顔で応えた。

「大した肝っ玉だよ!  平気の様子だ!」

 ファウストは感嘆した。崩れ落ちたままのマクベスとは対照的である。

「私の可愛いジライヤ! ジライヤジライヤ!」

 エイメは脇を締めて両手を広げ、一歩二歩と、ジライヤの方へと歩み寄る。大股で、上下動が大きく、ゆっくりとした足取りである。

「けれん味たっぷり! 歩き方ひとつとっても!」

 演技的な言動は、生まれつきだろうか。ファウストが目指しているものと、方向性は似ていると思った。

「いいや! 似て否なる! 僕よりもよっぽど邪悪だ! 悪魔的なカリスマ性を生まれ持っているからこその! なせる業!」

 ファウストのように、単なる大げさで変な語彙なのではない。見るものがどのように受け取るか、計算しつくされている。

「もっと顔をじっくり見てもいいかい?」

 エイメは、ひざまずいているジライヤの顔の前まで来て言った。

「もちろんどうぞ! 日に焼けた、汚い顔ですが!」

 ジライヤは自信たっぷりな笑みを浮かべ、きっと顔を上げた。

「威風堂々とはこのことか! あのエイメ会長を前にして! なぜ堂々としていられるのだろう?!」

 虚勢かもしれないし、やせ我慢かもしれない。ファウストには読みとる術はなかった。

「汚い?! もう! そんなこと言ったらおこだよ!」

 エイメは甲高い声で言った。

「今! 僕の全身に鳥肌がたった! 強烈な悪寒! 悪魔の嘲笑が聞こえた! 地獄の釜の口が開いたのだ!」

 両手で体を抱きながらファウストは叫んだ。

「エイメ様の前では、どんなしゅっとしたハンサムガールも、ふわふわ愛され女子も、一人暮らしキッチンの三角コーナーのようです!」

 ジライヤが独特の表現でエイメを称える。

「おおジライヤ! 好きよ! 好きよ!」

 エイメは右手でこめかみを押さえながら、斜め上を仰いだ。

「波長が合うというか、気が合う二人なのかな?」

 マクベスは真面目で実直だったので、エイメはやりにくさを感じていたのかもしれない。ファウストの胸の中に希望の光が射し込んできた。

「エイメ様に比べたら、あたしの顔など、底なし沼にはまったヤンバルクイナのごとブオっ!」

 ジライヤの賛辞はエイメによって遮られた。エイメの左手が、ジライヤの口を左右から挟んだのだ。

「中指と親指で! 顔ごと掴むように! 唇は不格好に飛び出している!」

 頬の肉越しに歯列を上下に割り裂かれている。これ以上、ジライヤは言葉を発せられない。

「私と比べるのは違うと思う」

 お前ごときが、というようなニュアンスである。

「みょうみまけもまいままん……」

 ジライヤは口をロックされたまま謝ろうとしているらしい。

「見たか! あの恐ろしい顔! それでも僕の心は落ち着いてゆく! あの表情こそが正体! 正体を隠して演技されいた方が怖かった! 今のエイメ会長の顔は氷の彫像のように冷たく、そして獲物を狙うワニのように無表情だ!」

 ファウストは安心したと言っても、それで全てが解決した訳ではない。すぐにエイメには笑顔が戻った。

「そういうお茶目な所も含めて! ジライヤを全部受け止めたいくらい好きだわー!」

 今度は両の手の平でジライヤの両頬を包み、それぞれ交互にこねくり出した。

「い、いや、あの」

 ジライヤの瑞々しく張った頬肉が、エイメによって揉みしだかれている。右手は時計回り、左手はその反対に。

「マクベス先輩の時ほどには背徳感はないな! いやしかし、あれはすごかった!」

 ファウストには横目でマクベスの状態を見やる余裕がある。マクベスは横座りのままで下を向いたままだ。時々、腰などをもぞもぞと動かしている。

「ずっと見ていたいけれども! ジライヤの続きも気になる気になる!」

 ということなので交互に見ている。

「ジライヤの顔で遊んでると、日頃のストレスが溶けて流れ出すようだわ!」

 目を離した間に、エイメは左右の頬をつねって、横に引っ張っていた。

「は、ははは……」

 ジライヤの顔が横に伸ばされている。ジライヤは苦笑いを浮かべようとしているようだが、大きく顔が変形しているので、本人が思っているような表情にはなっていないだろう。

「間抜けな上にも間抜けな顔! 見ちゃいられないや!」

 ファウストは両手で目を覆って、指の隙間から見ている。それくらいの余裕は戻っている。

「はあー。癒されるー」

 鼻をつまんだり、耳を引っ張ったり、髪をグシャグシャにしたりしている。

「今! この時間! いったい何が起こっているのか! もう10分くらい状況が変わっていないぞ!」

 その間もマクベスには変化はない。静寂の中、時たまエイメが奇声を上げるくらいである。

「こんなに可愛いジライヤ! いつも私のために全力で尽くしてくれるジライヤ!」

 ジライヤはピクリと反応した。

「むむむう! 僅かに空気が変わった! 僅かだが、確かに変わったのを感じた!」

 エイメは突然、ジライヤの鼻をつまんでひねり上げた。右手の親指と、人差し指の第二関節で、かなり強くキャッチしている。

「はなはなはな!」

 ジライヤの鼻呼吸は完全に塞がれ、鼻声で悲鳴を上げる。

「ジライヤは、どんな時でも手を抜かない。よね? 一般の生徒を乗せた輸送車を救出に行く時も、全力だもんね?」

 ジライヤの鼻は上方向に引っ張り上げられているので、ジライヤの顔がエイメの顔の高さまで来ている。

「あんな距離で! あんな顔されたら! さぞ恐ろしいことだろうなあ!」

 ファウストには想像もつかない。あれほど接近したらどんな気持ちになるか、好奇心はある。

「ま、マクベスが、ちくったんすか……?」

 口で呼吸しながら、苦しそうにジライヤは言った。

「えー? なにをー?」

 エイメはとぼけながら、左の人差し指でジライヤの耳たぶをプルプルとしている。

「マクベス先輩が、エイメ会長に、ジライヤ先輩の失態を密告したと? そんなことをする人だろうか? しかし、部下としては報告する義務もあるのではないだろうか!」

 ファウストが心配しても仕方ないことではある。

「そうやって、仲間を売ろうとする、人間っぽいところも好きだなー」

 エイメはジライヤの鼻を解放した。

「はうっ!」

 ジライヤは安堵のため息をつく。そこに隙が生まれた。

「大好きっ!」

 エイメは、ジライヤの頭を抱きしめた。

「! 入った!」

 思わずファウストは叫んだ。関節技か、押さえ込みか、締め技か、とにかくガッチリと入って、絶対に抜けられない印象を受けた。

「エイメ会長の乳房の間に、ジライヤ先輩の顔が埋まっている! それほど大きな乳ではないが! あそこまでしっかりロックされては!」

 それほど大きな乳ではない、というところでエイメの眉が少しだけ動いた気がした。

「マクベス! マクベスは何もちくったりしてないよね?」

 エイメが背後にいるマクベスに問いかける。ジライヤの頭から力を抜かずに。

「……あ、すいません、聞いてませんでした……」

 マクベスは気だるげに上体をゆっくりと起こした。上目遣いにエイメを見ている。

「ほらね? マクベスは仲間を売ったり足を引っ張ったりするような輩じゃないよ。ちょう堅物なんだから!」

 エイメはマクベスを振り返って、ニヤリと笑った。

「そう! マクベス先輩は密告などしない! それは素直に納得できる!」

 ファウストはマクベスを見ながら言った。

「では! いったい、どうやって! エイメ会長は! ジライヤ先輩の失態を知り得たのだろうか! 白井さんか? それとも忍者隊の隊員? いずれにしても! 情報収集力がハンパない!」

 ファウストが恐れおののいている間に、ジライヤは、さっきからエイメの腕などをポンポンと叩いている。

「タップというやつだ! ギブアップだ! 参った、ともいえるだろう!」

 何回ポンポンされようとも、エイメは力を抜く気などないように、より一層、グイグイと締め上げている。

「もうやめてあげてほしい! ピークに達してしまう! マクベス先輩の時とは違う意味合いで!」

 ジライヤの手がワナワナっと震えたと思ったら、ダラリと垂れ下がった。エイメに抱えられた頭に、体がただぶら下がっているような格好になった。

「落ちた!」

 ファウストは立ち上がる。このままではかなり危険である。

「フン」

 エイメはまた正体を現した顔になり、ジライヤを無造作に放り出した。

「なんという投げ捨て方! ゴミステーションでも、もうちょっと気を使いそうなものなのに!」

 朽木のように投げ出されたジライヤは、着地の衝撃を受けると、仰向けのままで背筋を仰け反らせた。

「こおおお……」

 焦点の合っていない目で手足をバタつかせ、やがておとなしくなった。

「意識が混濁しているのか?! とても心配だ!」

 ファウストにはスポーツ医学的な知識はない。エイメもマクベスも慌てるような様子はないので、ファウストも静観していることにした。

「見たところ呼吸は規則正しくしてるようだし、あまり騒がしいのもみっともない」

 ファウストが近づけずにいるのには原因がある。エイメが怖いのである。

「……」

 エイメはまたしても宙を見ている。若干斜め下である。

「怖いのは! エイメ会長が僕を睨んでいるからではない! むしろ睨んでほしい! そうすれば、僕は迷わずに逃げ出すことができるのだ! 怖いのは! 彼女の視界の中に僕が入っているでろうこと!」

 視線は感じないのに、見られているという感覚はある。

「逃げるきっかけを与えてくれないエイメ会長の! 冷酷さなのだ!」

 ファウストはどんどん冷や汗をかいている。せっかくもらった制服が、ジワジワとしてくる。

「おいマクベス」

 宙を見ながらエイメが言う。低い声だった。

「……はい」

 マクベスは起き上がり、立ち膝の姿勢に戻った。

「よかった! 復活した! さすがマクベス先輩! 倒れてもまた立ち上がる様は、まるでコメツキムシだ!」

 エイメはマクベスを振り返り、「コメツキムシ?」と言いながら首をひねった。

「おいマクベス」

 エイメは顔を戻し、気を取り直すかのように言い直した。

「はい」

 マクベスの表情は冴えないが、頬の上気はほとんど収まっている。

「さっきから訳の分からんことを騒いでいる、そこのは?」

 ついに来た、とファウストの心臓は縮み上がった。

「申し上げます。彼の名はファウスト。普通科の1年3組、13番です」

 マクベスは淡々と話す。自分の出席番号まで暗記してもらえていることが嬉しかった。

「うんうん」

 エイメは頷く。

「先を促している。そんなことを聞いているんじゃないと言わんばかりだ!」

 実際にそうだろうし、マクベスも分かっているだろう。

「彼は勇気を示し、例の化石の化け物に女生徒が襲われようとしているところに割って入りました。彼の戦闘能力を考えれば自殺行為でしたが、彼は自分の生命を投げうつ覚悟でもって、女生徒を救ったのです」

 おそらくは事前に考えていたのだろう、マクベスはスラスラと言う。

「で? 私はお礼を言えばいいの?」

 エイメは気だるそうに髪をかきあげた。

「彼は私の戦闘法に興味を持ったらしく、弟子入りを志願してきました」

 ファウストは懐かしく思い出す。そう言えば、そんなことを言った気がする。

「ぷ。弟子だあ?」

 エイメはバカにするように笑った。完全にバカにしている笑いだ。

「弟子というわけにはいきませんが。つきましては、一度、練習を見学すれば気が収まるだろうと思い、この場にて紹介申し上げようとした所存です」

 マクベスは言い切って頭を下げた。エイメは背中で感じているだろうか。

「……見学……勇気……紹介……」

 エイメは宙を見ながら、なにやら口の中で言っている。たまに首を縦や横に振る。

「考えている! 考えている様子も芝居がかっているなあ!」

 エイメの首振りは、横方向が多くなってきた。最後の方は横にしか振らなくなった。

「却下だ。マクベス。却下だよ」

 エイメは残念そうに言う。マクベスはかしこまって頭を下げ、反論などはしない。

「ふむううう! ずいぶん前から決めていたようだが! ずいぶんもったいぶった!」

 エイメは首を振りながらマクベスへ振り返り、首を振りながら歩み寄る。

「予想されるリスクは? 検討したか?」

 マクベスは頭を下げたまま、さらに小さくなって「いいえ」と応えた。

「冗談は剣の腕だけにしてくれよマクベスー? リスクの検討してないの?」

 エイメはずいずいと近寄ってゆく。

「またアレが見られるのか?」

 ファウストはときめいた。

「そんな嘘が私に通じると思っていたのかいマクベス? してあるだろう? リスクの検討。口頭で構わないから言ってみ?」

 エイメはマクベスの顔を両手で触り、上を向かせた。

「キタキター!」

 ファウストは拳を握った。

「よ、よろしいですか」

 マクベスは目を伏せて言う。発表してもいいですかという意味だろう。

「もちろん! 聞かせて聞かせて!」

「またあの笑顔だ! 怖いんだなあれが!」

 不機嫌な顔はそうでもないのに、エイメが笑うと途端に怖くなる。

「まずは、ファウストがスパイである可能性が、うん」

「ないない。それないない」

 口に親指を突っ込まれ、マクベスは言葉を途中で遮られた。

「よしっ!」

 ファウストは拳を突き出した。

「あんなスパイいるか? 聞いてもないのに自分から何でもしゃべってるんじゃないか」

 エイメはファウストの方は見なかった。ファウストも自分のことが言われている気がしない。

「んむん。つ、次は、部外者を入れることで、隊の風紀が乱れる可能性が、あふん」

 親指を引き抜かれたマクベスは再び話し始めたが、また遮られる。今度は両方の親指を入れられた。

「マクベス隊の風紀が? 乱れるって? ないないない! ちょっと緩んでも、また鬼のように引き締めるんでしょ?」

「他の隊員もいるのか! どんな人たちなんだろう!」

 ファウストのミーハー心が煽られる。

「ううむ。……あ、はい、見学は一回で終わらせるつもりだったので、それほどリスクではないと判断しました」

 ファウストは軽くショックを受けた。

「一回で終わらせるつもりだったと?! 軽くどころか大いにショック! でも、一回でも、ゼロ回よりはずっといい! 感謝あるのみ! 結構ドライな一面も見られたし!」

 ファウストのショックと反比例するかのように、エイメは満足そうに頷いている。

「他には? 他には?」

 そして嬉しそうに続きを促す。

「主だったものは、そんなところかと……。あとは彼自身のリスクはあります。練習中の怪我や、増長など」

「そんなものはどうでもいい」

 エイメはとてもつまらなそうに言った。本当にどうでもいいようだ。

「怪我はともかく! 見学した後で僕が増長することまで心配してくれていたなんて! 今ここに誓いたい! 決して思い上がることはないと!」

 ファウストはいかにも誓っていますというポーズをとった。左手を胸に当て、右手は軽く上げる。

「それよりほら! もっとあるでしょ?! もっと重大なリスクが!」

 エイメの顔は笑顔のまま凄みが増していく。かなりの圧迫感だろう。

「はあ、それは、ええと」

 エイメは親指の腹でマクベスの唇をこねくりながら、さらに圧力をかけている。マクベスはしどろもどろになりながら、正解を必死で考えているようだ。

「分かんない? 本当に? じゃあ、なんで却下なのかも分かってないの?」

 こねくる親指に力が入り、激しくなってゆく。唇の間から白い歯が見え隠れしている。

「ううん、あん、あの、うふん」

 唇をいいように弄ばれ、マクベスは上手く発音できないらしい。

「平常心も失われているだろう! あんな状態で、エイメが欲している答えにたどり着けるはずがない!」

「呼び捨てにすんな」

 エイメの小さな発言はファウストには届かなかった。

「私の身になって考えてみてよマクベス。大好きなマクベスから、紹介したい人がいるって、なんかしょうもない男を連れてこられた時の! 私はどんな気持ちになったと思う?」

 エイメは両の親指を交互に口に進入させたり、舌を摘んで引っ張り出したり、しごいたりしている。

「涙! マクベスの目から一筋の涙がこぼれ落ちたぞ!」

 その涙は、恥ずかしさによるものか、悲しみによるものか、とにかく、ファウストは興奮した。

「正解は『エイメから不興を買うリスク』だったか。それこそマクベス先輩にとってはどうでもいいこと、というか、それを認めてしまうと色々倫理的に問題だから、見ないふりをしていたのだろう」

 マクベスの腰が浮き、前後にカクカクと痙攣し始めた。

「そろそろ限界ではないだろうか! 正直、限界を突破されたマクベス先輩がどんな姿になるのか、見てみたい気持ちは非常に大きい! これは好奇心か? それとも恋? 分からないが、ただ一つ、確かに言えることは!」

 ファウストは天を仰ぎ、胸一杯に息を吸い込んだ。

「決断の瞬間が迫っているということだ!」

 すでにファウストはソファーから立ち上がっている。問題なのは、そこから一歩踏み出せるか。

「一歩! 最初の一歩さえ踏み出せれば! あとは何歩かかろうが必ずゴールにたどり着く!」

 ファウストは自分の両足を交互に見た。

「右足にするべきか、左足にするべきか、それが問題だ!」

「あーもーなんなんだよ」

 エイメの方から苛立たしげな声が聞こえたような気がした。

「右足かな! 右足から踏み出した方がしっくりくるかな! 僕、右利きだし! いや待てよ! あえて左足から踏み出すというのも! ここ一番って感じがよく出ているよなあ!」

 それぞれの太股をポンポンと触ってみる。いつもと変わった様子はない。

「今の状況を誰かに見られていたとしたら! 細かいことをいちいち気にし過ぎると思われるかもしれない! 優柔不断なダメ草食と思われるかもしれない! でもね、こういう細かなことが逆に重要だったりするんですよ。ええ。なにかあってから、ああ、やっぱり右足から踏み出しておけばこんなことにはならなかったのに、って後悔しても遅いですから」

 エイメの方から咳払いが聞こえてきたような気がした。かなり苛立った咳払いのようだ。

「でも、まあ、確かに、今は緊急事態ですから? 後悔しつつも、そんな下らないことで迷っている時間はなかったから仕方ないかー、なんて言えば済んでしまう可能性もゼロではないのですが?」

 舌打ちと共に、強烈な視線を感じた。エイメの方からだ。まさかと思ってそちらを見ると、エイメはさっと視線を逸らした。

「ふむ! 無意識からの信号で、エイメ会長を注意せよと告げているようだ! そろそろ腹をくくらねばなるまい! マクベス先輩は僕を認めてくれた! それはなぜか! 僕が勇気を示したからだ! 僕は再び同じことをしなくてはならない! 前よりも上手く、前よりもスタイリッシュに!」

 ファウストは右足に力を込め、ぐうっと上に持ち上げた。

「よーし! 持ち上がったぞ!」

 膝の直角になるくらいで一旦停止した。

「後は下ろすだけだ! 気をつけなければならないのは、そのまま下ろしただけでは、ただの足踏みになってしまうこと!」

 膝を上げたままの体勢で、どのくらいの歩幅にしようか迷っている。

「あまり歩幅が広すぎると不格好だし、かといって狭すぎるとビビってるように思われるし、ここは思案のしどころだな!」

 さっきとは違う種類の視線を感じる。信じられない、何なんだこいつは、というような視線だ。理解し合える限度を超えてしまったか。

「……この体勢でいるのも飽きてきたし、疲れてきた。今日はこのくらいにしておこう」

 結局、普通の歩幅で、ファウストは第一歩目を踏み出した。なるべく足音がしないように。

「……」

 エイメはずっとファウストを見ていた。マクベスから手を離している。マクベスも横座りの状態で、ファウストを見ていた。

「気づかれないように、そうっと、そうっと」

 言いながらファウストは一歩ずつ近づいてゆく。エイメたちの方は見ないようにしている。

「……」

 エイメもマクベスも何も言わない。奇妙な生物を見ているかのような目だった。

「ふうぅ~」

 十分近づいて、ファウストは大きく息を吐いた。胸がドキドキしている。

「緊張、するなぁ~」

 エイメたちに横を向けて、胸に手を当ててつぶやいた。

「えへんえへん。ええ、エイメ様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう、ご尊顔を賜り、まことにまっこと、恐悦至極に存じ上げ奉りまするー」

 ファウストは顎を引いて、両手を広げながら言った。

「先ほどマクベス先輩からご紹介いただく栄誉に預かりました、ファウストと申しますー。お会いできたこと、とても! 光栄に思っております! 身に余る光栄です!」

 頷きながらエイメを見る。エイメは死んだ目で見返している。

「どれくらい光栄に思っていると思いますか?」

 まさかのファウストからの質問にエイメは何も応えなかった。フリーズしているかのようだ。

「言葉では言い表せないくらい! なんて言うとそれまでですから? 言い合わすように努力するのが! 言語を使える動物に生まれた定め! もしくは義務!」

 ファウストは両手の人差し指で自分のこめかみを指してクリクリとした。考えていますというアピールだ。

「うーん、うーん」

 ファウストは苦悶の表情を浮かべる。必死で考えている。

「……やっぱ、無理かなー……」

 ファウストは腕を組み、首を傾げて、さらにウンウンと唸っている。その間中、エイメたちは身動き一つ取らなかった。

「はい! 諦めました! そうでしょう! そこはそうなるでしょう!」

 ファウストが急に明るい声を出したせいか、エイメはビクっとしてファウストを見た。

「どれくらい光栄に思ったか、説明することを諦めましたよ!」

 満面の笑みでエイメに報告する。エイメは口元に手を当てようとする途中でまた止まっていた。

「その代わりといってはなんですが! 我が一族に代々伝わる舞があるんですが、まあー、いわゆるー、伝統芸能ですが」

 かなりの角度で話の方向が変わったので、エイメは何度も瞬きをした。

「え、なになになに?」

 エイメの言葉からは、興味があるようには感じられない。戸惑いのために不愉快になったのを解消したいといった風だ。

「一曲、舞わせていただいて! それをもって感謝の気持ちを表したいのです! 言葉では言い表せないので、ならば! 僕の全身を使った表現を見ていただけたらなあ! と!」

 笑顔のままファウストは一歩前に出る。もはや自分でも何を言っているのか分からないし、自分でも止められそうになくなっている。

「え? どうしたファウスト」

 マクベスが真顔で心配している。

「すぐに終わりますから!」

 笑顔のままマクベスにウインクをした。自分でも驚くほど大胆になっている。

「そういう問題ではないだろう」

 マクベスはどこまでも真面目であった。

「それは、本当に伝統芸能なんだろうな。思いつきの創作ダンスとかだったら、かなり寒いことになるぞ」

 エイメの心配はファウストの予想とはだいぶ離れていた。

「母親が踊りの師匠をやっておりまして! 子供のころに見よう見まねでやったきりですが、伝統芸能には間違いありません!」

 細かいことは全然覚えていないが、代表的な踊りは覚え込まされている。

「別に、今日じゃなくてもいいんじゃないか?」

 マクベスは遠回しにやめさせようとしているようだ。

「まあまあ、マクベスよ。どうしても踊りたいみたいだから、さわりくらいは見てやってもいいだろうよ」

 エイメはマクベスが嫌がること、困ることをするのに快感を覚えているらしい。

「ありがとうございます! とても光栄に存じます! どれくらい光栄に思っているかというと……」

「なにそのループ。ふざけんなよマジで」

 エイメが素で怒ったのでファウストは小声で「すみません」と素早く言った。

「見てやるけれども、その代わり、私がやめろと言ったらすぐにやめろ。やめなかったら、マクベスが黙ってないだろう」

 エイメの言葉には、本気で人を殺しかねない冷たさがあった。

「うぶぶぶぶ!」

 ファウストは何度も大きく頷いた。

「……」

 エイメとマクベス、二人は黙っている。マクベスは立ち上がっていて、エイメの斜め後ろに控えている。ジライヤはまだ寝ている。

「……どうしました?」

 二人が急に黙ったので、ファウストは不安げに首を振りながら言った。

「早くやれよ!」

 エイメが左拳を振り上げて殴りかかろうとするのを、マクベスが羽交い締めにして止めた。

「エイメ様! 一般の生徒に暴力は!」

 エイメは白い歯をむき出し、ファウストの鼻先まで迫っていた。噛みつきそうな形相である。

「むぎぎぎぎぎ」

 純粋な腕力ではマクベスに遠く及ばないようだ。しばらくジタバタとしていたが、やがてガックリとうなだれた。

「……ありがとう。マクベスが止めてくれなかったら、きっとかなり問題になるくらいの結果になっていた」

 力のない声でエイメがつぶやいた。マクベスはそっと手を離した。

「大丈夫ですか?」

 ファウストの言葉にエイメは再び凄まじい形相で顔を上げたが、飛びかかってくることはなかった。

「……それでは、さっさと終わらせてしまいましょう」

 ファウストが、ヤレヤレといった感じで言うと、マクベスは「お前が光栄さを表現したいんじゃないの?」と言った。嫌々やらされているような感じが出てしまったか。

 ファウストはすっと目を細め、それらしい雰囲気を出そうとした。成功しているかどうかは自分では分からない。

 ゆっくりと右手を持ち上げる。視線が集まるのを感じる。その隙に左手でポケットからスマートフォンを取り出した。心強い重みが手の平に乗る。

「はっ!」

 シュタっとスマートフォンを二人にかざす。右手は添えているだけだ。

「……」

 二人とも無表情なので、食いついてるのかどうかは分からなかった。

「いいーーや!」

 ファウストはテンションを維持したまま、独特なかけ声をかけた。そのままスマートフォンを自分に向け、操作し始める。

「……」

 指が震えてうまく扱えなかったが、その間も二人は辛抱強く待っていてくれた。

「や!」

 ようやく再生ボタンが押せた。小さなスマートフォンのスピーカーから、なんともチープな音声が流れ出す。

「広いから! 部屋が! 相対的に音量が小さくなりますね! これで最大ボリュームなんですけどね!」

 太鼓や鈴がリズミカルに鳴るだけのシンプルなBGMである。

「うえっへん!」

 大きな咳払いをしても二人からは何のリアクションも無かった。

「ほっ! はっ! いよっ!」

 スマートフォンを握ったまま、盆踊りのような動きで、まずは右へとフラフラと歩き出す。

「……」

 二人の視線もついてくる。仕方なく、といった感じだ。

「我らが天子に謹んで奉納申し上げ候! 充電が切れるまで! 俺のダンスが運命を断ち切るぜ!」

 エイメとマクベスは同時に「うえっ」という顔になった。悪い予感が当たった、というような顔だ。

「我が喜びの雄叫びは! 白鮫沼から猫鍋峠まで鳴り響くことでしょう! 仕立てのよい制服を身にまとい! 秋の夜空を光栄の色に染めてみせます!」

 盆踊りの動作に加え、体をひねったり仰け反ったりしながら左右にウロウロとしている。

「そんな地名あったか?」

 エイメが聞くとマクベスは唇を歪ませて肩をすくめた。

「薄酒丘をひょいと越え! 兎飛川の川沿いに! おいしいケーキ屋さんがあるという!」

 スマートフォンをフォークに見立ててケーキを食べるパントマイムをした。

「伝統芸能じゃないよね。ケーキとか言ってるもんね」

 エイメは怪訝な顔でマクベスに言う。マクベスは目を覆っている。

「そこのおすすめフルーツタルト! いつか機会があったなら! ドライアイスを詰め込んで! 差し入れしたく存じ上げ!」

 タルトを店員から受け取ってお金を払うマイムをしている。

「その気持ちはありがたいが……」

 エイメは、自分が怒るべきなのか迷っているようだ。

「フルーツタルト? どこに?」

 ジライヤがいつの間にか蘇生していた。きょろきょろとタルトを探している。

「どこから説明すればいいのか……。そもそも何が起きているのか私にも分からない」

 マクベスはジライヤに困惑した顔で言った。

「おいしいねー! あらおいしー!」

 ファウストは差し入れられた側の感想もパントマイムで表現しようとしている。

「ああ、余興? 茶番か」

 ジライヤはファウストを見ながら呆れている。

「と! 思わんほどの感謝を込めて! 心を込めて! ただ今より! 喜びの舞を奉納せんと存ずー!」

 ファウストは三人に向かって一礼した。ゆっくりとした動作だった。

「「「まだ始まってなかったのかよ!」」」

 三人は同時に声を上げた。

「アンドロメダまでひとっ飛びー! あなたと私の相対性ー! ワープ回路に異常なしー!」

 両腕を前に突き出し、宇宙を航行している様を表現している。

「本編もぜったい伝統芸能じゃないだろ!」

 ついにエイメがキレた。

「もういい。わかった。やめやめ。頼むからやめて」

 ファウストの眼前で手をパタパタと振る。マクベスは後ろに控え、ファウストが指示に従わなかった場合に備えている。

「えー? 何しにアンドロメダまで行くのか気になるー」

 ジライヤが残念そうに言う。マクベスが睨んだ。

「あ、はいはい、やめますやめます」

 ファウストは素早くスマートフォンの音楽を止めた。

「伝統芸能かどうかにこだわることもないんだろうが、今はもう限界だ」

 エイメが首を振った。

「その後どうなるのかだけ教えてよ」

 ジライヤが脳天気に言う。

「喫茶店を開きますが、あまり繁盛しなかった、という結末です」

 ファウストは大真面目な顔で応えた。

「なんだそれ。よかった途中で止めて」

 エイメが目を閉じて首を大きく回した。

「母親に習ったって聞いたが、本当にこんな内容なのか?」

 マクベスがいぶかしんできた。

「はい!」

 ファウストは大きく頷いた。マクベスは頭を抱えた。

「エキセントリックな親だな。それでこんな出来上がりなのか」

 エイメが哀れむような目をしていた。

「しかし、大した度胸だ。我がマクベスが見込むだけのことはある」

 エイメはその目を細め、唇を突き出し、うんうんと頷く。

「それでは! マクベス先輩との! じゃなかった、練習を一度なりとも、見学してもよろしいということで?!」

 ファウストは勢い込み、エイメに両手を差し出す。

「駄目だ」

 アッサリした感じで言われた。

「代わりに試練を与えてやる。ありがたく思え」

 エイメはニヤリと笑った。

「え? なんで?」

 試練、という言葉の響きに邪悪なものを感じ、ファウストはひるんだ。

 エイメは指を鳴らした。スタッフが両脇から一人ずつ、音もなく、腰を落とした細かい駆け足で入室してくる。それぞれ何か持っている。スタッフはそれぞれ、マクベスとジライヤに持ってきたものを手渡し、またすぐに退場していった。

「これは?!」

「まじすか?」

 二人は同時に驚いた。ファウストには分からない。

「私はいつだって本気だよ。ふざけたり、試しにやってみて駄目だったら変える、なんて甘い考えはしない」

 リーダーの顔つきで自信たっぷりに言った。

「信念がブレない! これなら部下もついてきやすい!」

 カリスマ性の一端を見た気がした。

「こしゃくに分析など10年早いわ。まあいい。まずはジライヤだ。着せてやれ」

 ジライヤは金色の布を持っている。大きなバスタオルくらいの布である。

「これを、僕に?」

 オドオドしているファウストをよそに、ジライヤは後ろに回り込み、ファウストの肩に何か装着した。

「え? え? マント?!」

 肩パッドからツノのように伸びた棒から、金色のマントが垂れ下がる。前から見てもマントと分かる。

「先輩方のマントとは、色も形状も違いますね! こっちの方が、何というか、金色だし、何もしなくてもたなびいてしまうようですが?!」

 マクベスたちのマントは白色で、肩に直接付けている。

「説明は後だ。次はマクベス」

 マクベスの手には、またしても金色の、金属性の冠のようなものがあった。マクベスは無言でファウストの前に立ち、それをファウストの頭に被せた。

「えええ! こんなものまで?!」

 冠からは何本か枝が上に伸び、それぞれ金色のヒラヒラした装飾が施されている。頭を少し動かすたびにキラキラっと光り、キラキラっと音もする。

「なんと! まあ目立つ扮装! ずっしりと重い!」

 首がフラフラする。

「その格好は、いわば特使だ。限られた場面だが、私の代理として行動できる」

 エイメはこともなげに言う。マクベスは頷き、ジライヤはニヤついている。

「だだだ、代理?! 会長の?! そんな権限を僕に?!」

 ファウストは驚いた。誇張なしでこのボリュームになった。

「あくまで調査に関したものだけの権限だ。それも、あの化け物に関連したものに限られる」

 エイメは自分の顎を撫でながら言った。

「えー?! 調査! 化け物の?! なんで僕が?!」

 ファウストは大きく首を振りながら聞いた。頭の上で飾りがチャラチャラと大きな音を立てた。

「命令だ」

 エイメはとてもクールだった。

「そんな……。いくら生徒会長だからって、同じ学校の生徒ということでは同格なはずなのに、なんでこんなに絶対的な立場にいられるんだ?」

 今さら口にすべき疑問でないことはファウストも自覚している。

「言ったろう? 試練だと。この試練を乗り越えれば、……少しは想像力を働かせてくれよ」

 エイメは小悪魔的な微笑みを浮かべている。

「小悪魔どころか! 大悪魔! 魔王だがな!」

 ファウストは横を向いて吐き捨てるように言った。

「ファウスト。エイメ様は署名をお望みだ」

 マクベスが羊皮紙と羽ペンを持ってきた。

「署名ですって! まさか自分の血で書けなんておっしゃりますまいな!」

 ファウストはわななきながら大きく退いた。

「よく知ってるな。それが正式な作法だが、今やると色々と問題なんだ」

 見れば、羽ペンの先は、赤いインクに浸してある。

「お前の血なんて、汚らしいし」

 エイメが鼻に皺を寄せる。本当に汚いと思っているのだろう。

「これも、形式上だ」

 ジライヤがナイフを床に落とした。切っ先を下にしてあったので、床にストンと突き刺さっている。

「扇子を脇差しに見立てて、切腹の動作だけして、結局は斬首、みたいなものですね!」

 ファウストは妙な部分に感心した。

「ちょっと違わないか? まあいい。ちゃっちゃと書きやがれ」

 エイメは腕を組んでターンした。再びこちらを向くまでに署名を終わらせろ、ということだろう。

「え、あの、サインする前に、契約内容を確認してもよろしいでしょうか」

 後ろ姿のエイメに恐る恐る声をかけてみた。

「早く書けと言った。何度も言わせるな」

 エイメは振り向かずに言う。ファウストは慌ててマクベスから羊皮紙を受け取る。

「うわ! ものすごく細かい字でビッシリ書いてある!」

 契約書の知識など全くないファウストなりに、何とか短い時間で内容を理解しようと目を走らせる。

「なになに……。いかなる処罰も甘んじてお受けします? いかなる結果になろうとも損害賠償請求はいたしません? 会長の意に添わない事柄については、人類固有の権利を永久に放棄します?」

 数行読んで、ファウストは顔を上げた。

「不当だ! 不条理だ! 理不尽だ!」

 そして絶叫する。

「こんなの形だけなんだから、深く考えないでさっさとサインしろよ。どうせ法的な拘束力なんてないし」

 ジライヤがミニテーブルをセッティングしながら言う。

「嘘だ!」

 拘束力が無い、などとは信じられない。

「仮にも会長の代理で動くのだから、変なことをされないように、もちろん君を信じているが、まあ、保険みたいなことさ」

 マクベスはミニテーブルに羽ペンを置く。

「……まあ、マクベス先輩がおっしゃるのでしたら……」

 しぶしぶ、セットされたイスに座る。羊皮紙はすでに書きやすい位置に置かれている。

「なんだよ、マクベスだけ特別扱いかよ。お熱いねヒューヒュー」

 ジライヤに冷やかされ、ファウストは頬を染めた。マクベスは完全に無視している。

「よし! それじゃ! 署名しましょうかな!」

 羽ペンを赤いインク瓶にチョイチョイチョイっとしてみる。羽ペンなど使ったことはない。

 その時! ファウストの頭上! 左右に! 二つの人影が現れた!

「何者だ!」

 ファウストは顔を上げて叫んだ。

「ファウスト! ファウスト! その悪魔と契約してはいけない!」

 右から現れたの者は、白い衣をまとい、背中に羽を生やしている。

「なぜ邪魔をする?! マクベス先輩が大丈夫と言ってくださっていることに、何の疑問があるというのか! 何も問題などありはしない!」

 白い者はショートカットで、ジライヤに似ていなくもない。

「ファウスト! ファウスト! 今すぐここから逃げなさい!」

 白い者はファウストを心底心配しているかのように、両手の指を組み、身を乗り出している。

「逃げろだと?! どこへ逃げろというのだ! 自分の家へか? 歩いて何時間かかると思っているんだ!」

 ファウストは両腕を大きく広げ、前方の斜め上を見ながら言う。なんとなく、直接見てはいけない気がしている。

「ファウスト! 今すぐそのド派手なマントを脱ぐのです! 貴方には全然似合っていませんよ!」

 言われたファウストはハッとして自分の服を省みた。確かに正常な理性の持ち主とは見られないだろう。

「う、うう。言われてみれば頷ける部分もある。僕はとても大それたことをしているのではないか。この金ぴかの衣装は何かを暗示しているのだろうか!」

 ファウストは急に落ち着きを無くした。いや、普段から落ち着いてはいないのだが。

「ファウスト! 思い出して! 貴方はもっと保守的で、内向きな人間だったでしょう? こんな華々しい場所にいてはいけない!」

 白い者のテンションがだんだんと上がってきた。

「僕は、なんでここにいるのだろう……。何を舞い上がっていたんだ……」

 ファウストは下を向いてつぶやいた。対照的にテンションが見る見る低下していく。

「ファウスト! 貴方は集団に埋没しながら、特別な存在になりたいなんて願望だけ抱いて、具体的な行動はなにもしないで妄想だけしていればいいの! そんな格好してたらクラスで笑われる!」

 ファウストは羊皮紙に顔が付きそうなほどうなだれ、ブツブツ言いながら小さく首を降り続けている。

「……そうだよな……。本気で特別な存在になりたいなんて思ってた訳じゃなくて……。うん。もうそろそろ、大人にならなきゃいけないのかな……。なんで、こんなリスクを負う気になったのだろう……」

 ファウストは羽ペンをインク壷に戻そうとしている。戻したら、次は冠を外すつもりだった。

「ファウスト?」

 左からも声をかけられた。黒い衣装だったと思った。顔を伏せているから見えないし、顔を上げるにはテンションが低すぎた。

「……もう僕に構わないでくれ。僕には声をかけられる価値などありはしない……」

 ファウストはとても低い声で応える。とても声が届いているとは本人でも思っていない。

「ファウスト? そんなショボいので私を満足させられるの?」

 左からの声は甘ったるく、媚びを売るような響きがあった。

「こちらはマクベス先輩の声に似ている。いや、まさかな。先輩がこんなセクシーかつコケティッシュなことを仰るはずがない。僕の欲望が生み出した幻覚なら! もっと欲しい!」

 うなだれた首を左へと回す。目は閉じたままである。

「ファウスト? そんな萎れたので私のクレームブリュレがかき混ぜられるの?」

 さらに甘さが増した。

「畳みかけてきた! もっとたくさん欲しい!」

 ファウストはがばっと起きあがる。左上に照準をあわせる。

「……せ、先輩……」

 黒い装束の人影が、白い者とは反対側の中空に浮かんでいる。

「黒も似合いますね……」

 黒い者は、黒いフェイクファーを首に巻き、黒いアイシャドウは過剰に濃く、唇も黒かった。背中に生えた翼だけが白かった。

「ファウスト? 今夜はスッポン鍋にする?」

 マクベスの顔のまましなを作ってくる。ファウストは目をそらし、顔を前に向けた。このまま見ていてはいけないと思った。

「マクベス先輩がこんな挑発をしかけてくるはずがない! 僕の欲望が幻影に言わせているのだとしたら! 僕の要望は今、何パーセントくらい貯まっているのだろう!」

 普段は真面目で清純そのものマクベスなので、ギャップが大きかった。

「ファウスト? 目の前に冒険の扉があるのに、自分で開けようと思えば開けられるのに、怖じ気付いて逃げ出すの? もうチャンスは来ないかもしれないよ?」

 かすれたハスキーボイスで、ささやくように言う。ファウストの耳がゾワゾワした。

「確かにその通り。こんなチャンスはもう来ないだろう。もし来ても! 今回逃げたら、次回も逃げ出すのだろうなあ!」

 選択を迫られる場面だということを感じている。目の前の契約書にするのは、ただのサインではない。

「ファウスト? 何をモジモジしてるの? そんな署名なんかちゃちゃっと書いちゃえばいいじゃない」

 ファウストの肩越しに黒い者が羊皮紙をのぞき込んでくる。

「ち、近い! 顔が近い」

 飛び退こうと思ったが足に力が入らない。ファウストは正面を向いたまま凍り付いた。

「顔が熱い! 爆発しそうになっている!」

 心臓が鼓動する度に顔面に血液が勢いよく流れ込んでくるのを感じる。

「ま、マクベス先輩、ちょっと近すぎでは……」

 相手の顔を見ないよう、少し視線を下げて左を見た。

「フオッ!」

 その目に飛び込んできたのは、ザックリと開いた胸元であった。

「着やせするタイプ!」

 真っ白い谷間は下着などの邪魔されず、一直線に下へと伸びている。

「白い! ミルクよりも! 牛乳よりも白い! それでいて柔らかそう! 暖かそう! この世に! これ以上の価値を持ったものを僕はまだ知らない!」

 テレビや雑誌ではこの程度の露出はどうということは無いのだろうが、うぶなファウストには酷な距離であった。

「アーーーー!!!!」

 ファウストは目を力一杯に閉じ、甲高い声で叫んだ。

「せいっ!」

 正面から別の人間の声がしたかと思うと、ファウストは首の両側に強い圧力を感じた。熊にでも捕まれたような、有無を言わせない強さだった。

「たーーりゃ!」

 右方向に捻られ、ファウストはイスから放り出された。

「あう」

 情けないため息と共に、ファウストの体が空中で横方向に一回転し、地面に叩きつけられる。

「がふっ!」

 投げ飛ばされたファウストには何が起こったのか分からなかった。地面に衝突した衝撃も、何によるものか分からず、ただ痛かった。

「でた! 会長必殺! フランケンシュタイナー!」

 遠くでジライヤの声がする。

「……その技の名前を僕は知っている。両足で頭を挟んで、相手を投げ飛ばす、いわゆるプロレス技だと……」

 全身に激痛を感じながら、朦朧とした意識でファウストは言った。

「……ということは、首の両側に感じたのは、エイメ会長の太股だったのか……」

 目を開けておけばよかったと後悔した。

「受け身も取れずに。大丈夫か?」

 マクベスの声は緊迫しながらも、どこか軽蔑するような響きが混ざっていた。軽蔑される心当たりは無くはない。

「いい加減にしろよ! てめえこのやろう!」

 エイメがファウストの髪の毛をつかんで無理矢理起こそうとする。冠は飛んでいった。

「痛い! 痛い! リアルな痛さ!」

 たまらずに自分の力で起きあがろうとした。

「サインするだけで何分待たせる気だ!」

 目の前には憤怒の形相のエイメ。距離はとても近かったが、ファウストの顔面からは血の気が引いていった。

「すみません! すみません! ちょっと考えごとを!」

 体感時間ではほんの数秒、サインするかどうか迷ったくらいだと思っていた。

「あたしが天使なのかって最初はちょっと喜んだけどよ。あまりにも扱いが違くってよ」

 ジライヤも顔を寄せてくる。髪の毛はまだ捕まれている。

「しかも迷う余地もぜんぜん無いじゃないかよ。答えが出でるのにウジウジしているから、なおさらムカつくんだよな」

 ジライヤの分析は客観的で冷静であった。

「マクベス! ペン取って!」

 エイメが命じている。ペンはインク壷に刺さったままだ。テーブルは倒れていない。

「テーブルには触らずに投げ飛ばすなんて、達人技ですねえ」

 ファウストは他人事のように感心した。

「……よろしいのですか?」

 マクベスがエイメに遠慮がちに言う。

「こいつを紹介したのはお前だろうが! 最後まで責任を取らんか!」

 エイメは不機嫌そうに言った。

「ここまで来たら私も意地だ! スイッチ入っちゃいました! 途中で抜けることは許さん!」

 マクベスは遠回しに「本当にこいつを特使にするのか」と聞いたのだろう。エイメはファウストの頭をまた床へと投げ捨てた。今度は腕で何とか地面を受け止めた。

「はうっ!」

 目の前の地面には羊皮紙が置かれていた。いつの間にか置いていて、そこをめがけてファウストの頭を投げたのだった。

「握らんかい! このペンを!」

 ファウストの右手は一度エイメに踏まれ、痛さで開いた指に羽ペンがねじ込まれる。

「ひいいい! 暴力ここに極まれり!」

 こんなやり方で契約書にサインさせていいと思っているのだろうか。

「ほれほれ! 早く書けって!」

 ジライヤも参戦してきた。ファウストの右腕をつかみ、動きをガイドしようとしている。

「これでも僕が書いたことになるんですかね?! なるんでしょうね!」

 ジライヤの左膝がうつ伏せのファウストの腰を押さえ込んでおり、逃げることができない。左腕と両足をバタつかせながら、助けを求めてマクベスを見た。

「……」

 マクベスは鼻に皺を寄せて、頬を膨らませていた。

「カワイイ、じゃねえよ! おのれの名前を書かんかい!」

 エイメの吠え声も遠くに感じる。最終的にサインが終わったのは、それから十分後のことだった。


 まず、ファウストは占い同好会へと向かった。全く手がかりが思いつかないからだ。

「エロイロエサイム、エロイロエサイム……」

 夜に差し掛かっていたが、部員が数名、占い同好会の部室にたむろしていた。ファウストは特使の権限を振りかざし、「何でもいいんで、化け物について、適当に占ってみてもらえますか?」と依頼した。

「……体育祭を中止させよ……。ですよね」

 女性部員の一人がファウストがスマートフォンで撮影した写真を見て言った。ティラノサウルス型をマクベスが一刀両断にした時に、校庭に書かれたメッセージだ。

「……ということは、体育会系の人間ではないですね」

 占い同好会の部長(部ではないのだがそう呼ばれていた)が一心不乱に水晶玉に向かっているのをよそに、女性部員は普通に推理をしている。

「そうか! これで犯人は半分に絞られた!」

 ファウストは全校生徒が何人くらいいるのか知らなかった。

「新聞部のネットニュースによると、化け物の発生は一般学科の、赤兎校舎付近に集中してますね」

 もう一人の女性部員がコンピューターの画面を見ながら言う。

「今日の運勢コーナーは、ここでアップしているのかー」

 ファウストはとても感心した。

「赤兎校舎に部室がある文化系の部活……」

 素早くマウスを操り、学園のサイトマップから赤兎校舎のフロアマップに飛んでくれた。

「まあ、僕が通っている校舎でもあるんですけどね」

 どんな部活の部室がどこにあるかなど気にしたこともなかった。

「1階から5階が一般の教室で、6階と7階が部室棟、それより上は宿舎になっているのね。20階建!」

 全寮制になっている。ファウストも十階に住んでいる。

「食堂や図書館や映画館も入ってまして。こちらは違うんですか?」

 占い同好会は生徒会長室(塔)の近く、古びた洋館の中にある。

「うらやましいですー。こっちは、まだ馬車が走ってますよ」

 輸送トラックでかなりの距離を移動した気はしていた。

「結構な部活の数が入ってる。しらみつぶしに当たるしかないですかね?」

 しらみつぶしに当たるのまで占い同好会にやらせないですよね? という含みを持たせているようだ。

「どんな部活があるかというと……。歴史研究会、将棋研究会、ロシア文学部、化石同好会、軽音楽部、鉄道同好会……」

 ファウストは目を細め、顎に手を当て、首を小さく振った。やはり言うとおり、特使の権限でもってオラオラと一つずつ潰していくしかないのか、と考えている。

「今、すっごく怪しいやつが……」

 女性部員通し、顔を見合わせる。気が付けば部長すら、占いを中断してパソコンを覗いている。

「あれ、占いは?」

 ファウストは聞いたが、別に怒った口調ではない。そんなに簡単に中座できる様子ではなかったので驚いたのだ。

「あ、なんか、変に的外れなこと言ったら権威が失墜しちゃうかな、って」

 正確な情報を知った上で占いの結果を出したいらしい。

「ファウスト特使、あの……」

 女性部員がパソコンの画面の文字を指さしていた。

「そんな呼ばれ方! こそばゆい! やがて快感になるかも!」

 ファウストは身をよじりながら言った。

「あ、でも、こっちは恐竜研究会だって!」

 もう一人の女性部員も目ざとく見つける。

「となると、こっちの、考古学部も怪しい。進化論研究部ってのは何なの?」

 部長も混ざって、三人で楽しそうにしている。

「あっ! そうか! 化け物が、恐竜モチーフばっかりだから!」

 ファウストはポンと手を叩いた。振り返った三人に冷たい目で見られた。


 帰りも白井さんが送ってくれた。マクベスが護衛すると言ってくれたが、ファウストは断った。往復するのはマクベスも疲れているだろうし、直接の戦闘で相手もダメージを負っているはずだ。それに夜が近づいている。マクベスが門限までに帰れない。

「何かあったらすぐに連絡するんだ。迷わずに」

 マクベスが携帯の番号とメールアドレスを教えてくれた。ファウストは天にも昇る気持ちであった。

「本当に急用の時だけな」

 露骨に嫌な顔でマクベスが言っても、ファウストの喜びは少しも減らなかった。

「あたしのも聞けよ! 扱いの差が酷いぞ!」

 ジライヤとも連絡先を交換した。「ボス猿(雌)」と登録してやった。

 帰りの道中では襲われることはなかった。内心はドキドキで、車窓の外をキョロキョロ見ながらスマートフォンを握っていた。ダミーとして3台、別々のルートで走ったが、どれも無事に着いたようだった。

「お疲れさん。長い一日だったな」

 白井さんと握手をした。彼もこんなことに巻き込まれるとは思っていなかっただろう。

「もうヘトヘトで、さっさとベッドにバタンキューしたいところですが、どうも部室棟、何部屋か、電気が点いてますね。今日のうちに回れるところは回っておきます」

 ファウストは校舎を見上げて言った。明日になれば、また放課後まで待たなくてはならない。

「精が出るな。惚れた男の弱みか」

 白井さんの目が笑っていた。ファウストは応えず、もう一度お礼を言って、マントをなびかせながら校舎へと入っていった。


 化石同好会の部室には電気が点き、人もいた。男の部員が一人でゲームをやっていた。

「化石っても、葉っぱとか、虫とかでしょ。恐竜の化石なんか出るわけないじゃないですか」

 ゲームの手を休めずに男性部員は言った。

「でも、恐竜は好きなんですよね?」

 夜分遅くに突入している後ろめたさから、特使といえども及び腰のファウストであった。

「子供のころは好きでしたねえ」

 男性部員はそれ以上話さず、ゲームを続けている。歴史シミュレーションものである。ファウストには何が画面内で何が起きているのか分からない。意味の分からないアイコンと数字だけである。

「他の部員さんは……。もう帰りましたよね。さすがに」

 もうすぐ午後9時である。

「部員は僕だけです」

 偉そうな物言いにファウストは不快感を覚えた。

「あ、おひとり?! そうですか! じゃあ、ゲームし放題ですね!」

 軽めに皮肉を入れてみた。こいつが真犯人なら、怒らせれば例の化け物を出してくる危険性もあったが、ファウストは直観的にこいつではないと思っている。こんなのがマクベスと対等に戦えるはずがない。

「……部室でゲームしちゃダメなんて規則ありましたっけ?」

 もうこいつとは友達になることはない、と思った。

「いやいや! 別にゲームしちゃダメなんて言ってないですよ! どうぞ! 好きなだけおやりなさい! いくらでも!」

 男性部員が返事をしなくなったので、ファウストは立ち上がった。

「あ、そうそう。特使殿」

 後ろから呼び止められた。驚いて振り向いた。

「隣の、歴史研究会。怪しいっすよ」

 とても嫌な笑顔で言われた。

「おお、期せずしてナイス情報! なにゆえそのようにお考えか?」

 アテにはなりそうもないが、内容だけでも確認しようと思った。

「女一人なんですけど、ムカつくんですよね。すごいバカにした目で見てくるし、とにかく態度が気に食わないっすわ」

 ファウストは頷きながら「それは非常に怪しいっすわー」と言った。貴重な時間を無駄にしたと思った。

「あと、白い砂を大量に搬入してるのを見たし、恐竜関係の図鑑とかを購買で買い占めてるし、恐竜の模型を飾る場所が足りなくなって階段の踊り場に勝手に置いてるし」

「それ最初に言って!」


 ファウストが走って廊下に出ると、隣の歴史研究会も電気が点いていた。床には確かに、白い砂がうっすらと積もり、足跡や何かを引きずったような跡がついている。

「この砂! 僕には見覚えがある! 嫌になるくらいに!」

 指で摘んでみる。粒子が細かく、乾燥してサラサラしている。

「間違いない! 化け物の残骸に触ったことはないけど! それっぽい雰囲気なのは確実だ!」

 舐めようかと思ったが、味がしなかったら興ざめなので自重した。

「すぐにドアを開けたかった僕が! それをできないでいるのは! 目の前で繰り広げられている状況が!」

 さっきまでは居なかった二人の人影。化石同好会でゲームを鑑賞しているうちに現れたのだろう。

「さあ! そのスマートフォンを渡してもらおうか!」

 一人は長身の女性。生徒会自治隊の制服を着ている。

「どうか! お目こぼしを!」

 もう一人は髪の長い女子生徒である。一般の生徒のようだ。

「なんてタイミングではち合わせてしまったのか! 出会い頭に!」

 二人はファウストの存在は目に入っていないようだ。

「こんな夜中に、スマートフォンで誰と通話していたんだ? 男か? 盛りのついた雌犬め!」

 自治隊は警察権を思っている。

「最近の横暴は目に余るものがある! マクベス先輩みたいに立派な人もいるのだが!」

 エイメが恐怖政治を始める前兆だろうか。

「違います! 田舎の母親と通話しながら、部室に忘れ物を取りに来ただけです!」

 女子生徒は涙ながらに訴える。

「確かに廊下を歩きながらのスマートフォンの操作は禁じられているが! なんとも可哀想なシチュエーションだ!」

 禁じられているからといって、スマートフォンが没収されるとは聞いていない。

「だから! それを確認するから! そのスマートフォンを貸してみろと言ってんだよ!」

 自治隊員は尊大な笑みを浮かべ、偉そうに手を差し出している。

「お許しください! これは最新式のスマートフォン! 渡したが最後、絶対に戻ってこない気がしているのです!」

 女子生徒は正直なようだ。

「何を! あたしがかっぱぐとでも言うのかい? 生徒会侮辱罪で更正房に叩き込まれたいのか!」

 更正房、という単語を聞き、女子生徒とファウストは震え上がった。

「別名・地獄の電子レンジ! 放り込まれた者は性質が変わってしまうという!」

 具体的に中で何が行われているのかは公表されていない。今度マクベスにでも聞いてみたい。

「やめて! やめてそれだけは!」

 女子生徒は両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

「へっへっへ。さあ、観念して、その最新式のスマートフォンを好きなようにいじらせるんだ!」

 自治隊員はさらににじり寄っていく。女子生徒に影がかかる。

「ううむ! むむむ! ここは助けに入るべきなのか? 特使とはいえ、化け物の調査に関してのみだしな! 僕のスマートフォンまで没収されたら堪らないしな! 悪いのは女生徒だしな!」

 弱者を守るためならルールを無視してもいい、なんてのは正義じゃない、とファウストは思っている。

「触らないで……。お願い……。やめて……」

 女生徒はしゃがんだまま廊下の壁際まで追いつめられている。見るからに絶体絶命である。

「その時だった! おおおお! 僕は今、猛烈に驚いている!」

 歴史研究会のドアが、少し開いていた。

「まがまがしい! 冷気が漏れだして! スースーする!」

 ドライアイスのスモークのようなものが、ちょっと開いたドアの隙間から流れ出している。目の錯覚かもしれない。

「手が! 指が! 怖い! ちょっとだけ見えている!」

 ドアを開けるために手がかかっている。ドアを少しだけ開け、その状態で停止している。

「とても静か! 生命反応が感じられない! 墓地のごとく!」

 気配とか、呼吸とかが感じられない。

「むしろマイナスを感じる! 吸われそう!」

 まだ指しか見えていないが、大したインパクトだった。

「……何だよ。騒がしいな」

 自治隊員がファウストを睨んだ。

「いじめっ子に見つかった! ダブルショック!」

 ファウストが交互に顔を振る度に、冠の飾りがシャランシャランと鳴る。

「え、何その格好……」

 末端の隊員まで特使のコスチュームについて情報が伝わっていないようだ。

「明日の朝礼あたりで公表されるのかな!」

 このままでは只の派手好きである。

「ハロウィンの仮装か? いずれにしても、とんでもない校則違反だよな。最新のスマートフォンが手に入ったら、あいつもぶちのめしておこう」

 優先順位で下位にされ、ちょっとほっとした。

「うわっ!」

 ファウストが驚いた。ドアの向こうから砂袋が投げられたのだ。ドサッという音を立て、豪快に砂が廊下に蒔かれた。

「砂袋は開封されていたので! 白い砂が着地と共にぶちまけられ……、ヒイイ!!」

 ドアの向こうに立っていたのは、一人の女子生徒であった。

「ドアが大きく開かれた! 僕はその姿を見ている! 一言で、異様!」

 土嚢くらいの砂袋を放り投げたとは思えない、細く、華奢な女性であった。さぞ体育は苦手だろう。

「仮面! マスカレード?! 目だけ覆う感じの!」

 銀色のプレートに、黒い装飾がちりばめられている。

「何が異様って! 目の部分も、穴が開いていない! でも見えてるんだろうね! ドアを開けたりできているのだから!」

 目の部分の装飾は、目が閉じたような模様になっている。

「閉じた目は、余裕なのか! 諦めなのか! とにかく静か!」

 マジックミラーのようでもない。

「その手に乗せられているものが、さらに異様ッ!」

 水晶でできたドクロである。目が光っている。

「もしかして! あのドクロの方の目で見ているの?!」

 ドクロなので目は空洞なのだが、眼球があるだろう部分が怪しく青く光り、たまにキョロキョロとする。

「間違いない! 見ている! どういう仕組みで映像が伝送されているのかは想像もつかないが! 無線LANですかね?!」

 昨今のデジタルデバイスの進歩には目を見張るものがあります。が、科学的なものではなさそうである。

「おい、なんだこれ? すぐに片づけろよ、この砂」

 自治隊員もさすがに振り返った。その隙に女子生徒は素早く立ち上がる。

「これ、砂か? え、何これ……」

 見れば、白い砂に風紋のようなしま模様ができている。

「こいつ! 動くぞ!」

 白い砂が、ザワザワと、少しずつうごめいている。水晶ドクロの目の光が強くなるにつれ、砂の動きも激しくなってゆく。

「やべえ……。こいつはやべえぞ!」

 一カ所に集まってゆく。一粒一粒が、己の意志を持つかのように集合してゆく。

「す、砂が、え、ば、化け物……」

 無形の粒子が、フォルムを獲得してゆく。足下から見る見る出来上がってゆく。

「何ができるのだろうか?! 砂の量から見て、それほど大型のものではないだろう! 全長一メートルくらいのもではないかな?!」

 マスカレードの女は水晶ドクロを口元に寄せ、何か囁いている。顔は前に向けている。目の光がどんどん強くなっていく。

「ふわわわ! 目が! マスカレードの方の目が!」

 さっきまでは確かに閉じていた。しっかりと目が閉じられたデザインだったのだ。

「薄目を開けている!」

 開けられた目も装飾のようで、結局、外は見えないようになっているらしい。

「目が赤い! 燃えるような炎のような赤さ! 怖い!」

 薄目だったのが、少しずつ開いていく。

「目の開くスピード! ドクロの目の光! そして白砂のざわめき! 同期している! 比例しているぞ!」

 水晶ドクロは、人間の頭蓋骨の半分くらいのスケールである。だから顔の前で持っていてもマスカレードは見えるし、マスカレードの女が何事か囁いているのも見えるのである。

「口も動いているぞー! ドクロの方の口が! 後ろで何か言われているのに反応して! カタカタカタと! 僕は怖くて怖くて仕方ないですさっきから!」

 囁くスピードや強度も、他と同調してテンションが上がっていっているようだが、何を言っているのかはファウストの位置からは全く聞こえない。

「声が小さいのかな?! 覆面をするくらいだから、恥ずかしがり屋さんなんだろうね!」

 ファウストは砂の方に視線を移す。直視していると目が痛いくらいに光が強くなってきたのだ。

「ちょっと嘘でしょ?!」

 廊下に蒔かれた砂の量からして、それほど大型の恐竜ではないだろうと油断していた。

「ラプトルとか、大きめの三葉虫とかだろうと予想していたのに! まさかのムカシトカゲ!」

 まさに生きる化石。見た目はイグアナのようである。

「……うわー……」

 自治隊員も、女生徒も、リアクションに困っている。

「せめてもっと怖いか気持ち悪いかしていれば、キャーっつって逃げられたのに……」

 女生徒が恨めしそうに言う。

「目がクリッとしてて、かわいいかもしれない」

 自治隊員もが言う。

「皮膚のゴツゴツした感じなんかは、いかにも恐竜って感じよね」

 女生徒が言う。二人で感想を言い合っている。

「ええい! このままではらちがあかない!」

 ファウストは覚悟を決めた。

「そこの二人! 早く逃げるんだ! ムカシトカゲはそれほど凶暴ではないけれど!」

 突然の金色マント男の発言に、二人は吹き出した。

「きもい」

「変態」

 それぞれの捨てぜりふと共に、二人は別々の方向へと去っていった。

「やれやれ! なんとかスマートフォンを守ることができた! もはや目的がそれでいいのか自信はない!」

 ファウストはムカシトカゲを見る。まだ尻尾が出来上がっていない。ドクロの目の光は更に強くなっている。二人が去っても、途中で止めようとはしないらしい。

「僕は迷っている! マクベス先輩に電話すべきかどうか! 先輩は迷わずに電話しろと仰ったけど!」

 尻尾もほとんど出来上がってきた。あと一息だ。

「あの人が、僕らを襲ってきた犯人に間違いないだろう! 確かめるまでもない。それでも迷っているのは! 僕だけで解決して、先輩にいいかっこしたいからか?」

 ファウストは両腕を広げ、マントを翻した。

「それとも! こんな時間に電話することに後ろめたさを覚えているとでもいうのか!」

 単にビビっているだけという見方もある。

「甘いぜファウストォ! だからお前はいつまで経っても甘ちゃんなんだよ!」

 力強い女性の声と共に、ファウストの背後から人影が飛び出した。

「ジライヤ先輩?!」

 声の主が誰なのかに気づき、声を上げた頃には、ジライヤはすでにムカシトカゲを粉砕していた。

「早くて強い!」

 赤い棍棒を片手で打ちつけ、廊下に直径一メートルほどのクレーターを作った。ムカシトカゲは跡形もなく、再び白い砂として四散した。

「ヌルいねえ! 準備期間がなきゃこんなもんか?」

 ジライヤは棍棒を肩に担ぎ、余裕しゃくしゃくでマスカレードに言う。

「光が消灯した! 電球が切れたかのように!」

 マスカレード女は固まったままだ。目も再び閉じられた。

「歴史研究会、部長の、メフィストだな?」

 ジライヤが言う。言われた方は応えない。

「メフィストさんと仰るのですか? いつの間に調べたのだろう? それ以前に、ジライヤ先輩はどこから現れた?」

 次々に発せられるファウストの質問を、ジライヤはまんざらでもなさげで聞いている。

「生徒の素性なんて、生徒会ならスマートフォンですぐに調べられるし、尾行なんて忍者にとっては朝飯前だし」

 律儀に回答してくれた。


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