シャッター街の彼女
0.
――私待っているわ、いつまでも
あの声、あの日から、待ち続けているの
もう、帰れない日々だけれど
それでもいつかの私のために
前に進めないわけじゃない
後ろばかり向いていたいわけでもない
でも今は一人で あなたを想っていたいの――
まるで、あの夢をなぞったかのような歌詞。前に進めないわけじゃないなんて言うが、僕だけが知っている。彼女の心が、あの日々から動けずにいることを。
だから――。
「どうしてあんなに悲しそうに唄うんだろう。どちらかと言えば、明るい歌詞だと思うんだけどなぁ」
そう紗枝が不思議がっても、僕が軽々しく口を挟むことなんて出来なかったのだ。
「でもさぁ、この子結構見所あるじゃん。普通はメロディだけ聞いて、歌詞はまったく覚えてないなんて人ばっかりだよ」
楓の知識は、すなわち僕の知識だ。同じ知識を持つ者が出す結論と言うのは、たいてい同じであって、つまり僕も紗枝に対して良い評価を下していた。悠里香の歌は、曲もそうだが、歌詞が良い。世の中には埋もれているだけで、素晴らしい作品を作ることの出来る人間が山ほどいるのだろうが、彼女はその中の一人だろう。最初の頃より、彼女の歌に対する評価がずいぶん上がっているのは、何度か聞くうちに、そう思ったからだ。まぁ、僕は別に専門家じゃないから、そんなにすぐに良し悪しがわからなくてもいいよね……。まぁ、悠里香の場合はビジュアルもいいし、女子高生の心を捕らえるくらいだから、いずれは世に出て、僕たちの手の届かない所へ行ってしまうのかもしれない。肝心の歌唱力がイマイチじゃなくなれば、だけど。
「あれ、境谷さん……。よかった、また会えて。って、私が言うと怒られちゃいますよね。この間は勝手に帰ってしまって、本当にすいませんでした。時間がなかったものですから」
“よかった”というのはむしろこっちのセリフだった。あんな別れ方をしたものだから、次に会った時気まずくなるだろうと予想していたのだ。
「あんな雨の中を傘も差さずに帰るから、心配したんだよ?」
「あのー、お二人って、もしかしてお付き合いとかされてるんですか?」
『えっ「してないですよ」』
僕の驚きの声と同時に悠里香が否定の言葉を重ねてくる。
「ほれ見なさい。誰がどう見たって、いちゃいちゃし過ぎなのよ。あなたにそういうつもりがないなら、相手の子に迷惑なレベルよ。自覚ないとか言わせないんだから」
ちょっとそこ、うるさいぞ。だいたい向こうだってそういうつもりじゃないみたいじゃないか。
『あの「あの……」』「あ、先にどうぞ」
なんだか中学生みたいなやり取りをした後、悠里香はおかしそうに僕を促した。
「うん……、後でちょっと、話があるんだ」
「えっ……、何ですか、気になります」
さすがに紗枝に聞かせられることではない。今まで忘れていてごめんだなんて。
「じゃあ今度は私の番ですね。その子とお付き合いしてるんですか?」
『違う「あの……えっと……はぅ」今日知り合ったばかりだし』
「あれなのよね、やっぱどうにかして実体を持たないと、私の空気っぷりが半端ないわ。日本人形かなんかに憑りついてやろうかしら」
さらっと恐ろしいことを言わないで下さい。
「日本人形に憑りついたはいいが、人形から出られなくなったら知らんぞ」
「ちょっ、こわっ! もう、どうしてくれんのよ! 今日寝れないじゃん」
いや、お前幽霊だろ。
「あれ、先輩。その子、さっきの子ですよね。丁度探してたんすよ。それにしても早速一緒にいるとかパネェっす」
「あ……、さっきの店長さん……」
紗枝が気まずそうに僕の後ろに隠れた、って、たぶんそんなんだから誤解されるんだと思う。ほら、サトルの目つきがなんかいやらしいし。でもまぁ、探してたなんて言われたら不安になるのも無理ないか。
「お前もこの人の歌を聴きに来たのか?」
いい加減いじられるのにも飽きてきたので、話題をそらしてみた。
「えっ? 何言ってんすか? その子、歌でもやってるんですか?」
「そりゃ失礼だろ、ギター持って座ってるじゃん」
「え……誰がっすか?」
場が沈黙してしまう。紗枝が気まずそうにサトルと悠里香の顔を交互に見ていた。
「お前、初対面の人に失礼過ぎやしないか?」
僕はいらだちというよりは、驚きと失望を込めた声を出した。
「境谷さん、いいんですよ、私本当は――」
「待ちなさいよ、何言う気なのあんた。それでいいと思ってんの?」
聞こえる筈のない楓の声に遮られたかのように、悠里香は口をつぐんだ。
「先輩、からかわないで下さいよ。まぁいいや、君、ちょっといいかな?」
サトルは、紗枝に顔を向けた。何か、少し嬉しそうな顔。僕は、それにふと言い知れない不気味さを感じた。
「はい……? 何ですか?」
紗枝は一瞬きょとんとした顔をしたものの、先ほどの万引きがバレたと思ったのか、不安そうな顔で僕を見つめた。そんな彼女の落ち着かない様子が全く目に入らないと言った感じでサトルは口を開く。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど。さっき君と一緒にお店に来てた子、なんて名前なのかな?」
「え……、あの、どうしてそんなこと聞くんですか?」
「うん、ちょっと学校に電話を入れさせてもらおうと思ってね」
そんなことをしたら紗枝から名前が漏れたと思われるに決まっているのだから、彼女がどんな目に合うか、簡単に想像が付くだろうに。悠里香が、激しく非難するような目付きでサトルを睨んでいた。
「あの、さっきのことなら謝ります。だから、名前は……言わせないで下さい」
「はぁ? なんでお前がかばうわけ? 何? 本当に友達とか言っちゃうの?」
「おい、よせよ」
サトルは体格も良く、凄まれたら大人の男でもひるみかねない。こんな気の弱そうな女の子なら、怖くてしょうがないだろう。
「先輩まで何言ってるんすか? 俺はねぇ、その子を助けてやろうと思ってるんすよ。いじめってのは、その子だけじゃ解決出来ないものですからね」
「部外者が引っ掻き回してどうなるっていうんだ。お前、ちょっと変だぞ。そもそも、前から知ってる子ならともかく、この子とは今日会ったばかりだろうが」
「そんなの関係ねぇっすよ、ほら、名前教えてくれよ。助けてやるって言ってんだろ」
「や……怖い」
「やめなさいサトル!」
悠里香が叫んだ。彼女が知る筈もない、サトルというう名を読んで。だが、サトルはそれを完全に無視しているのか、表情に変化さえ起こさない。
「ちょっと、このハゲ休ませたほうがいいんじゃない? 頭おかしくなっちゃってるんじゃないの?」
楓は口でこそそう言うが、心配そうな眼差しでサトルのことを見ていた。いつもの彼ではない。あの、明るく前を向いていた彼では。
「サトル……どうして無視するの?」
悠里香が悲しそうな声を出す。この二人は知り合いだったのだろうか。サトルは、それでも彼女に反応を返さない。
「サトル、どうして悠里香さんのことを無視するんだ」
見かねて、サトルを問い詰める。
「悠里香? 誰ですそれ。その子、紗枝っていうんじゃないんですか? ていうかさっきからおかしいのは先輩の方ですよ。 まるで、見えちゃいけないものが見えてるみたいだ。言っときますけど、からかってなんかないっすよ。ここには、俺と先輩と紗枝って子しかいません。先輩、大丈夫っすか……?」
サトルが急に心配そうな目で僕を見てくる。楓のほうを見ると、こめかみに手を当てて小さくかぶりを振っていた。まさか……、そんなことがあってたまるか。悠里香は、こんなにも、リアルなのに。声が聞こえる。歌が、バラードが聞こえてくる。彼女の気持ちを痛いほどのせて。それは、紛れもなく生きているということだ。そう思う反面、彼女がいつまでも何の注目を浴びず一人で演奏している不自然さの理由を突きつけられた気がして、背中からぶわっと汗が噴出した。
「なぁ、楓。お前、前に悠里香が普通じゃないとか言ってたよな……。それってこういう意味だったのか?」
楓は言葉こそ発しなかったが、気まずそうに目をそらしたその仕草が、僕の質問を肯定していた。
だが、それだと紗枝に悠里香が見えているのがおかしいではないか。
「でも、紗枝ちゃんは悠里香さんの歌を聴きに来たんだよね?」
直接悠里香の目を見れず、周りの人間に意見を聞こうとする弱さを許して欲しかった。こういう時、誰に言い訳をしたらいい?
「はい、そうですよ。言っちゃ悪いですけど、おかしいのは店長さんの方だと思います」
紗枝は僕が臨んでいた通りそう言ったのだが、楓が悠里香を特殊な存在だ認めたことが、どうしてもぬぐいきれなかった。思えば、紗枝は少しとはいえ、楓が見えたことがある。つまり、彼女もきっとどこかで回線とやらが繋がってしまったのではないだろうか。そこまで考えて、僕は楓の顔をもう一度窺った。彼女は、今度ははっきり首を縦に振った。僕の質問を察してのことだろう。
「そんな……まさか……違うよね、悠里香ちゃん」
僕はようやく悠里香に声をかける。
全ては遅すぎたのかもしれない。僕は彼女に会って、ただ謝りたかっただけなのに。戻れるとしたら、僕たちは何年前からやり直せばいいのだろう。
「私、たまに不安になる時があるんです。一日の終わり際に、ふっと意識が途切れて気付いたら翌日、へたしたら何日も後に気が付くんです。自分がどこで寝ているかすらよくわかってないんですよ。病院に行こうと思っただけで、頭が痛くなるし……。でも、サトルが私を無視する筈なんてない。私、一体どうしちゃったんだろう」
悠里香は蒼白な顔で早口にまくしたてると、頭を両手で抱え込んでしまった。
「悠香里さん、サトルとはどうやって知り合ったんですか?」
そう訊ねた時、僕には既に答えがわかっていたような気がする。それでも、訊ねて彼女にその答えを否定してもらわなければならなかった。だってそうすることは、彼女が死んでいないということを証明する最後の希望だったから。
「サトルは、弟です」
サトルを見ながら、怒ったように、出来の悪い弟をたしなめるように彼女がそう答えたのを聞いた時、僕はゆっくりと瞳を閉じた。
悠里香、由香利。ゆりか、ゆかり。なんてことはない、本名を少しもじっていただけ。だけどそんなことにも僕は気付けなかった。
「どうして、教えてくれなかったんだよ、お前には最初からわかっていたんだろ!?」
僕は、身体から抜けていく力を感じつつ、楓を問い詰めてしまう。彼女が悪いわけでもないのに。
「だって、本人が自分は生きているって思っているもの。それなら、そういう夢を見させて上げたくなるじゃない。真くんにだって、わかるでしょ?」
確かに、僕が楓の立場でも、一々残酷な事実を突きつけたりはしないだろう。
「あの……、何の話なんですか?」
悠香里が不安そうに訊ねてきた。
「うん、なんでもない。ちょっと変なものが見えただけさ」
「あっ、またですか? この人、さっきもそうだったんですよね……」
紗枝が本気で心配するような目で見てくる。いや、お前だってさっき楓が見えてただろ。まぁ、傍から見れば。僕が一番おかしく見えるのは自覚しているが……。
「先輩こないだも変なものが見えてるって感じでしたよね……本気でどうかしてるんじゃないですか?」
「変なもの変なものって……あんたたちいい加減にしなさいよ!」
雲行きが怪しくなってきたな。とりあえず由香利は自覚していないようだ。楓の言う通り、そんな彼女にお前はもう死んでいるなんて言える筈もなく。とりあえずここは僕一人おかしいということにしておくしかないようだ。
「そういえば、お前には悠里香が見えているのに、悠里香には見えてないようだけど……?」
「うーん、そんな筈ないんだけどなぁ。自分が生きてるって勘違いしてるからってわけでもなさそうだし」
勘の鋭い紗枝には楓が見えることがあるのだし、つまり、由香利は霊感のない幽霊とでもいうのだろうか、なんじゃそりゃ。
「先輩、話聞いてます?」
「あー、悪い悪い、最近よく寝れなくてさ、幻覚でも見えたみたいだ。それより、紗枝ちゃん、ちょっといいかな?」
」「あっ――はい」
僕は、もじもじしている彼女の手を少し強く引いて、会話の声が聞こえないところまで連れていった。
「あのさ、由香利……じゃなかった、悠里香さんのことだけど。彼女の歌を誰かと一緒に聴きに来たことってある?」
「私に、そんな人いません」
紗枝は寂しそうにうつむく。彼女にとっては都合の悪いことを聞いたのだろう。それを申し訳なく思う一方で、ちゃんと話をしておかねばならないことを強く感じていた。
「さっき、幽霊みたいなのが見えたって言ってたよね、君、霊感は強い方?」
紗枝の顔が、何かを警戒するようなものに変わった。まぁ、何言ってんだこのオカルト野郎ってとこだろうか。だからと言って僕も引き下がるわけにはいかない。楓や由利香が見える彼女はある意味、貴重な仲間なのかもしれないし。それ以前に、滅多なことを口走られても困る。
「あのさ、変なこと言ってるってのは自覚してるけど……答えてくれないかな」
「えっと、霊感は強い……と思います。小さい頃は特にそうだったと思います。だけど……その……壷は買いませんから」
壷って……。頭が痛くなる。やっぱそういう風にしか見えないか。
「あの。私が霊感があるとか言ったこと、誰にも言わないで下さいね」
怯えが混じった真剣な表情で、すがるように僕の腕を掴んだ。もしかして、幽霊が見えるなんて自慢げに口走ってしまったことがあったのかもしれない。普通ならそんなことは大したことがないのだが、何か欠点を見つけようと躍起になっている連中にとっては格好の材料になるのかもしれなかった。
「本題なんだけどさ、あの悠里香っていう人、どうやら幽霊なんだよね」
心のどこかで違っていて欲しいというか、まだにわかに信じられない気持ちがあるのにそれを振り切って声にしてしまうことが、何だかたまらなく後味の悪いことだと、僕はその時思い知らされた。
「あの……からかわないで……下さい」
見れば、少し怒ったような顔をしていた。
「私、確かに小さい頃はそんなものが見えたこともありました。だけど、今はもうそんなことなんてないんですよ……、なかったんだから!」
触れてはいけない話題だったのだろう。性格からか、そこまで強く言うことは出来ないみたいだが、さっきからしきりにうつむいたままで手遊びをしている。指先は、白くなっていた。彼女がはっきり言えないのは、公園で楓を見てしまったこともあるのだろう。
「君が公園で見た幽霊の子、髪が長くて白いワンピース着てたろ」
紗枝は無言で返したが、よく見ると顔色は気の毒なほどにさらに青ざめていた。
「そうなんだね……?」
訊ねると、しばらくしてようやくぎこちなくうなずいた。
「やった! ついに真くん以外で私が見える人を発見したわ!」
楓は踊り出しかねないほど喜んでいた。テンションが一人だけ場違いだ。個人的にいつも楽しそうにしてくれているのには、とても救われているが……。辛気臭く振舞ってたら、ちょっとは迫力も出てくるのかな。
「ん? 何見てんの?」
「いや、大したアホ面だと思って」
「ちょっ、やっとしゃべってくれたと思ったら、真顔でなんてこと言ってくれんのよ! マジひどくない?」
そう言いながらもにこにこしているのがこの楓というやつなのだろう。別に、笑いながら怒るような器用なタイプでもないし。
「あれだ、子犬系!」
「なになに? ちょっと嬉しいかも! 犬みたいにかわいいってことでしょ?」
いや、とにかく構ってやれば犬みたいに懐いてくるという意味で言ったんだが。うん、これは絶対に秘密だな。
とにかく、片付けるべき問題が山積みだ。
「わかったろ、残念だけど、俺も君も幽霊が見える体質ってやつらしい、馬鹿げてるけどな」
「悠里香さんも、幽霊だっていうんですか?」
「あぁ……、サトルの姉は、もう何年も前に亡くなってる。でも彼女は自分が死んだことがわかっていないんだ」
「人は死んだら天国とか極楽浄土とか、そういうところに行くんだと思っていました」
「僕だってそうさ、だけど、それって良く考えたらおかしくね? 僕たちが生まれた時には既にそういう考え方が出来上がってて、それを僕たりがありのままに受け止めてしまっていただけだろ?」
「……、一応話は合わせておきます。まだ信じられないですけど」
そう言ってくれるだけで十分だった。しかし、これで僕は紗枝の中で完全な変態に分類されてしまったな。ついさっきまでの純粋な視線が既に懐かしく感じる。
「由香利のことは常時見えるのに、私はたまにしか見えないなんて、なんか嫌な感じ。私ってそんなに存在感ないかなぁ」
楓はそう言いながら、紗枝の両肩に自分の手をひょいっと乗せた。
「なんか、マジで憑りついてるみたいだからやめなさい」
「いいじゃん別に。私、これでもこの子のこと結構気に入ってるんだもん。いつか私のことをちゃんと認識出来る様に、日頃からスキンシップしておかなきゃ」
うーん、世の中の心霊現象というのは、案外こういうものなのかもしれないな。
「サトル、いい加減に返事しなさい」
由香利が少し声を荒げた。サトルは電信柱に寄りかかかって、彼女から丁度顔を背けるような方向を向いていた。
「悠里香ちゃん、サトルのやつ最近ちょっと嫌なことがあってナイーブになってるのかも。男ってそういう時に触れられるのが嫌な生き物なんだ。そっとしてあげよう」
「……わかりました」
「あ、先輩、内緒話は終わりました? まぁ先輩のオカルト趣味は理解に苦しみまずが、慣れておくことにします。それよりあんた、いじめの相手のことを聞かせてくれ」
「迷惑だと……思わないんですか?」
「……はぁ?」
サトルは搾り出すような声の紗枝をさらに萎縮させるような態度をとる。
「私、あなたのこと……よく知りません。それなのに、いきなりそんな個人的なこと聞かれても困ります……気持ち悪い……です」
「俺はいじめなんてするやつは皆死んでもいいと思ってる。見てみぬ振りをする他の奴ら、教師も同類だ。だけど現実派、あんたみたいにいじめられてる奴が山ほどいて、そいつらは誰かの助けを待ち続けるしかない。だったら、俺がやってやるって思った。間違ってるか?」
「サトル、気持ちはわかるが、どう考えてもおかしい。もう一日、ゆっくり頭を冷やして来い」
「もう一日? 現在進行形で苦しんでるやつがいるのに? 何言ってんですか?」
「もー、ハゲの奴、いつの間にこんなにラリってんのよ」
……お前はいつの間にそんな言葉を覚えてんのよ。まぁでも、同意見だ。
「とにかく、本人が嫌がってるんだからよしな」
「……どうしてなんだよ。俺じゃ、ダメっていうのかよ」
サトルの病的と言っていいほどの瞳はその時、何を映していたのだろう。
「あの……、私帰ります」
紗枝が目をそらしながら言う。悪いことをしたと思う。
彼女は振り返ることもなく早足でその場を後にした。
「サトル、今度でいいからあの子にちゃんと謝りなさい」
そして、聞こえる筈のない声を出し続ける由香利を見ているのが、たまらなく辛かった。
「なぁサトル、仮にあの子をいじめている子の名前を聞いて、お前はどうするつもりだったんだ?」
「とにかく手段を選びません。二度といじめなんてしたくないようにさせてやる」
いや、それは常識的に考えて犯罪だろ。いくら親父さんをなくして今の孤独感の理由を、姉を死に追いやったいじめのせいだと感じたかったとしても、正常な判断が出来てなさ過ぎる。
鬱屈した孤独というのは、人間を狂わせる。
いろんなことが許せなくなる。直接の原因を作ったやつ。関係ないというように振舞う奴ら。果ては、その辺の幸せそうな顔をして歩いている、まったく自分とは関係のない人間。そういう全てをまとめて殺してしまいたくなるほど、人間そのものを蝕む病魔だ。
「なんて、幼稚な」
その声が出たのは、僕の口からか、それとも――。
「サトル、先に帰っているから、後でゆっくり話をしましょう」
それだけ言って、靴の音が響き渡るくらい肩をいからせながら由香利が去っていく。もし、この声が彼に聞こえていたのなら、これから起こることは、どこか遠くを映した、空に浮かんだしゃぼん玉のように、弾けて消えていたに違いない。
由香利の背中がやがて小さくなる。彼女に本当のことを言うべきか、迷いながらそれを眺めている。踏み出そうとする足が杭に打たれたように動かせない。もう死んでいるなんて、本人だけがそれを知らないなんて。痛む胸を感じながら立ち尽くす他に何が出来たというのだろう。次の瞬間、酒屋の方へ厚い手いた彼女の姿がふっと薄くなって、ついには見えなくなってしまった。僕は目を丸くしたが、そんな始めて見る不可思議な現象に、声を上げてしまうほどは驚かず、むしろそれを自然なこととして受け止めている自分を冷静に見つめていた。
「なぁ、由香利のやつ、どうしたんだ?」
「さぁてね。もしかしたらあの子、自宅には寄り付けないようになってるのかも。心の何処かでそれを拒んてるっていうか」
「両親と喧嘩して、飛び出したんだもんな、戻りづらいのかもしれない」
サトルは、拳を硬く握り締めながら自分を責めるように顔を歪めている。
「なぁ、飲みにでも行くか? おごってやるよ」
「いえ、ちょっと寄るところあるんで。そもそも、その途中で先輩達に会っただけですからね」
サトルは手も振らずに背を向ける。迷いなく歩いていく先は、いつかの花屋。白いユリの花を手に出てきた彼の背中が、僕の胸を苦しくさせた。
辛い時は、自分の意見に同調してくれないと、裏切られたように感じるのかもしれない。そうしてとった態度が周りをさらに遠ざけるのかもしれない。だけど、せめて僕は決して離れない。そう思った。
「うわっ! なんかハゲの背中に熱い視線を送ってない? まさか真くんて、本当にそっち系!? それで私に対して何のモーションもかけてこないわけ? やば……、キモっ!」
「違うわい! 僕はいたってノーマルだ。そうだな、由香利ちゃんみたいなのが丁度タイプだ。お前みたいなお子様は相手にしないの。あと、“キモっ”とか言っちゃいけません、お兄さん何気に傷つきました」
「ひたたたたっ! また鼻つまむー。あっ、左右に揺らすなー、もげるっ、もげる!」
鼻声で涙目になっている楓を見ていると、それまでのどんよりした心が洗われるようだった。あと、そんなことで鼻がもげるか。
「もうっ、このドS! さてはあれでしょ。ハゲの後ろ姿を見ながら、脳内ではあんなことやこんなことを――いったたたた」
「だから僕はお子ちゃまは相手にちないんでちゅー」
「ちょっと! “でちゅ”って何よ、“でちゅ”って。お子様っていうかむしろ赤ちゃん扱い!? もう一回言ってみなさいよ、どんなのがタイプなのよ」
「いや、だから俺は由利香みたいな大人の人が好きなのであって、ロリコンではないのだ」
「本当ですか!?」
……はい? 僕はおそるおそる、何秒もかけてゆっくり首をひねっていく。そして、その先にいた人物をみとめると一瞬で首を元に戻す。完全にハメられた。ドヤ顔でこっちを見ている楓。由香利は、両手を頬に当てたままうつむいてしまっている。
もはや身動きもとれず、僕はその場に固まっていた。
「あれ……今、由香利って?」
急にはっとした様子で、大きく目を見開く由香利。夏の風が僕たちの頬を撫でた。僕は今、言いたかったことを言わないといけない。
「……思い出したんだ。今まで忘れていて本当にごめん」
もっと伝えたいことがあって、もっと良い言い方も沢山あるのに、ありきたりな言葉しか口に出来ない僕の不器用さがどうしようもなく歯がゆい。
「……もし、覚えていてくれたら、思い出してくれたなら……、言いたかったことがあるんです、言っても、いいですか?」
その顔はとても不安げで、儚げで、今にも泣き出しそで、僕はそんな彼女を眺めながらたたずんでいた。
二人の間を夏という季節が漂っていた。
「ちょっと、いいの? 彼女が何を言おうとしているか、本当はわかるんじゃないの? このままじゃ絶対後悔する。真くんじゃなくて由香利さんも、サトルだって傷つくことになるかもしれない、いやきっとなる。そんなの、悲しすぎるよ」
叶わない願い、行き先のわかった恋。そんなのクソくらえだ。孤独が何だ。いじめが何だ。先が見えているから、それが何だっていうんだ。彼女が、たとえ他の誰に見えなくても、僕には見えている。続き夢。その中で伝わってきた彼女の想い。壊れそうな心が、いつしか彼女の音楽すら変質させ、それでも最後に残ったたった一つの大切なもの。そんな気持ちをぶつけられたら、目をそむけるわけにはいかないじゃないか。僕は、きょろきょろしながら少しうつむいたままの由香利に微笑みながら、彼女の質問にうなずいた。
彼女は、まだ死んでない――。
「あの……ずっと好きでした! 私なんかでよければ、付き合って、ください」
ありふれた告白。特別に飾られた言葉も、状況も何もない。今この瞬間にでも、この国中でどれだけ同じセリフが口にされたのかわからない。だけど、目の前の女の子がそれを言うまでに、どれだけの辛さに耐えて、どれだけの時間がかかったのだろう。
「真くん、駄目! 彼女はもう死んでるのよ!? 死人の想いにひきずられたら駄目なんだってば。悪いこと言わないから、馬鹿なことやめときなさい」
「いいよ、付き合おう。いや、これじゃ偉そうだな……。うん、こちらこそ僕なんかでよければ、付き合ってください」
その時の由香利の、嬉しそうな顔を、その涙を。僕は生涯忘れない。
「あ……、そういえば、まだ携帯の番号も教えてなかったよね。……あれ? どこにいったんだろ、おかしいなぁ」
由香利が、焦った感じでバッグをひっかき回す。携帯なんて、彼女が持っている筈がない。あったとしても、その番号にかけたところで、決して繋がることはないだろう。
「携帯なんかなくてもいいじゃん。会う度に、次に会う場所と時間を決めておけば」
なんとかその場を流したくてそんなことを言う。
「歌作っている私が言うのもなんだけど、結構キザなこと言うのね。でも、やっぱり嫌。普段から連絡とれるようにしておきたいもの。アドレス、教えておきます。あれ? アドレス、忘れる筈ないのに……あれ?」
彼女の心が、死を受け入れることを拒否している、ゆえに矛盾が出るようなことに関しては、覚えていないか、都合よく記憶が改ざんされているらしい。家に帰れないのもそういうことだ。そう、楓が後で説明してくれた。
1.
家路を辿る。楓は着いてきてはいるものの、一言も口を利かない。心なしか、というより明らかにムスっとしている。彼女の言葉に従わなかったことが原因だろうが、仮にリセットボタンが押されたとしても僕は何度でも同じことをするだろう。
翌日、バイトに向かったがシャッターが閉まったままだった。臨時休業の連絡は受けていない。何故だか、とても気分がざらついた。
二宮家の呼び鈴を押す。何度繰り返しても反応がない。まさか昨日から帰っていないのだろうか、そんな考えが頭をよぎった。思い切って玄関のドアを引いてみる。鍵はかかっていなかった。薄暗いじっとりとした雰囲気がする廊下を歩いていく。一晩にして生活感が消え去ったような、そんな錯覚。古い家なので、足を進める度にぎしぎしという音が鳴り渡る。
「おい楓……、楓ちゃん」
「……何よ、世紀末級のアホ。髪型、モヒカンとかにしたら?」
いや、さすがに秘孔を突かれる勇気はない。
「あのさ、幽霊みたいななのがいたら、教えてくれない?」
楓は自分の顎に指を差し、大きな目を丸くしてこちらを見る。
「は? どういうこと?」
「いや、お前や由香利以外のことね。うん、そういうのがもしいたら、全力で逃げようと思って」
「……すっごい情けないこと言ってるのわかってる?」
「いいから、絶対だからな!」
みしみしと階段を上った先の部屋のドアが開いていた。そこは、特にひどく埃が積もり、壁なども痛んでいるように見えた。いくつかのぬいぐるみ、色褪せたまま貼られているポスター、たてかけられたネックの折れたギター。 僕は、そのギターに見覚えがあった。だってそれは、いつも由香利が抱えていたものだったから。
きっとこの部屋だけ、由香利が死んだ日から時を進めることをやめたのだろう。僕は夏の闇に誘われるように、部屋の奥へ進んだ。子供が使う学習机。綺麗に整頓されていた筈のそれの引き出しは滅茶苦茶にひっくり返されて、中身がそこら中に散乱していた。その中に落ちていた、一枚のMDが目に入ると、僕は引き寄せられるようにそれをポケットに入れた。見覚えのある大学ノートが目につく。由香利が、夢の中で書き綴っていた、あの日記……。これが現実に存在するということは、やはりあの夢は嘘なんかじゃなかったのだ。僕は日記を手に取り、ページをめくっていく。夢の中では感じ取れなかった文字の生々しさ、涙のしずくが乾いた跡。この紙一枚一枚に、彼女の悲しみがどれほど込められているのか。
「勝手に上がりこんだ挙句、日記まで見るとか問題大有りだと思うんだけど……。もしハゲがどっかコンビニにでも行ってただけなら、どうやって言い訳するつもりなの?」
楓の言うことは至極もっともだが、僕はサトルが“どっかコンビニにでも行ってただけ”などではないことを確信していた。
乱暴に破り取られたページの跡。そこに何が書かれていたのか。ただ、嫌な予感だけが体中を走り回った。とにかく、サトルを探さねば……。
「なんか、こんなんばっかりね」
「言うな、気が滅入ってくるから」
暑い。正午の日差しは、容赦なく世界を焼き尽くす。
「で? どこ探すの?」
「紗枝の高校だよ」
「どこか知ってるの? ……てかなんでまずそこなの?」
「あの制服は蛍凛女子高だよ。つまり、由香利の母校ってわけだ」
高校の周りはさすがに女子生徒が目立ち、若い男がいるだけでかなり浮く感じだった。遠目に視線を集めているのがわかる。
僕は側を通っていく子に声をかけた。
「あの、ちょっといいですか?」
そのまま普通に素通りされてしまう。楓と会話するようになってからというもの、やたら自分の挙動が不審になっていることは自覚しているが、まさか楓と会話していない時でも立ち振舞いがおかしくなっているのだろうか。
「ぷっ、くくく……、ナンパと勘違いされてやんの」
「……そうなん?」
「いや、どう考えてもそうでしょ。知らない男からいきなり話しかけられたら普通怖いって」
それは困る。今だけ女になりたい。
割と偏差値の高い学校らしいが、確かに派手な格好をしている者は滅多にいない。普通の子よりも男に慣れていないのか、何人かに声をかけたが、恥ずかしそうに去っていく者、怖がって目を合わせようとしない者などばかりで、ろくに話を聞くことが出来ないでいた。
「このままじゃ、翌日の朝礼で妙な男に注意してください、あいつは変態ですとか言われるわよ? ていうか、そのうち教師に通報されるんじゃない?」
なんでそんな目に……。半ば諦めようとその場を去ろうとした時、一人で下校してくる紗枝を見つけた。こういう時、知っている顔を見ると安心する。
「よう、ちょっといいかな?」
紗枝とは嫌な別れ方をしていて、彼女からの印象はよくないだろうとわかっていたが、案の定迷惑そうな顔で一度こちらを見たきり、そしらぬ様子で歩いていこうとする。
「ごめん、迷惑なのはわかってるけど、大事なことなんだよ。サトルを見なかったか?」
それまで背を向けていた紗枝が、心底嫌そうな表情で口を開く。
「……あの変な人、どうにかして下さいよ、変なお兄さん」
変な人というのはサトルで、変なお兄さんというのは不本意ながら僕のことだろう。
「あいつ、何かしたのか?」
頭が痛くなってくる。あいつは自分の酒屋を潰す気か。
「何かしたっていうか、いきなり朝、先生と一緒に教室に入ってきて高村さん……あ、こないだそっちの店に一緒に行った子ですけど、その子いないかって」
「いや、あり得なくないかその教師。なんでサトルのことを教室の中にまで入れるんだよ……」
「店に迷惑をかけられたとか言って、名前がわからないので顔を確認させてくれとかって流れみたいです。それにしても苦しい言い訳ですよね。顔写真見た方が早いんだし。それより、私飛び上がるほど驚きました。お兄さんが、万引きのことしゃべっちゃったのかもしれないって」
「いや、言ってないよ?」
「まあ、どっちでもいいですけど。……高村、今日は休みだし。大方何処かで遊んでるんじゃないですか?」
そうであって欲しい。まさかとは思うが、昨日のサトルの雰囲気や、荒れ果てた家の中を見ると、不安がとめどなく出てくる。
「他に話すことなんてないですよね……、こうやって一緒に歩いてると、浮いちゃうんです。……この辺で」
紗枝は、こちらも見ずにそう言い、曲がり角を折れていった。
「はぁ、嫌われたもんねー、真くんざまぁ」
「お前は、僕が由香利の告白を受けても嫌いにならないのか?」
「……考えないようにしてたことをストレートに訊ねないでよっ!? ほんとデリカシーないわね――」
楓はその後の言葉の代わりにローキックを放ってくる。ちょっと懐かしい感覚。でも痛い。
紗枝と別れてから、二宮酒店に戻ってみると、店のシャッターが半開きになっていた。僕は、不安と、少しのいらだちを胸にシャッターをくぐる。
「サトル、お前臨時休業するなら連絡よこさんかい」
あくまでも冷静に声をかける。
「すいません、親父のことで遠方の親戚から連絡がありまして、急用だったんです」
嘘をつくということは、やはり後ろめたいことをしているのか……?
「お前、蛍凛に行ってたそうだな。なんでそんな嘘付くんだ」
「うわ、もろに聞くわけ? 骨は拾ってあげるわ」
「へぇ、知ってるってことは、藤島と話したんですか」
藤島というのは、紗枝の苗字らしい。
「あぁ、彼女、本気で迷惑そうだったぞ。これ以上見てられない。もうやめとけ」
「ま、もうその件はいいんですよ」
「何がいいんだ」
自然に口調がきつくなるのを感じる。
「いや、さすがに自分で自分がおかしくなってるのに気付いたんですわ、恥ずかしながら」
「高村はもういいのか」
「だから別にあんな奴もうどうでもいいって言ってるじゃないですか」
「――こいつ、何で高村の名前知ってんのよ」
「先輩、悪いんですけど明日も休みますんで。今日の時給は出しますから、もう帰ってもらえません?」
そう言って財布から万札を抜き出して、僕に差し出してくる。僕は楓と同じ疑問を強く抱いていたが、ついに口にすることが出来なかった。それは、楓が僕のことを思い切り押して、それ以上その場にいさせないようにしたためだった。いや、本当は楓の力じゃ僕をどうすることも出来ない。彼女が押してくれたのをいい口実にしただけだろう。きっと、サトルの言葉をそれ以上聞くのが怖かったんだ。
「なぁ、サトル。独りで悩まないで欲しい。所詮友達かもしれないけど、それでも俺は一所懸命向き合うから」
「ありがとうございます、でも大丈夫っすから」
僕は店を出る。むし熱くて、呼吸まで詰まってくる気がする。僕は切ないほどに由香利に会いたくなった。今日、彼女の部屋に入ったとき、拾ったMD。時代遅れなそれを再生出来る機材は自分の家にはない。コンパクトで容量が多く、おまけ高音質であったことから、一時代を築いたメディアではあったのだが衝撃に弱く、ちょっとしたことでデータが飛んでしまったり、おまけに単価が高かったこと、そしてそれらのメリットを全て併せ持つ上に、デメリットをクリアした小型再生機が登場したことで、MDは完全に息の根を止められたと言える。
とはいえ、そこまで昔のメディアでもないので、再生機を持っている人間はまだ珍しくないだろう。借りられるような知り合いがいないということが、我ながら情けなくなってくる。まさかサトルに借りるわけにもいかないし。
「あれ……? 酒屋の店員さんじゃん。何してんの? っていうか、偶然会うとか何これ運命感じんだけど」
舌足らずで、彼女に好意を持っている人間が聞けば、かわいいと思うかもしれない声。振り返ると、高村が立っていた。
「お前っ! よかった、心配してたんだぞ」
「は? なんで心配? まぁ、よくわかんないけどいいか。もしかして私のこと愛してんの?」
「んなわけないでしょ、死ね!」
楓の口が最近どんどん悪くなっている気がする。今度よく言って聞かせないと……。だが、本当によかった。サトルが彼女に何か危害を加えるという、思い描いていた最悪の事態は避けられたようだ。
「ねね! 遊びに行かね? 運命の出会いを記念して」
「真くんって本当モテるわよね……、ちょっと頭おかしいんじゃないの?」
「いや、頭おかしいの関係ないだろ」
「あ、おかしいってのは認めるんだ」
「まぁ、割と」
最近そうでも思わなければやっていけなくなりました。主にあなたのせいです。
「プライドってないわけ?」
「お前に対してはそういうのはないな」
「私にだけは、取り繕わないってこと?」
「ん? 他にどういう意味があるんだ?」
「だから! そういうところが! この男だけは……」
何故かわからないが楓が不機嫌になる。悪いことを言ったつもりはないのだが。
「いや、遠慮しとくよ。ていうかお前高校生だろ。こんな時間に出かけようとか不健全だぞ」
「んだよ、せっかく誘ってんのに。だったら思わせぶりなこと言うなっつーの」
「何なのこいつ、殴っていい?」
言うより早く蹴ってますがな……、なんとなくでジャブだ。
「それじゃ、バイバイお兄さん。また今度遊んでよ」
「……ちょい待ち」
「……なにっ? やっぱどっか連れてってくれんの!? 車何乗ってる?」
「いや、君MDプレーヤー持ってる?」
「はぁ? なんでMD? てか、同級生とかだった普通に知らねーやつばっかだし」
「微妙にジェネレーションギャップを感じるな……。で、持ってないかな?」
「あるよ。てか、今持ってる」
「マジか……。悪いんだけど、ちょっと貸してくれないかな?」
「うーん……。これ、それなりに大事なんだけど」
「聞きたい……、いや、どうしても聞かないといけないやつがあるんだよ。お願い、出来ないかな?」
「じゃあ、どこか連れて行ってよ」
「なんでそうなる」
「そっちのお願い聞くんだから、こっちのも聞いてよ。ギブアンドテイクって知ってる?」
「はぁ……、わかった、わかったから」
僕はやっとのことで再生機を貸してもらうことが出来た。少し緊張しながら再生ボタンを押す。
――未来の私へ。きっと、これを聞いている私は、とても恥ずかしい気分になってしまうのかもしれません。だけど、今の気持ちを素直に伝えます。私、好きな人がいます! 辛いこともいっぱいあったけど、私負けませんでした。私なんかに勝手に心の支えにされて迷惑かもしれないですけど……。その人のために、そして、今ままでの私、これからの私のために、歌を作りました。辛かった頃の曲は、本当に暗いだけで、あまりいいものじゃなかったけど、今度のは久しぶりに気持ちのいいメロディだと思います。いつも不器用なやり方しか出来ない子だけど、サトルも本当は私の味方をしてくれていたことをちゃんと知っています。といっても、この曲、まだ作り途中なんですね……。迷いながら作っています。きっとそれは、まだ私が全てを振り切れたわけじゃないからかもしれません。でも、焦らないで歩いていこうと思います。それじゃ、とりあえず出来たところまで――
そして、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。
「お兄さん、なんで涙目? そんな良い曲なん?」
「この街で……、一番のミュージシャンだ」
「へぇー、インディーズってやつ? まぁ、いいや。それじゃ、どこ行く?」
「あっ、ごめん。急用が」
「……何その棒読み」
「宇宙人からの救難信号を受信したから、行かないといけないんだよね」
「んなわけあるかっ!」
「実は僕、幽霊の言葉が聞こえるんだよね。呪われるかも」
「……マジ萎え。ぶっちゃけこいつあり得ねーわ」
だってこいつ、今日学校来てなかったらしいし。連れまわした挙句、明日まで休まれてみろ。責任とれないっつーの。
「よし、連れて行ってやろう」
「どこ? ちば?」
「いや、なんでそこで千葉なんだよ。お前の家の前までだよ」
「なんだよもう! お前、真面目星人かよ! まぁでもいいか……、なんかアホらしくなってきたっつーか、疲れちまったっつーか。他の男引っ掛ける気力も萎えた……。家、こっちだから」
楓が高村と僕との間に割って入るように身体をねじ込んでくる。
「由香利ならともかく……。こいつと並んで歩くとか絶対許さないんだから。てか、由香利に見られたらどうするわけ?」
「いや、そんなん普通に説明するし」
楓がこめかみに手を当ててわざとらしくため息をついてくる。いや、そんなジェスチャーされても。
「真くん、赤点! 今日という今日はみっちりと――ふぎゃっ!」
よそ見をして、思い切り電信柱にぶつかりそうになっていた楓の腕を少し強く引いた。
「ちょっと、別に私はすり抜けられるからいいのよ、まったく……」
「思ってたよりやわらかいな、お前」
「ふぅー……、あのね、わざと? わざとなの? 何であんたはいつもそういう――ふぎっ!」
「だから危ねえって」
なんだこのループ。
「お兄さんてば、さっきから話しかけてるのにガン無視っすか?」
「うん? あっ、ごめん。何だっけ?」
「いや、お兄さんの名前も知らねえし、聞いとこうと思って」
「あ、俺は境谷真っていうんだよ。君は何ての?」
「高村」
「あっ、そうなんだ」
「下の名前聞かねえの?」
「言いたいならどうぞ?」
「いや、そんなきょとんとした顔されても……。もういいや、マジつまんない。お兄さんって、モテないでしょ? バイバイ!」
「帰れ帰れ! べぇー」
今どきあっかんべーというジェスチャーもアレな上に、声に出して“べぇー”なんていうのは絶滅したと思っていたが……。
2.
ふいに空を見上げる。晴れた夏の日。誰もいない静かな場所。僕の足は自然と、シャッター街に伸びていた。あの歌の続きを、どうしても聞かねばならぬ、そんな気がしたから。
「由香利ちゃん、今日も弾いてたんだね。ここに来れば会えると思った」
丁度ギターを弾き終え、帰り支度を始めていた彼女がにっこり笑う。相変わらず、彼女の歌に耳を貸すものはいない。彼女の心は、こんなにも生きているのに。
「あのさ、もう一曲だけ弾いてくれないかな?」
「あの……、もしかして、私のこと、見えるんですか?」
「え……? 何言ってるの?」
「私、親と喧嘩して家を飛び出して、ビルの屋上に行ったところまでは覚えてるんですけど、それから気が付いたらここでギターを持って座ってて……。とりあえず演奏してみたんですけど、誰も反応してくれなくて。最近は、結構足を止めてくれる人も多かったんですが……」
「由香利……もしかして記憶が……」
「かなり混乱しているみたい。彼女の存在も、もうそろそろ限界なのかもしれないわ」
楓がかなり深刻な顔をしてそう言った。
「あの、境谷さん、ですよね? 覚えていてくれたんですか?」
由香利がはっとした顔でこちらのことを見ている。僕は耐えられぬほど、寂しくなった。
「うん、二宮由香利ちゃんだろ?」
「まさか、こんな偶然……。私、ずっと会いたかったんです! あ、何言ってるんだろ」
思わず言ってしまった、というような顔をして顔を真っ赤にしている彼女。どうすればいい……。初めて再会したかのような演技をしろというのか。
「あ、曲、どういうのにします? オリビア・ニュートンジョンとかどうです? あと、シンディ・ローパーとか」
「結構、ていうかかなり古いチョイスだな」
思わずそう言うと、彼女はむっとした顔になる。
「古くても、いいものはいいんです!」
「あ、いや、別に馬鹿にしたわけじゃなくて……、でもさ、由香利ちゃんが作った歌がいいな、僕」
「私の歌ですか? いや、人に聞かせられるようなものじゃ……、あっ、でも、一曲だけなら」
……聞いたことのあるイントロ。まだ彼女が心痛めていなかった頃の歌。知らない悲しみを、想像で歌ったような……。
「それもいいんだけど、もっと別なのない?」
僕は、失礼とわかっていながら彼女の演奏を遮ってしまう。由香利は怒った様子もなく、すまなさそうに言う。
「えっと、今、作ってるやつならあるんですけど。スランプなのか、全然進まないんですよね。家に帰ろうとすると、ふっと眠くなって、気が付いたらまたここに座ってるんです。そしたら、せっかく新しく作った筈の部分も、全部忘れちゃってるんです。ちょっとおかしな病気なんです。まぁ、こうしてお腹も減ってないってことは、知らないうちにちゃんとしてるんだろうけど……」
「続きを作ること自体は出来るの?」
「一応、作業を進めたことはなんとなく覚えてるんですけど、内容までは忘れてしまっていることがほとんどですね……。忘れないようにメモをとっても、決まってなくしてしまうし」
しばらく難しい顔で考えていた由香利が、急に顔を上げた。
「こんな大事なこと、なんで忘れてたの!? 真くん、私、怖いよ。どうしてこんなに記憶が途切れたり、覚えてて当然のことまで忘れたりするの?」
どうやら、これまでの記憶が繋がったようだった。まるでそれは、消えそうな電球が最後だけ明るいとか、よく使われるたとえに似ていて、僕は胸の痛みでゆがんでしまいそうな顔をなんとか笑顔に偽装した。
「由香利ちゃん……。その一番新しい曲、僕に作るの手伝わせてくれないかな?」
「……え?」
「僕が覚えておくよ。それなら、いくらそっちが忘れても大丈夫だろ?」
「それなら、確かに何とかなるかも……。でも、そんなことお願いしていいの?」
「いいよ。っていうか言い出したの僕だし」
まだ忘れたままなのかもしれない。僕は君の告白を受けたんだ。だから、たとえ君が忘れてしまったとしても、それをなかったことになんかしない。出来るわけがない。
それから、二人の孤独な作業が始まった。
「曲自体はもう出来てるんです」
楽譜の書けない僕は、由香利がその場で書いて渡してくれた楽譜を自分の手帳に見よう見真似で写していく。わざわざ書き写さなくてもというような怪訝な顔をされたが、彼女の文字が本当はその紙に刻まれていないことは、残念だが事実だ。
「今日はここまでにしませんか? もう逆立ちしてもアイディアが湧きません……」
どれくらい作業したのだろう。手帳には、歌詞の候補となる単語がびっしりと書きつめられていた。そのどれもが希望に満ちた言葉だった。よかった……。彼女の心は、いつまでも悲しみに侵されてはいないのだ。
「それじゃあ、明日もこれくらいの時間に来るよ」
「でも……、また境谷くんと会ったことを忘れていたらと思うと」
「そんなん気にするな。自分ではどうしようもないんだろ? だいたい、それで僕がへこたれると思ったら大間違いだぞ。もし忘れてたら、思い出すまで側にいる!」
本当は、彼女に忘れられる度に傷付くのだろう。だけど、それが何だ。彼女のためにしてあげられることがあるなら、そんな痛み、惜しくない。
「真くん、アホねー。でも、ちょっといいアホかもしれない」
……ありがとう。
その日から、由香利の夢を見ることはなくなった。
翌日、店を閉めると言われていたが、とすると、サトルはどこに行くのだろう。まぁ、彼の言う通り親戚関係の用事だと思うが。それにしても、親父さんの葬式にも呼んでくれないとは。
僕は、自分の部屋の天井を眺めながら、前日ひかえた手帳を開く。由香利が書いた落書きなどが、そこから消えていた。
「なぁ、楓。教えて欲しいことがあんだけど」
「何よもうー。まだ眠いのよー。幽霊ってのは本来夜型の生き物なんだからね。ハムスター飼っててもあいつら昼型にならないでしょ? それと一緒なのよー」
いや、自分とハムスターを一緒にするか……。
「由香利……あとどれくらいだ」
「……長くないと思う。数日以内ってこともあり得るわね。やっぱね、真くんに告白しちゃったってことが一番大きいんだと思う。それが彼女の一番の未練だったわけだし」
「…………」
言葉もない。だけど、あれが、あの時のことが悪いなんて、誰に言えるのだろう。
「たぶん、あの子の最後の心残りは、あの歌なんだと思う。あれが完成しちゃったら、その時はたぶん……。でも、そうでなくてもどっちみち長くはないわね」
脳裏に、彼女のメロディが流れてくる。作っては忘れ、作り直す繰り返し。まるで三途の川原だ。終わらせてやらなければ。
だから僕はその日の夜も、シャッター街を訪れた。本来なら、その日は、告白を受けた日に決めた、初めてのデートの約束があった日。もちろんその場所に行くことになんのためらいもなかった。たとえ、来ないということがわかっていたとしても、僕は予定より早く訪れ、ずっと待ち続けていた。そしてそのままシャッター街へ足を運んだという流れだ。
「由香利ちゃん、こんばんは」
「あの……、もしかして境谷くん? すごい久しぶり……。覚えていてくれたんだ」
「もちろんだよ。ていうか、昨日のことやっぱり覚えてないんだ?」
「え……、もしかして昨日会ってます?」
由香利は口に手を当てて、しまったという表情をする。
「私、また忘れてたんだ……。ごめんなさい! 本当に、すいません」
「いや、全然気にしてないし。それより、これ進めようか」
僕はそう言って、自分の手帳を取り出した。“それ、何ですか?”と言いたげな顔の由香利に優しく微笑みかっけてから中身を開き、彼女のバラードを口ずさむ。
「あ……、その歌」
「君が覚えてるより進んでるだろ?」
「もしかして、私のために……?」
「半分は僕のため。この曲の続き、聞かせて欲しいから」
それから二人は、夜空の星が帰ろうとするまで、シャッターの前に座り続けた。側を通る人はほとんどなかったが、もし彼からから見れば、僕だけがそこに座っているのだろう。そんな、悲しい景色。だけどそれは、僕たちだけに許された景色だった。
「だから言ったのよ。こうなるってわかってたんだから」
楓が少しいらついた様子でつぶやいた。
「勘違いするなよ。僕は後悔なんてしてない」
そう、何があっても後悔なんてするものか。僕は、間違ってなんかいないんだから。
「意地になってないよね?」
「大丈夫、そんなことない」
楓は今、どういう気持ちなのか僕のことをどこか優しいまなざしで見ていた。その感じは、外見より彼女をずっと大人っぽく見せた。どこか懐かしいこの感触は、以前どこかで受けたものだろうか。楓や由香利に出会う、ずっと昔にそんなことがあったのかもしれない。
「あと、少しで完成ですね……。なんだかもったいない気もしますね。でも、本当にいい曲。これ以上ないメロディに、これ以上ない詩。こんなの、私が作れるなんて……。あ、自画自賛しちゃいました。って、境谷さんが手伝ってくれないと進まなかったんだし、私一人の力じゃないことはわかってますよ!?」
曲が出来上がっていくのが嬉しいのか、いつもよりテンションが高い由香利。完成はもう目前、あとはところどころ歌詞がしっくりくるように、わずかな手直しを加えていくだけだった。
「おかしいものですね、作っている時はむしろ先を急ぎたい気持ちなのに、終わりが見えると惜しくなるなんて。きっと、私、この時間が気に入ってるんだわ」
ずっと、この刹那にすがることが出来たなら。そんな苦々しさを噛み締めながら、矛盾するように僕たちは笑顔で手を振り合った。