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タルパ  作者: 真谷真
8/10

赤色の憤怒

0.



 ――てめぇ、チクってんじゃねえよブス

 どこからそんな声が聞こえてきたのか、もうよくわからない。僕は、雷より大きなその声におびえていた。

「違う、僕じゃない。本当だよ」

「あぁん? 僕ぅ? きもい言葉遣いしてんじゃねーよ」

 腹に鈍い痛みが走る。簡単に人を殴るやつだ……。

「私じゃ、ない」

「だったら、誰だって、言うんだよ」

 髪の毛を引っ張られて、左右に揺らされる。なんて横暴な。

「し、知らないよ。でも、言ったらこうなることくらい私にだってわかるんだから、私じゃないよ」

「……チッ」

 落書きなどのいやがらせから、暴力を振るわれるまでいじめはエスカレートしていた。華奢な精神と身体が悲鳴を上げている。不合理というものに散々蹂躙されて生まれたものは、純粋な殺意だった。相手を殺すことを想像するだけで気分がよくなった。だから私は想像の中で相手を滅茶苦茶に汚した。いいじゃない、それくらい。

「おい、何だよその目は。調子乗ってんじゃねーぞ」

 腹にさらに数発、いいのをもらう。頭の悪い彼氏の後ろ盾があるから、こちらが反撃できないのを知っている、ずるいやつ。私は、この時間をただ耐えるしかない。

「いいか、もしまたそんな目つきしやがったら、アキに言って殺してもらうから」

 殺すって……、そんなことしたらお前たちも人生終わるだろ。これだから、頭の悪いやつは。引っ張られてくしゃくしゃになった制服を整えながら、私は家路を辿る。冬の寒さがたまらなく嫌だった。雪も降らないくせに、手先とか耳とか、そういう血の通いがイマイチな部分を痛めつけるような寒さだけはある。……冬は、痛い。言葉の暴力のほうが、肉体言語より辛いということは幻想だ。あれこそが、不合理の塊なのだし。とはいえ、相手も私も女子ということはまだ幸いなほうなのだろうか。男子同士のそれだと、加減を間違えられて死んでしまう場合もあると聞く。おぞましい。

 私はうっとうしい家族を無視し、自分の部屋に鍵をかけてノートを開いた。今まで書き溜めた歌。最初のページをめくると、好きな歌手に影響を受けた言葉の意味もわからずに書いた明るい詩が載っている。なんだこれは……。

 私は、はぁっとため息を一つつき、そのページを破り捨てた。きっとその手にこもっていた感情は、あの女どもに対する憎しみとよく似ていた。本当にくだらない歌詞。こんなものに感動してしまうのは、普段よほど平和に暮らしている証拠だ。私にはとても合わない。その上それだけで気が滅入ってしまって、新しい歌詞を書く気にもなれない。

 私は、携帯電話を片手に冬の薄暗い天井をただ見上げているしかなかった。あの人は今頃どうしているのだろう。もう、顔もあまり思い出せないけれど。そもそも、話したことだって数回あるか程度だ。きっと、私のことなんて覚えていないだろう。初めて口を利いたのは、小学生の時。施設から通っているということで、彼は少し有名だった。親たちは偏見を押し付けて、自分たちの子供に彼とあまり関わらないよう教えた。だから、彼はいつも一人で寂しそうにしていた。施設に帰るのが嫌だったのか、彼はそれでもいつも最後まで教室にいた。私も、始めは彼のことが怖かった。そういう噂になっていたから。だけど彼は本当は、とても優しい男の子。それがわかったのは隣りのクラス、つまりは彼のクラスで飼っていた金魚が死んでしまった時だった。原因は、上級生の男子たちだった。彼らは、大人の気を引きたいが為に、学校の小動物を殺して回っていたのだ。彼らには彼らの寂しさがあったのだろうが、だからといって決してしてはならない行為だった。彼は戦った。いつものように教室で一人残っていた彼の前に現れた、一回り身体の大きいそいつらと、戦う勇気を持っていたのだ。偶然忘れ物を取りに帰っていた私は、その光景を見ていた。何度転んでも駆け足でつかみかかっていく彼。殴られて、鼻血が驚くほど出ても諦めなかった彼。だけど、現実はいつも非情で、結局彼は守ることが出来なかった。水槽の前でもみ合った挙句ぶつかり、魚たちは地面に放り出された。上級生たちは、まるでピンポンダッシュをしたときみたいに、廊下の私を突き飛ばして凄い勢いで飛び出していった。だけど、そんな痛みなど私は大して気にならなかった。私の目は、ガラスで手を切りながらそれでも魚たちを助けようとする彼を見ていたのだから。思えば、あの時から私はずっと彼の事ばかり見ていたのだ。 

 ――助けて欲しい。今の私は、あの時の魚だ。例え何も変わらなくたっていい。あの時みたいに、必死な彼をもう一度だけ見てみたい。今でも私は、彼に夢中だ。彼が迎えに来てくれるなんてないと、ちゃんとわかっている。それでも、いつか私の所へ来てくれるんじゃないか、そう信じてみてもいいですか。

 僕は、自らの早い鼓動で目を覚ました。雨は既に上がっていたが、濡れた道を走る車の音がしていた。この、追い立てられるような焦燥感。僕は真夜中の二時過ぎだというのにかけてあるシャツを羽織り、外へと飛び出していた。早く彼女に会って謝らないと。急に思い出したと言っても不自然に思われるかもしれないが、とにかく彼女が僕を待っていたというのは、特別な意味があったのだ。彼女の家は遠いと言っていたし、この時間に出歩いない確率のほうが大きい。それでも動かずにはいられなかった。自然と僕の足は彼女のよくいたシャッター街へと向かっていた。

「いるわけ……ないよな」

 いつも彼女が座っているところに、今日は見知らぬ男性が寝そべっている。彼女との接点は、この場所だけ。今日のことで彼女が気を悪くして、この場所に来なくなったらそれだけで僕らはもう会えなくなる。会って、何と言うのかなど考えていない。とにかく僕は、息が切れてもここまで走らずにはいられなかったのだ。

「あの女のこと、探してるの?」

 楓には声をかけずに出てきた筈なのだが、いつの間にか僕の後ろから声をかけてきた。こういうところは幽霊というべきだろうが、流石にちょっと肝が冷える。

「大事な事を思い出したんだ。……会わないと」

「ふーん、でも残念だけど今日はもう会えないと思うよ。もう帰っちゃったみたいだし」

 この場所以外に心あたりなどない。だが、どうしても今会わないといけないような気が何故かしていた。

「……そんなに会いたいの?」

 楓の視線が責めるように強まるのを感じたが、僕は臆さなかった。

「あぁ、会って謝らないといけない。彼女とは昔会ってたんだ。それを覚えていなかったから」

「そんなん真くんのせいじゃないじゃん。あいつのキャラが薄かったってだけじゃないの?」

「いいんだよ……それでもきっと彼女、傷ついたと思うから」

「はぁ……どこまでお人よしなのよあんたは。言っとくけど、あいつ普通じゃないわよ?」

「それ、どういう意味だよ」

「さぁね、私の口からはなんとも」

 気になることを言う……。楓はすました顔で僕のことを見つめているだけだ。この様子だと無理に問い詰めるとヘソを曲げるだけだな。

「普通じゃないのはお前だろ全く……」

「何よ、真くんだって変よ」

「そりゃもちろん自覚してる」

 ……幽霊と会話しているだなんて、普通の人間には出来ない。僕は他人から見たらいわゆる電波さん以外何者でもない。ずっと片思いだった相手にいざ再会してみたら、明らかな電波さんになっていた……、これって悠里香にとっちゃ悲劇だよな。うぅ、なんだかさらに申し訳なくなってきたぞ。

「ねぇ、私だって最近寂しかったのよ? 真くんはすぐ寝ちゃうし、起きてる時だってあまり構ってくれないし。ちょっと! 聞いてんの?」

「なぁ……、あれサトルだよな?」

「ほえ? あ、ほんとだハゲだ」

 楓の言葉を聞いていなかったわけではないが、この時間に知り合いを見かけるということの意外性が勝った。僕が言えたことではないかもしれないが、どうして出歩いているのだろう。まさか、高校の時のやんちゃをまだ引きずっているのか……? 話しかけていいものか迷っている内に、サトルの姿は電信柱の向こうの闇へ消えて行った。

「あいつ、今まで何してたんだろ」

「花でも供えに行ってたんでしょ?」

 楓の言葉の本当の意味を理解したのは、次の日サトルの親父さんが亡くなったと聞いた時だった。もしかしたら、昼間の時点で彼女にはこうなることがわかっていたのかもしれない。

「俺、とうとう一人きりになっちまいました」

 サトルは早くに母を亡くしていた。未だに彼が姉の自殺現場に花を供えにいくのは、それも原因の一つだろう。高校の頃、彼と彼の父親は口も聞かない仲だった。それゆえ、彼はさらに夜の街へ繰り出すことになったのだが。それでも最近は普通に親子をやっているようではあった。そんな中での不幸に、サトルの心はうちひしがれたに違いなかった。僕は、何を言っていいのかわからず、ただ彼の側から離れずにいることが精一杯だった。無言の、居心地の悪い時間が昼過ぎ、初めて客が現れるまで続いた。

「いらっしゃいま『うわー、マジやべえ、かっけぇ!』」

「あの、お客様?」

「やっべ、あっし話しかけられたし」

「おい、ずりぃぞ」

 ……なんだこいつらは。三人組みの若い女性なのだが、商品を買いに来たにしては少し不自然だ。

「てか、てめえ彼氏いんだろが」

「え? あんなん彼氏じゃねーっての、ただのヤリ友だし」

 この店の客層とは少し外れた感じがするのが二人、もう一人は対照的に大人しそうな黒髪の子だった。友達なのだろうか……。それにしても、先ほどからかなり視線を感じる。

「あの、サインしてくれる?」

「……はい?」

「うお、言いやがりましたよこいつ。いや、お兄さん格好いいからさ、ちょっとあっしらの間で話題になってんだよねー」

「おい、お前の分ねーから!」

「……買わねーなら帰れ」

 サトルが、静かだが物凄い形相で二人を睨んでいた。こっちはそれどころじゃないっていうのに、急にこんな騒がしくされたら怒るのも無理はないよな……。

「はぁ? 何言ってんのこいつ。こっち客だよ? 脳みそついてんの?」

「そもそもお前ら未成年じゃねーだろうな」

「やばーい、このハゲ超こええ。おい、紗枝。お前なんか買えよ」

「で……、でも。私お酒飲めないし」

 一人浮いていた大人しそうな子は、やはり小さな声でそう言った。

「てめえが飲むとか誰も言ってねえだろうが、ほら何でもいいから買えよハゲうっせーしよ」

 サトルに怯むことなく、時代遅れに日焼けした女性が挑発的に彼を睨み返していた。

「で、でも。私今月お小遣い少なくて……」

「うるせえってんだよ! ぶっ殺すぞ! ほら、これでいいからよ」

 巻き舌が混じったような下品な女は適当な酒瓶を掴んだ。これは……イジメか。知らない子だというのに、胸糞が悪くなる。紗枝と呼ばれた子は、怒鳴られて“ひっ”と小さな声を上げ、財布をおずおずと取り出した。

「なんかこいつらムカつくんだけど」

 楓が不機嫌な声を上げた。それは僕も同じだ。しかし売らないというわけにもいかないのか。

「おい、先輩。何売ろうとしてんだよ。こんな奴らに売らなくていい」

「おぉー、良いこと言うじゃんサトル!」

 楓がサトルのことを初めて名前で呼んだ。なんだか嬉しい。

「買わねえなら帰れとかぬかした挙句、売れないとはどういうことだよあぁん?」

 完全に絡む態度で、サトルを睨みつける。店員だから無理な反撃はしてこないと思っているのだろう。まぁ実際そうなのだが。つまるところ、弱者にしか噛付けないような奴らだ。

「この店は俺のもんだ。お前らみたいな奴らは客じゃねえ、帰れ」

「んだよクソが。だいたい、こんなチンケな店でやっていけると思ってんの? もうこの商店街ガラガラじゃん。早く潰れろよ」

 この店は、サトルの親父さんがずっとやってきた店だ。このタイミングでそれを馬鹿にするような、驚くほどの空気の読めなさ。人の悪意というものが、どれだけ心をえぐるかを、こいつらは知らないのだろう。

「ねえ、真くん。こいつら殴っていい?」

「許可する。殴っていいぞ」

「このやろ! 死ね! 市ねじゃなくて死ね!」

 楓がむなしく腕を空ぶらせている。僕はその格好を見ているだけで少しは気が紛れたのだが、サトルの顔を見るのが怖い。あいつには楓は見えないのだから。

「いいから帰れってんだろうが! 胸糞悪りいんだよ、勘弁してくれよもう!!」

 サトルが悲痛な叫び声を上げて店の奥へ引っ込んでいった。僕は、ただ胸が張り裂けそうな思いだった。

「ねえ、お兄さん、なんでこんなとこでバイトしてんの? こんな頑固親父みたいなハゲほっといてウチらと遊びにいかね?」

「あ! 真くん! あの紗枝って子ちょっと様子おかしくない?」

 僕は、タチの悪いほうの客を無視して楓の声の通り、後ろでびくびくと様子を伺っている彼女を注視した。確かに不自然にポケットに手を入れてごそごそしている。

「あの、ちょっと君。ポケットの中見せてくれない?」

「ひっ、あっ、ごっ、ごめんなさい!」

「ごめんなさいってことは……うん、やっぱり盗ったんだね」

 紗枝は、ポケットの中から安いつまみを出した。

「あー、テメエ何やってんだよこら」

「さすがにこの店これ以上いれねえじゃんよ、なんつーか正当性がなくなった感じ」

「元々正当性なんかないっつーの!」

 楓が当たらないローキックを何度も繰り返していた。

「あ、あの……、わたし……うっ」

 紗枝の身体が不自然に揺れた。こちらからは見えないように上手くやったつもりなのだろうが、恐らく小突かれたのだろう。

「君、悪いけどちょっと来てもらえるかな」

「あの、許して……」

「もう付き合ってらんねーわ、あっしら帰るんでお兄さんよろしくう。おい、カラオケでも行くか、ストレス溜まりまくったし」

「それはこっちのセリフじゃー、このボケ! 食らえ、アーネスト直伝のローだ!」

 アーネストって誰ですか……。

 店内には、僕と楓と紗枝だけが残された。紗枝は既に涙目になって、肩から手首までぎゅうぎゅうに力をいれて、膝に手のひらを押し付けていた。

「本当に君が盗ったの? いや、盗ろうと思ったの?」

「…………」

 サトルがひょっこり戻ってこない内になんとかしてやりたかったのだが、紗枝は一向に口を開こうとしない。

「大丈夫だから。とりあえず正直に話してくれないかな?」

「ひぐっ、うぐっ」

「うわぁ、ややこしいわこいつ。真くん、警察呼んじゃえばいいじゃん」

 馬鹿言え。万引きするように強要されたのかもしれないじゃないか……。僕はそう思うと、あまり強い口調をとることも出来ないというのに。

「泣かなくていいから……、でも話してくれないならいつまでもこのままだよ?」

 しばらく待つと、“話したことを絶対に知られたくない”という条件で彼女は予想通りの答えを吐いた。

「うーん、そういうことなら、今回はもう帰っていいよ……、でも次こんなことしちゃいけないよ。事情がどうであれ警察を呼ぶ店もあるだろうから」

「本当にごめんなさい……」

 なんだか普段の数倍疲れた感じがする。カウンターへ彼女と一緒に戻る。

「あの、お兄さん、ありがとう。図々しいのはわかってるんですけど、また来てもいいですか?」

 なんだか恥ずかしそうにそんなことを聞いてくる。

「もちろんいいよ『よくないわよ』」

 いや、いいだろ普通に考えて。てか、断る理由なくね?

「よかった……。あの、また来ます」

 紗枝は少し明るくなって、おずおずとした調子で店を出ていった。

「あんたねぇ、フラグ量産するのやめなさいよ。あの子たぶん真くんのこと好きになっちゃったじゃないの」

「いや、さすがにそれはないだろ、どんだけだよ」

「いーや! なんかわかるのよ、勘が騒ぐのよ」

「はいはい、勘ね、はいはい」

「相変わらずむかつくわね! ホースト直伝のローを打つわよ」

「いってえ!! た、立てん」

 僕は次の瞬間床に這っていた。ホーストって誰……。

 サトルがようやく店にまた顔を出したのは、昼を過ぎた頃だった。

 “すみません、ちょっと熱くなってしまって”などと言っていたが、その目にはまだ怒りが残っていたように思う。

「悲しいから、怒ることで紛らわせようとしてるのね」

 楓がぼそっとそんなことを口にした。基本的に他人を気遣うことのない彼女の中でサトルはいつのまにかその対象になっていたようだった。

「……いじめはダメだ。許せないんですよ」

「確かに良くないな。でも、客相手に怒鳴るのはどうなんだ」

「あんなの客じゃない!」

 サトルが声を荒げる。クーラーのひんやりした風が、居心地悪く僕のシャツを撫でた。

「イジメをするやつなんて、人間じゃない。イジメられた側の本人はもちろん、家族がどれだけ苦しむかなんて、あいつら、これっぽっちも想像なんてしてないんですよ」

 ここにいない誰かを憎むような視線。無言の空間がそこにあるだけ。

「俺の姉貴……自殺したって言いましたよね。それってイジメが原因なんです」

 やや興奮した感じでサトルは言う。

「あ……そうだったのか……」

「姉貴の日記を見るまで、今まで気づきもしなかった……最低野郎ですよ」

 言わなくてもわかってくれる人なんて、本当にいるのだろうか。それこそ、甘い歌詞にはいくらでもそんなことが書いてあるけれど、現実問題、痛みは訴えなければ誰にも相手にされない、わかろうとすらしてもらえないのではないだろうか。だから、それを知っているから僕は、悠里香の歌詞を褒めたのだろう。サトルは、他人が胸の奥に隠したままの痛みを知ってやれなかったことを悔いている。だけどそれは誰の為? 不意にいなくなってしまった姉に、それを納得する為の理由を後付けでつけているように、僕には思えた。どうやら僕は、楓のことを悪く言えないようだ。やはり他人には、当事者でない人間たちはいくらでも冷たくなれる。

「先輩、上がりの時間もう過ぎてますよね……、悪かったです」

 僕はいたたまれない気分のまま帰りの支度をし、店を後にした。

「近しい人が死ぬと、あんなに不安定になるものなのね」

 家に帰ってもやることがないので、公園の木の影に入った頃、楓がそう言った。

「ねぇ……、真くんはどうやって乗り越えたの?」

 僕も幼い頃、両親を失った。気がついた時には、車道のトラックが暴走して道を歩いていた僕らに突っ込んだ後だった。両親の背中を見ながら歩いていた僕は、誰かに手を引かれ転び、膝を擦りむいただけだった。僕は、あの時僕を助けた人すら憎むような時間をずっと過ごしてきた。自分の命にさほど価値がないと、そう思う度にやはりあの時死んでいたほうがずっとよかったと、そう思ったから。

「乗り越えてなんかいないさ。忘れようとしただけだ。時間が経つにつれ、顔が思い浮かぶ時間が減っていく。それは、生きている人間の時間が動き、死んでいる人間の時間が止まっているからだ。だから、忘れることは罪なんかじゃない。いつまでも縛られているほうが、馬鹿なんだよ」

 嘘だ……。僕だっていつまでも縛られたままだ。トラウマとなった記憶は、何度も夢で再現された。その度、止まらない両親の背中を追いかけながら幾たび言っただろうか、置いていかないで欲しいと。今だって、本当はその光景から一歩も動けないままなのかもしれないのに。

「それを冷たく思ったことは?」

「こんなことを考えるたびにそう思うよ。だけどしょうがないじゃないか。他にやりようがないんだから」

 そう。時間がじっくりと僕の症状をマシにしている。他にやりようがない、本当にそうだ。

「でも、こないだ死のうと思ったよね。それは、どうしてなの? ……まだ聞いてなかった」

「僕のことより今はサトルだろ。元気づけてやらないと」

「まぁ、言いたくないならいいけどさ」

 サトルを元気づけることは無理かもしれない。かえって、所詮蚊帳の外にいる僕の声がわずらわしいかもわからない。だから、何か彼の方から頼ってくるようなことがあれば、力になってやろう。そう思った。

 それにしても不幸とは伝染するものだ。嫌な事を見聞きすれば、嫌な気分になる。他人の不幸を喜ぶような人間はクズだが、少数だ。だからみんな近寄りたくないのだ。嫌な気分になりたい人間なんていないのだから。孤独というのは、案外そういう悪循環が生み出すものなのかもしれない。ゆえに僕は、絶対に離れない。不幸に進んで関わりたくなんてないけど、それでも見限ったりなんかしない。

「あ、お兄さん」

「ん? 君はさっきの」

「あの……その」

 紗枝は一度家に帰ったのか、今は私服に着替えていた。どうもかなり引っ込み事案な子らしく、下を向いてまごまごしている。こういうのだから、いじめられるんだよなぁ……。

「ほら、そっち暑いだろ。日陰に入りなよ」

「あ、……はい……失礼します」

 紗枝は僕のもたれていた幹に、丁度僕と彼女の間隔が九十度になるように背を預けた。やや強い風が、僕達を撫でた。それが少し、心地良いと思った。

「真くーん? どんだけ浮気したら気が済むの? 私というものがありながらとっかえひっかえ……いい加減にしないと、祟り殺すわよ」

「いや、別にそういうつもりじゃ……。っていうか浮気ってなんだよ」

「え? 私達って夫婦みたいなもんでしょ?」

 僕は、次の瞬間肺の中の空気を吹きだした。水をあおっていたら、間違いなく器官に入ってむせあがっているところだった。

「どんだけ過程が省略されてるんだよ!」

「ちょっとどういうこと!? ずっと一緒にいるって言ったじゃない。だいたい、私あなたに憑りついてるのよ? それってもしかしたら夫婦より強い関係かも」

「え? なにそのトンデモ常識」

「また馬鹿にするっ! 最低!」

 ばちーんと音が出るようにスナップの効いた……ローキック。

「あがががが」

「お兄さん? どうしたんですかっ!?」

「いや、なんでもない、なんでも」

 あぁ、僕は今日も挙動不審です……。ていうか、どこかでこんな光景あったな……、悠里香にはまた会えるかな。

「っと、ちょっと大事な用思い出した! あんたは誰とでもいちゃいちゃしてればいいわ。ついてこないでよね!」

 思いっきりあっかんべえをしながら、楓は走り去っていく。今時あっかんべえって……。僕からしたら、楓は妹みたいな存在であって、恋愛対象からは外れる。だが、楓はそういうつもりではなかったようだ。好意を持たれていることはうっすらわかっていたけど……。ともかく、日が経つにつれて精神状態が落ち着いていくのはわかってるが、家に帰って一人きりというのは、まだ辛い。

「ごめん、紗枝ちゃん……だっけ? ちょっと用事出来たんだ、また今度店に来てね」

「あ、あの! ちょっと待ってください」

「へ? どしたん? ちょっと急いでるんだけど」

 意外なほど大きな声に、僕は少し驚き、駆け出そうとしている足を思わず止めた。

「……変なこと、聞いてもいいですか? お、怒らないでくださいね?」

 怯えた様子で、紗枝が上目遣いをしてくる。何を改まって聞こうというのだろうか。僕は少し嫌な予感がしていた。

「あの、さっきから……、女の人が見えたかと思ったら急に見えなくなったり、声が聞こえる方を見ても誰もいなかったり、するんです。その子、お兄さんのこと知ってるみたいで……。あの、まさか幽霊だったり……」

 この子、楓が見えるのか?! 僕は驚きとともに、なんだか口の中が嫌な味がするのを感じた。

「その子、どんな感じの子だった……?」

「うっすらとしか見えなかったからよくわからないです……。それに、怖くて……」

 もし本当に楓が見えたとしたなら普通の反応だろう。僕が変わってるってことは自覚している。僕は楓に、楓は僕に縋るということをお互い約束したけれど、そもそも幽霊相手にそんなこと普通しないだろ……って内心突っ込まない日がなかったわけではないし。

 でも、楓が見えるってどういうことだ……。この子、いわゆる霊感の持ち主というやつなのだろうか。

「きっと、疲れてるんだよ。今日はストレスもあっただろうし。ゆっくり休めば、そんなものも見えなくなるさ。じゃあ、急ぐから」

 見ると、紗枝は可哀想なくらいに身体を震わせていた。僕は、それに何故だかとてもいらいらした。

 とりあえずは見知らぬふりを決め込むしかない。

 次の瞬間僕は駆け出した。その場にいたくなかったというより、楓の小さくなる背中を見失いたくなかった。幽霊のくせに、やけに生身くさいやつ。今だって、走る速度は普通の女と何も変わらない。言っていた、一人じゃ存在する価値もわからず、ただそこで震えているしかないと。それなのにこいつは、どこへ行こうと言うのだろう。

「おい、待てよ!」

 僕が追いかけてきているのを見て、楓はすぐに顔を綻ばせて、その場に立ち止まった。

「ひっかかった! やっぱ、押してダメなら引いてみろって言うし……て、あれ? 怒ってる?」

「いや、呆れてる」

 そして、安心している。だけど、それを口に出すとまた調子に乗るばかりか、いつか同じ手を使われかねないので秘密にしておく。

 紗枝のところへ無言で戻る。楓がおろおろと着いてきているのを背中に感じていた。

「私、本当に疲れてるのかもしれません。また、女の子が……」

「そんな変なもの、僕には見えないけどなぁ」

「変ってゆーな!」

最近味をしめたのか、ローキックの攻撃力が上がっている気がする。いや、精神的にじゃなくて物理的に攻撃してくる幽霊ってどうなのよ……。

「最近あまり寝てなかったし、それかなぁ」

「睡眠不足だと、幻覚が見えやすいらしいよ」

伊達に幽霊に憑りつかれているわけじゃない。といっても、ネットで調べただけだけど。

「それにしても驚いた、私が見える人間がまさか真くん以外にいるなんて……。こんなの、あり得ない筈なんだけど」

「どうしてだよ、彼女にも霊感ってやつがあるんだろ?」

「いくらアンテナがついてたって、周波数があってなかったらただの棒じゃん」

 そういうものなのか。だったら、周波数があっただけじゃね? そんな単純なことじゃない? うん、さっぱりわからん。

「ねぇねぇ、私、楓っていうの、聞こえてるー?」

 紗枝は樹の幹にもたれたまま目をつぶってしまう。どうやら、声は全く聞こえないようだ。

 しばらくそのまま時間が過ぎた。これといってやることも話すこともない僕たちは、背に汗がゆっくり伝う感触で夏を味わうくらいしかすることがなかった。

「それじゃ、私そろそろ行きますね。最近、ここらへんにいい曲を唄う人がいるんです」

「それって、肩くらいまでの髪の綺麗な子?」

「あれっ! なんで知ってるんですか? 私の方がチェック早いと思ってたのに……」

「いやまぁ、ちょっとした知り合いってだけだけどね」

悠里香とはもう一度会って、ちゃんと謝らないといけないと思っていた。忘れていたなんて、今更どんな顔をすればいいのかわからないけれど。

「そういうことなら、僕も一緒に行っていいかな?」

「もちろんです! 実は、ちょっと一人になるの怖かったんですよね……、幽霊みたいなのが見えたばっかりだし……」

「失礼ねー、テレビから這って出てくるようなのと一緒にされたくないわよ!」

 いや、むしろあちらが幽霊の正統派であって、君は特殊すぎるからね。

「まぁ、その幽霊の女の子も、そんなに悪いやつじゃないかもよ?」

「変わったことおっしゃるんですね……。幽霊なんて、怖くて当たり前でしょう?」

「いやさ、人間にもいろんなやつがいるし、幽霊もそうなんじゃないかな? あいつらだって、人間だったんだし」

「まるで知り合いに幽霊がいるみたいなこと言うんですね……」

紗枝はきょとんとした目でこちらを見上げていた。実際、その通りなんだが、まさかそうだとは言えない。

「ほら、遅くなっちまうぞ、行こう」

「いや、真くんはぐらかし方が下手くそすぎるでしょ」

言うな、自覚してるんだから……。

「お兄さんって、ちょっと変わってるんですね」

 あぁ、変わってるを通り越して変態と思われてるくさい視線だ。へこむ。

「でも、面白いです」

 彼女がぼそぼそと続けた言葉を聞き取れなかったわけじゃないが、僕は耳に入らなかった風に歩き出した。

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