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タルパ  作者: 真谷真
7/10

雨の公園

0.


「……落ち着いた?」

「うん……、ごめん、急に取り乱して。全然関係ないこと口走った」

「ううん、それは私のほうだよ……」

 楓は一体、どこまで僕のことを知っているのだろう。

 彼女がいうには、回線とやらが繋がっていたとしても僕の個人的な記憶まではわからないらしい。

 じゃあ、楓は嘘をついていたのだろうか。だとしたらそれは何の為に? 聞いてしまえば楽になるかもしれないのに、それが怖くて出来ない僕の臆病さが嫌だった。

 一番辛かった日……、家族を失った時のこと。

 その事について考えすぎると、壊れてしまいそうになるのがわかっていたから、僕はあえて目を背けてきたし、一概にそれが悪いというものでもないだろう。

 しかし、逃げたつもりでいても、傷跡は過去から追いかけてくるものなのかもしれない。どうでもよいような事で冷静さを敏感に失った僕は、自分で思っている以上に過去を無視出来てはいないのだろう。

 その、誰に言おうとも思えない苦痛を知っていてもらえる存在がいてありがたいと思うべきなのだろうか。それとも恐れるべきか。とりあえず彼女のことをもっと知りたかった。



「楓……、僕に言ったよな。僕と一緒にいるのは、お前が寂しいからだって。それは、嘘じゃないよな?」

「もちろんそうだよ。私をちゃんと知覚できるのは真くんだけなんだから。私だって孤独は絶対に嫌」

「僕の個人的な事は知らないって言ったけど、嘘だったんだね」

「やっぱり、わかっちゃったのね……本当にごめんなさい。でも、本当のことを言ったとしても混乱するだけだと思ったから……。それに、わかるって言っても断片的なことだけなの」

「もういいよ、別に怒ってないから……。それより、もっと君について話してみたい」

「私に……ついて?」

「殆ど知らない人と出かけたりするのがいけないって言うけど、君のことだって、実際あまり知らないから。自然に一緒にいられるのが心地よくてそういう話題を避けてきたのはお互い様だけど……やっぱりよくないね」

「確かにそうだね……」

 そう認めながらも、かなり言いづらそうに佇んだまま動かない。喉の奥から出そうになる声を、恐らくは彼女の不安がせき止めていた。

 やがて一陣の生ぬるい風が吹いた後、彼女は観念したように話し出した。

「気が付いた時に私の中にあったのは、多少の言葉とわずかな自意識だけ。何にも触れられない私は、あのままだと何処へも行けず漂っているしかなかったと思う。真くんに話しかけて返事をもらった時、私の今が始まったの。誰かと繋がれず、接することも出来なければ存在する意味すらないもの。真くんと話せるようになるまでの一月、それを嫌と言う程思い知ったわ……」

「僕の知識や記憶がわかるっていうのは、どういう風にしてわかるの?」

「……夢を、見るの」

「ゆ、夢っ!? それってどういう……」

「うん……、夢の中では私は、真くんになっているのね。それで、全く知らない時間の、全く知らない人たちと会話をしたりするの。からっぽの私がそんな夢を見るわけがないし、もしかしたら真くんの記憶がこっちに流れ込んで来てるのかなってちょっと思ってた……確信はなかったのだけど。もしそうだとしたら、勝手に人の大事なものを覗き見てしまったってことだから、凄く悪いことをしているんじゃないかってずっと罪悪感持ってて……言えなかった……、嫌われるのが怖かったから」

 楓は夢で僕の記憶を追体験していた。それが現実の過去と照らし合わせてどれだけ正確なのかはわからないが、彼女にとってみれば思いがけず洩らした、“去っていった人と違う”という言葉からするに、食い違いは殆どないのかもしれない。

 人は無意識のうちに過去を自らの解釈によって改ざんしてしまうものだ。食い違いがあるとしたらなきっとその程度。根拠もなかったが何故か僕はそう感じた、

「しばらく、顔見せないほうがいいかな?」

「……なんでそう思うの?」

「だって……、気持ち悪いよね、幽霊ってだけでもそうなのに、勝手に記憶をのぞかれるなんて」

「僕がいつそう言ったんだ? 夢のことにしたって、自発的にしたことでもないし、今の感情を正直に言うと、ちょっと安心してるんだよ。我ながら変わってるとは思うけどさ」

「安心……? それってどういうこと?」

「上手く言葉で説明できない。確かに過去を知られるのは怖いし、驚いたけど君のさっきの申し訳なさそうにしてた様子とか見てたら、僕がどうというより君がやっぱり悪いやつじゃないってことがわかったんだ。そっちのが重要なんだよ、僕にとっては。幽霊だとか関係ない。君と……もう少し一緒にいたい」

 落ち込みそうな楓を慰めたくて、早くこんな寂しい空気から抜け出したくて僕はそんなことを口にしていた。

「てか、お互いなんか恥ずかしかったから、今日のことは忘れようぜ、後からネタにするのなしだからな」

「……れない」

「……はい? ごめん、よく聞き取れなかったんだけど」

「忘れないよ、私。真くんが優しくしてくれたこと、忘れたりなんかしないよ」

 楓は手のひらを腰の後ろで組み合わせて、恥ずかしそうに、だけどちゃんと僕のほうを見ながら微笑む。その顔がまぶしくて、僕は商店の窓ガラスに夕陽が反射したことにして目を背けた。僕の頬を赤く染めていたのも、夕陽だということにしておく。

 きっかけは全く関係のないことで、今日のぶつかり合いが生じた。だがそれはいつか必然的に起こっていたのだろう。互いの寂しさを埋め合う為、とりあえず一緒にいられればそれでよかった筈の僕らは、二人揃ってこんなにも不安を抱えていたのだから。

「……まぁ、お互い色々吐き出したってことで、よしとしようや。辛気臭いのはこれで終わりってことで」

 僕は照れ隠しに楓の肩を後ろから軽く押し、歩くよう促した。

楓とは対等に接して来たどころか、随分甘えてしまっていたが、本来の役目は逆だろう。大人になりきらない少女の、触れるとまだ硬い華奢な身体が僕にそう感じさせていた。

 


「はい、二宮酒店です。――え?! ほっ、本当ですか!? ええと、どちらの病院ですか? はい……はい……、ええ、向かいます」

 サトルが血相を変えて電話を切ったのは、珍しく雨が降った午後だった。

「先輩、本当に申し分ないんですが今日延びてください。親父が……倒れたらしいんです。すぐに病院に行かないと!」

「親父さんが?! わかった、すぐ行ってくれ」」

 サトルは、“助かります”と僕のほうも見ないで言うと、気が気でない様子であわただしく店を後にした。埃の漂う空気を洗い流すような雨は、途端にじめじめし始めた……悠里香には会えそうもない。

 高校の頃のサトルは、とにかく両親を嫌っていた。彼が言うには、自由が縛られるからだそうだが、それは一昔前に流行った歌手の影響でも受けているのかもしれなかった。今の彼の表情を見れば、そういうわだかまりも消えているように思える。表面上嫌っていても、殆どの人にとって親は大事なものだ。もちろん、最低な親がいることも……それによって立ち直れない傷を受けた者がいることも知ってはいるのだが。

「ハゲのお父さん、大丈夫なのかしら?」

「珍しいな、お前が赤の他人を心配するなんて」

「失礼ね、そりゃまったくの他人がどうなろうがどうでもいいけど、ハゲは仲間よ?」

 ハゲことサトルはいつの間にかこいつの仲間になっていたらしい。ちなみにサトルはお前のこと知らないからね。

「大丈夫であって欲しいな……」

「そうだね、ハゲが泣くとこなんて似合ってなさすぎ」

 僕は、最悪の事態が起こった時のことを想像してみる。出会った頃のサトルは、その目に深い悲しみを潜ませていた。彼には、いや……、僕はきっと誰にだってあんな目などして欲しくない。見知った人間関係の中にいるものや、もっと言えば路上を歩いていて偶然出会うかもしれない誰かだって、僕にとって知覚しうる世界の住人に含まれるが、そういう世界の埒外にいるもの、例えば地球の裏側に住んでいるものなど、おそらく一生で一度も出会うことのないだろう人たちにだって、出来れば悲しい思いはしてもらいたくない。

 またお得意の綺麗ごとかと、自嘲する気持ちもないこともないが、そこまで深く考えるのも馬鹿らしくて、そんなものはすぐに打ち消される。

 ――僕は、他人に同情してもいい人間なんだ。


1.


「今日の約束……すっぽかすことになるな。携帯の番号聞いておけばよかった」

「雨も降ってるしね」

「待ってなければいいんだけど……僕って最低だな」

「またそれ? 別に真くんが悪いわけじゃなくない?」

「そうと言ってもなぁ」

「でもさ、今の真くんに何が出来るの? お店ほっぽりだして、デートの相手に謝りに行くの?」

「それが出来たら悩んでないよ」

「私からすれば悩むこと自体がナンセンスよ。どうしようもないことは考えても仕方ないじゃない」

 それは、僕がいつもしてきた思考ではなかったか。そうすることで今までずいぶん無駄な悩みを回避してきた。今回もそうすればよかったのに、出来なかったのはきっと僕の内面がどこか変わってしまったのだ。他人の痛みなど、どうでもよかったのに。そうしていれば、楽だったのに。

「まぁ、それは否定しないよ。悩むかどうかは、僕の勝手ってことで一つどうだい?」

「はいはい、そういうことにしておきましょうかね。ほら、お客さんよ」

 傘も差さずにサトルが帰って来たのは、日が沈み薄暗くなった午後だった。

「……おかえり、どうだった?」

「親父、意識が戻らないんです。俺……、どうしたらいいか……すいません。残ってもらったのに、今は一人になりたいです」

「大丈夫か? 何かあれば言ってくれよ」

「ありがとうございます……」

 サトルのことも心配だったが、悠里香をそのままにしておくわけにはいかない。

 雨は少し弱くなっていたが、しばらく立っていれば髪から水がしたたる程度には降り続けていた。僕は酒屋を後にすると、彼女と約束していた場所へ駆け出す。嫌な予感が胸を締め付けて、息が切れた後もずっと早く走っていたかった。

 商店街を少し越えたところにある公園の、濡れて色が変わった木製ベンチの上にぽつんと座る影を見たとき、僕の不安は激しい苛立ちになった。

 ぬかるんだ地面を走り、悠里香の頭上に自分の傘を突き出す。

「はぁ……はぁ……ずっと、待ってたの?」

「はい……、来てくれて……嬉しいです」

「傘も差さないで、風邪引くじゃないか……待ってなくてもよかったのに」

 違う、こんなことが言いたいんじゃない。謝らないといけないのに。

「でも……、あと一時間待って来なければ、もう二時間待ってみよう……。そう考えていたら、結構楽しかったですよ?」

 夏の雨とはいえ、濡れたままでいると体温を奪われる。悠里香の唇は紫色に染まっていた。

「せめて傘くらい……」

「取りに行っている間に境谷さんが来てそのまま帰ってしまったらと思うと、傘なんてどうでもよかったんです」

「ごめん……、本当にごめん」

「いいんですよ、こうして来ていただけたんですから。それより、濡れちゃいますよ? 私はもういいですから、傘を差してくださいな」

「いや、そんなわけにはいかんな」

「優しいですね。ついでに甘えちゃいます。これからでも何処かへ連れて行っていただけませんか?」

「お詫びに、何処でも構わないよ。それがお詫びになるなら、だけど」

「なりますなります! でも、私的には境谷さんのチョイスも楽しみにしてたんです。一体何処に連れていってくれるんだろうって。だから、境谷さんに任せてみたいです」

 雨の中で数時間待っていたわりに、彼女の機嫌はすぐによくなった。と、いうより最初からたいして怒っていなかった気がしないでもない。これ、なんていえばいいんだ……健気っていうにはちょっと行き過ぎな気もする。

 ちなみに僕のポケットの中には、最近流行のグループのコンサートチケットが二枚。開演時間が過ぎた今ではもう、使い物にはならないものだった。

「うーん、こんなん買ってたんだけどさ」

「うわぁ……、マイナーだけど良いグループですよねこれ! 私も好きですよ、いい趣味ですなぁ」

 マイナー、なんだろうか? 一応先週オリコンのトップチャートにランクインしていた筈だが……。

「でも悪い……開演時間過ぎちゃってるんだなこれが。映画でも見に行こうか?」

「今はどんな映画をやっているんですか?」

「実は僕も良く知らないんだけどね、適当に面白そうなのでよくない?」

「いいですよー、こうして出かけられるなんて、夢みたいです」

「大げさだなぁ。僕なんかと出かけてそもそも楽しいの?」

「それはまだわかりませんよ。評価は今日の終わりに、ひっそり私の中でつけておきます。境谷さんに限ってそんなことはないでしょうけど、面白くなかったら許しませんよ?」

 ……訂正、たぶんこの人は顔は笑ってても実際中身は怒ってるタイプだ。当たり前だけどやっぱり待たせたのはまずかったらしい。目が笑ってない。こわい。

「今だから言いますけど、私ずっと境谷さんの事気になってたんですよ? 境谷さんは覚えてないみたいですけど、今まで何度も会ってるんですから。私がギターを弾いていると、境谷さんは決まって立ち止まってくれました。歌やってる身分からすると、そうしてもらえるのが一番嬉しいことなんです」

 そうだったか……? はっきりと記憶がないのだが、彼女が言うからにはそうなんだろうな。

「とりあえず、そんな濡れたままじゃダメだよ。一度家に帰って着替えないと」

「確かにそうですね……。あの……、家って境谷さんの家じゃダメですか?」

「ちょっ、何言ってるのよこいつ! 警戒心とかないわけ?」

いや、僕は一回たりとも楓に迫ったことはないのだが……。まぁ、常識で言うならそうだわな。

「でも、着替えとかないしね。やっぱり自分の家に帰ったほうがいいと思うよ?」

「……家、少し遠いんです。着るものはこのままでいいですから、お願いします」

 結構強引だけど……、でもここまで待たせておいてお開きになるのはかわいそうすぎるよな。

「わかったよ……、でも、スウェットならあるからそれを着ることが条件だよ? 夏とはいえ絶対風邪引くし」

「境谷さんの……スウェット!? 私なんかが着ちゃってもいいんですか?」

「いや……、むしろ着てくださ『何言おうとしてるのよこの馬鹿!』って、痛てててて」

「どうしました!? 何処が痛いんですか?」

 幽霊に思いっきり尻をつねられた、なんて言えるわけもなく僕はなみだ目で悠里香を見つめ返すしかなかった。

「ふふふ……、なんだかよくわからないけど、面白いです」

 そう言って儚く微笑んだ彼女をきっと忘れない。

「大丈夫だ……問題ないから」

 楓のほうを恨みがましい目でにらむと、あからさまな勢いで顔を背けられる。なんでそこまで怒られないといかんのだ。

「それじゃあ、こっちだから」

 悠里香は僕の隣りに並ぶように歩いた。僕は彼女の歩幅に合わせるように、彼女は僕に遅れぬように二人は互いに、水たまりを飛び越えるような気分で歩いた。僕がそれを自然に楽しいと感じたのは、彼女のような美人を連れて歩いていた、ということだけじゃなくて、ことあるごとに彼女が見せたはにかむような仕草が原因かもしれない。

 美人に気がある素振りを見せられて喜ばないわけはないのだし。

「ちょっと……、さっきから何にやにやしてんのよ」

「そういう楓ちゃんはさっきから何カリカリしてんのよ」

「反撃するなよ! 普通ここは“うぐぅ”とか言って困るもしくは鈍感すぎて私の言葉の意味がわからないみたいな顔するところでしょ!」

「いや……、そんなん言われても。てか、鈍感って何のこと?」

「はぅ……時間差で来たぁ」

 まぁ、楓の言ってる意味は流石にわかる。恐らく、僕を悠里香にとられたような気分なのだろう。だが僕は、楓の感情豊かに変化する表情が見たいあまり、ついそんなことを言ってしまいたくなる。

 楓はそれきり信号機のように顔を何度も赤くさせたり、涙ぐませたりしていた。

 ……にやけていた、か。確かに悪い気分ではなかったが、顔に出る程だったとは。

「あの……どうかしたんですか」

 悠里香が怪訝な顔をして尋ねてくる。もはや恒例と言っていい状況だが、楓と話している時の僕は、挙動不審極まりない。とはいえ本当のことを言うわけにもいかないので“いや……あはは”などと言ってその場を濁すしかなかった。

「私の歌、本当に変じゃなかったですか?」

 突然彼女がそんなことを言い出したのは降り止みそうだった雨がまた、差したビニール傘に音を立てるくらいに強まり、僕が右肩だけを濡らし始めた時だった。

 近くで見ると、緊張で張り詰めたように表情がこわばっていた。一体何が不安なのだろうか。歌が変だと言われることなのか、それとももっと別の、彼女の存在意義に関わるようなちょっと哲学的な話なのだろうか。まぁ……それはないな。考え過ぎは僕の専売特許みたいなものだし、いちいち思いつめている人間がそんなにいてたまるか。

「歌……、僕は君の歌好きだよ? 凄い綺麗な曲調がいいよね」

「歌詞はどうでしょうか……?」

 まずい、正直あまり覚えていない。歌詞カードをめくりながらCDを聞くのとは違うのだし。空気を呼んで、“歌詞もいいと思う”と言ってみるか? いや、それだと“どういうところがいいと思いましたか?”なんて言われたらお終いだよな。

 楽しい時間を飲み込む怪物というのは、いつでも大口を広げて待ち構えているものなのだ。

 唯一覚えていると言ったら、一番最近聞いた彼女いわく失敗作。本人がそうけなすものを褒めても喜んでもらえないかもしれない。それでも僕は――

「やっぱり……、歌詞はダメですか?」

「歌詞自体を好きか嫌いかと言われたらどっちでもないってのが本音だけど、僕はそういう歌詞を書ける君のことを強いと思う」

 何故かそんな言葉を口にしていた。

「強い?」

「ああ……。だってあれは、本当の君の言葉だろう? 誰の為でもなく、君自身の為に書かれた詩っていうかさ。ほら、僕の勝手なイメージではあるんだけど最近流行りの歌って、本当の事を隠しているのが多いと思うんだよ。全員平等だとか、夢は絶対叶うとか簡単に言ってみたり。そういうのって、普通に聞く分には楽しいかもしれないけど、例えばへこんでる時とかだと、殴り飛ばしたくなってくるよね」

「あはは、そう、ですよね、あはははは」

 それ程おかしなことをいったつもりもないのだけど、悠里香は声を出してしばらく笑い続けた。

「でもさ……、君の歌にはそれがない。流行ってる歌が、本当の事のように嘘を言っているのだとしたら、君のは嘘のように本当のことを言ってる。でも、そんなことが出来るのにはやっぱり勇気がいると思うんだ」

「勇気なんてないですよ……、だけどそう言ってもらえて嬉しいです。それに、やっぱりちゃんと聴いてくれていたんじゃないですか」

 僕はこの間の歌の感想を言っただけなのだが、彼女はそれ以前の歌も含めての感想と思ったのか、いたく嬉しそうにしていた。

「僕みたいなのが偉そうなこと言ってごめん」

「いいえ、凄く嬉しかったです。それと、“僕みたいなの”とか言わないで下さい。音楽は、ただ音を奏でるだけでのものではありません。心が触れ合ってこそ音楽です」

 心が触れ合ってこそ……か。幸せそうな言葉ばかりが並べてある歌詞をどうもうさんくさく感じてしまうのは、単に僕がそういう経験していないだけのことなのかもしれない。 楓……、お前はどういう音楽が好きなんだ。僕は、むすっとしながらも僕の影を踏みしめるようについて来ている彼女に、心の中だけでそっと問いかけていた。

「ここの二階だよ。ぼろい上に部屋も汚いけど、勘弁な」

 悠里香の華奢な肩を見下ろしながらそう言ったのだが、彼女は濡れるのも構わず傘を出ると、一歩後ろに引いたところで両手を腰の前で重ね合わせるような仕草をした。今にも沈んでしまいそうな陽がいつもより厚い雲に隠されていたのもあって、その姿はたぶん儚かった。

「……私、やっぱり帰らなきゃいけないみたいです」

「え? どうしたの急に」

「やーい、振られてやんの! やったわ! ざまぁみろ、へへん。……真っ暗な性格な真くんには結局、私しかいないってことよ、感謝しなさいよ? ていうか、今までだって話がうますぎたのよ、孔明の罠だったのよ、ざまぁみろ」

 楓はそう言って僕の肩をばしばし叩く。ていうか、今ざまぁみろって二回言ったよね。そんなに大事な事だったのかな。あと、悠里香が帰るからといって別にそこまで落ち込んでないんだが……。

 ただ、極力意識しないようにしていたが、悠里香は薄いシャツを着ていたので濡れた部分が透けてしまっている。このまま帰していいものなのか。かといって強引に連れ込むのも気が引けるし。

「本当に大丈夫? せめてシャワーで身体をあっためたほうがいいよ」

「いいえ、いいんです。今日はもう時間がなくなっちゃったみたいですから」

 彼女は時計も見ずにそんな事を言った。ここに来て、大して知らぬ男の部屋に上がることを考え直したのだろうか。まぁ、それならそれで構わないが……。

「わかった、タオルだけ持ってくるからここで待ってて」

 傘を彼女に渡すよう近づいた時、僕は彼女の頬が雨だけで濡れていたわけでないことを悟った。その涙の色は、あの夢で見たようなものとは少し違った気がする。

 彼女は傘を受け取らず、まるで自分の罪を告白するようにゆっくりと話し出した。

「覚えていますか? 初めて出会った日のことを」

 初めて出会った日のこと……。恐らく、僕がふと彼女の演奏に足を止めた日。思い出せるわけもない。僕は傘を打つ雨の音を、ただ聞くことしか出来なかった。

「私は、いつも一人で寂しい歌を唄っているような女でした。会話の中で自分の辛さを訴えることが、凄く恥ずかしかったから。大げさに痛がるような、そんなはしたない真似はしたくなかったんです。誰でも、思春期になれば悩みますよね。私が歌を始めたのは、中学生の頃でした。振り返ると浅い悲しみでも、その頃の私にとっては一大事だったんです。だから、きっかけは些細な事。でも、一度歌で表現することを覚えた私は、それから何があっても結局歌の中だけにしか自分を出せなくなっていきました。辛かった……、本当に辛かった時期でさえ」

 彼女はそこで言葉を切り、俯いてしまう。彼女の言葉の意味が、うっすらわかるような気がする。なにせ、僕は彼女の記憶を追体験してしまっているのだから。「あなたは優しいから、口には出さないだけできっと覚えてなんていないのでしょうね。……傘、持ちます」

 彼女に傘を渡そうと、もう少しだけ距離を縮めた時。突然傘は地面にひっくり返り、内側から雨に濡れ始めた。

「キ……、キ……」

 楓の声がやけに遠い。この感触は、一体……。

「キスしやがったー!」

 ああそうか……、僕はキス、されたのか。それなのに、この胸の痛みは一体なんなのだろう。悠里香はどうして、こんなにも寂しそうな顔をするのだろう。

「ふふ、忘れていた罰です。これでも私、少し怒ってるんですよ? これで勘弁してあげます」

 そう言うと、彼女はしてやったりといった感じで足取り軽くその場を去っていく。だんだん小さくなっていくその背中を、僕を追うことが出来なかった。

「なななななにをいけしゃあしゃあと! 許せん! 怒ってるならキスなんてするなぁ。なんか深刻そうだから空気呼んで黙っててあげたのに、この策士! 周喩!」

その場に取り残されて動かない僕と傘。……あ、傘は動くわけはなかったか。

 てか、周喩は悪口になってないだろ、なんて僕が内心突っ込むことが出来たのは、それからしばらく楓がわめくのを聞いた後。さらに雨脚が強まったので僕らは部屋に転がり込んだ。楓はあれから口を利いてくれない。だから僕は、畳の上に両手を組んで枕にして寝転がり、部屋の薄暗い天井を見上げているしかなかった。静かな時間が、ただ流れていた。


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