ユカリ
今回は少し長いです。
0.
一応、屋根のある商店街の中ということで外気温よりは何度か涼しい。それでも、息苦しいこの季節は容赦なく体力を奪っていく。一件バイトを募集しているところがあったものの、期待はしないでくれと念を押された。どうやら、僕より先に面接に来た人間がいて、そっちを採用するつもりのようだ。それなら張り紙を剥がしておけよ……と突っ込むのを我慢した僕は賞賛されてもいい。
よくよく考えなくても、世間は夏休み真っ只中。暇な高校生、大学生で溢れかえっている。つまるところ、ありふれた椅子取りゲームに負けてしまったのだ。
そんなつまらない存在の僕は、喫茶店の椅子に陣取り、アイスコーヒーを一気飲みする……さっきから何ml汗を流したか考えたくもない。
熱をはらんだ身体に染み渡るようだ……。
この感触の為に生きている、と言っても過言ではないね。いや、言いすぎか。
「この喉越しがたまらん……」
「えー、砂糖もミルクも入れないとか、ちょっと味覚おかしいんじゃないの?」
「そこは好きにさせて! それとおかしくないです普通の範囲内です」
「ねぇねぇ、ちょっと飲ませてよ」
「はぁ? 飲めるの?」
「砂糖入れてね、五つくらい」
「お断りします(即答)。ていうか、幽霊なのに飲めるの? っていう意味なんだけど」
「飲めるわよ、失礼ね! ねぇ、飲みたいんだってば、砂糖、砂糖、ミルク、砂糖」
「あーもう、うっさいなお前は」
僕はやけくそなまでに砂糖を次々と放り込んでいった。さようなら僕の二百五十円。
「ありがとー、じゃあ早速……。うーん、冷たくっておいしいー」
目の前のアイスコーヒーは、予想通りというか全く減っていない。張り倒すぞ。
「楓ちゃん、飲んでないよね?」
「なんだか、目が怖いんだけど……飲んだの怒ってるの?」
「いや、そうじゃなくて減ってないじゃん」
「そう見えるだけで、ちゃんと飲んだよ、気になるんだったら、残ってるやつ飲んでみればいいじゃん」
「いや、もはや目の前の液体はコーヒーと言える代物じゃないんだが……」
僕は、そう小さくぼやいたものの、楓がやけに自慢気な顔をしてるので、しぶしぶ口にグラスを向けた。
――あれ? 全く味がしない。
味がしないというか、液体を口に入れた感触すらない。
感じるのはグラスの硬い感触だけだ。
それ以外は何も感じないのに、嚥下するたびにグラスの中身だけは減っていく。
「だから、飲んだって言ったでしょ、そこにあるのは、かつてコーヒーという液体だったモノでしかないわ」
「いや、意味がわからんのだが」
「コーヒーの形だけがそこにあるの。実体はないわ」
コーヒーの形がまだそこにあるっていうのは、グラスの中にコーヒーが入っているように見えるということだろう。
で、実体がないっていうのは、コーヒー自体は既に楓が飲んでしまっているから。
うん、全く意味がわからんままじゃないか。
「つまり……どういうこと?」
「どういうことって言われても……。言ってみれば、それはコーヒーの抜け殻ってことなんだけど」
「たぶんだいたいわかった。一つ突っ込んでいいか?」
「たぶんだいたい予想がつくけど、一つだけ突っ込んでいいわよ」
「お前は吸血鬼か!」
思わず大きな声を出した後で、デジャブを感じる。
周囲の視線が痛い。
僕たちはそのまま逃げるように喫茶店を後にせざるを得なかった。
「真くんって、意外とアホね」
「……反省しております」
とはいえ、この怪奇現象の連続に悲鳴を上げないだけマシだろうよ……。
それから少し歩き回ったものの、もうここら一帯の店は網羅してしまったようだ。
長い夏の日も、ついに暮れようとしていた。
バイト探しという点では、大した成果もないまま。
楓とのよくわからなかった距離感という点では、たぶん少し縮まった……と思う。
玄関を開けると、明かりのついていない部屋がいつものように広がった。
暗闇は好きじゃない。
一人でいた時は、よくその中に飲み込まれてしまうような気がしたからだ。
「真くん、まーた暗い顔してるよ? 思春期? 中二病?」
「違うわい。というか、見た目年齢的にお前のほうが思春期だろ」
僕は、今でもすぐ暗い方向へ物事を考えてしまう。
それは、僕が置かれている状況がそうさせるというのもあるが、個人的な思考パターンがすでにそう根付いてしまっているという原因が大きいのだろう。
だが、孤独とはきっとそういうものだ。人の心を、復元されたとしても歪になるくらい潰してしまうものなのだ。
でも今は、一人じゃない。楓は、僕をそっとしておかない。彼女が本当のところどういうモノなのか、僕には分からない。自称幽霊とか言ってるが、もしかしたら魔性の類なのかもしれない。
だけど、それが一体どうしたというのだろう。
彼女の声を聞くと、正直安心する。心が安らぐのだ。このことに、矛盾は何もない。
心が、一時でも苦しさを忘れてくれるのなら。僕は、たとえ彼女に殺されても、彼女を離さない。
「私、思春期なんかじゃないもん」
「ふーん、そうなんだ。でも、存在が既に中二病だよな」
「ちょっ、なんてこと言うのよ、泣くわよ!?」
「だって、幽霊とか……」
「それおかしくない? 普通は怖がるでしょ? なんでバカにする方向に思考がいくのよ」
「だって、お前全然怖くないし。むしろアホだし」
「アホは真くんでしょ! アホっ、アホッ!」
「すぐムキになるところがやっぱ中二病だな」
「むきーっ、むかつくっ! ていうか、さっきから私で遊んでない?」
「アソンデナイヨ」
「私、昨日寝てないんだから、あんまり興奮させないでよねっ」
出たよ、“俺、昨日寝てねーし?”的な発言が。そしてこのドヤ顔だよ。
「へいへい、かわいいねお前は」
僕はそう言って、楓の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ちょっ、やめっ、やめろこら! あと、そのニヤニヤした目がなんだか果てしなくむかつく!」
楓がばたばたと抵抗し、僕の腕や胸を叩く。
普通に痛いのでやめて欲しい。
基本的に、彼女は人や物に触れることは出来ず、そうしようとしてもすり抜けてしまうようだった。
どうして僕だけに触れることが出来るのか。
以前彼女は、それに関して“回線が繋がっているから”などという電波回答をしたものだが、正直全く意味がわからない。
「なぁ……、回線が繋がったってどういうことなんだ?」
「ん? だから、臨死体験の結果、いわゆる超能力みたいなのをゲットしたってことじゃないの?」
「いや、そんなベタな……」
「じゃあ、他に何か理由ある?」
全く思い当たらない。
仕方ない、とりあえずそういうことにしておくしかないか。
考えても終わりのないことについては、極力悩まないようにしてきた。
背中の裏を流れるような大きな、形のない不安に気づかないフリをしてやり過ごすことは、ある種賢明だからだ。
だが、いつかその繰り返しで不安が堰を切り、脆さで幾十も塗り固めたような生活が崩壊する。あの夜のように。
まだそれは、今じゃない。
半ば直感じみた感覚で思考を止めた。
そうしてみると、目の前にいるのは、単純に僕にとって都合の良い存在といえたのかもしれない――
「理由はないな、お前の言うとおりということにしておこう」
「うんうん、それがよろしい」
「それでは、僕はもう寝ることにしますおやすみ」
僕は頭まで布団を被る。
「はやっ! じじいですか!?」
時計は二十時過ぎを指したばかりだった。
それなのに、起きていられない程眠い。
「お前さ……、僕のエネルギー吸ってるんじゃね?」
「失礼ねっ、人を○ルみたいに言わないでよ!」
「セ○的な吸収の仕方だけは勘弁してくださいグロいから」
「違うって言ってるでしょ、ハゲ!」
「なっ!? おまっ、フサフサだろ、見ろよほらっ! クリ○ンとは違うんだよ」
思わず布団から勢いよく顔を出すと、楓はそれだけで嬉しそうな顔をした。
「違いますぅー、あの人はハゲてませんー、剃ってるだけですぅー」
「僕は剃ってすらいないよっ!? ……いいから、疲れてるんだ。寝かせてくれ……」
「はいはい、おやすみー……、つまんないの」
会話がなくなった途端、身体が重力分以上に布団に沈んでいく気がする。
今、僕は意識と無意識の境界にいた。指一本すら動かしたくない程に。
楓の気配は、近くにはもうない。また、どこかへ出かけているのだろう。
彼女に構ってやれないことに多少の罪悪感を抱きながら、僕はついに意識を失った。
――昨日の夢の続きだ。
そう感じたのは、目に映る自分の指がとても細く、長かったから。
僕は……、いや、私はどうやら周りから疎んじられているらしい。
それが、このところ強く感じる不快感の原因。
こんな経験には、慣れていない。
別に誰かの悪口を言ったわけでもなく、何かヘマをしたわけでもない。
大きな理由もなく、みんなの暇つぶしの対象になってしまった、そういうことなのだろう。女子同士では、よくあることだった。
教室の席に、いつものように座ると、聞こえてくる言葉たち。何を言っているのかわからないけれど、それが私をなじる内容であることはもはや疑いようもなかった。
負けたくない。こんなことに、こんなつまらない悪意になど、屈するものか。そう強く思えば思うほど、私の心は意固地になっていく。だから、私はまた、この唇を強くかみ締めてしまうのだった。
ノートをめくる。いつのまにかそれは低次元な中傷で埋められていた。腹が立つ時期を過ぎれば、それは悲しみに変わる。
そういう予感があった。
だから私は意識を、音楽の海へと沈めていく。そうすることで、壊れそうな心を支えられる気がした。硬くなった左手の人差し指が、私の勲章だった。
だけど、そうして出来た歌は、やはりどれも酷い出来だった。
曲調や歌詞が暗すぎて、とてもウケるようなものではない。
それがわかってはいても、自分の気持ちに嘘をつけない弱さが私に明るい曲、ウケる曲を作らせなかった。
誰かの不幸はテレビの向こう側の話だと、私は油断していたのだ。
もっとも、そんな心構えで作った平和ボケした歌など、誰かの心をとらえる筈はなかったのだが。
分かり合えない歯がゆさが、自分の心の弱さが、何気ない悪意が、これほど心をえぐるなんて、今まで知らなかった……。
1.
意識が覚醒する。
また気分の悪い夢を見た……。
昨夜は暑くて、エアコンなどという高価なものには縁がない僕にとって、扇風機――別名熱風かき混ぜ機)――は神様のような存在……ではあるのだが、それでもじっとりとかく汗の気持ち悪さは何とも言えない。
体力が戻っていないことも、夢に影響しているのだろうなと思う。
そして……、恐らく何よりも原因となっているのは、今僕の腹の上にのしかかっている非常識存在である。そりゃ、人が上に乗ってたら寝苦しいに決まっている。というか、よく起きなかったな僕は。
あれは一昨日の夢の続き。昨日と同じように起きてしばらくしたら、その記憶は消えてしまうのだろう。
「重いじゃないか」
「私の重さが感じられるなんて、凄くない?」
「よーわからんが、回線が繋がってるんだろ、お前の電波理論によると」
「電波言うなっての。回線が繋がってても、重さまで感じられるのはたいしたものだよ、上級者だね」
一体何の上級者なんだか……。
「まぁいいから、とりあえずどいてくれないかな」
「今金縛りの練習してるから無理」
「んなもん練習しなくていいわい……よっこらせっと」
「うわっ、急に動かないでよっ」
僕は畳に手をついて、起き上がる。
横になっている時は人並みに重く感じた彼女の体重が、突然子犬のような軽さに感じられた。まぁ、そもそも人間を相手にしているわけじゃないし、もはや常識は持ち出すまい。
ちなみに楓を押しのけた拍子で盛大に転んだ彼女のスカートの中が見えた。ちょっとうれしい。やっぱ白が安定色だよな。
「あのね……、そういう視線ってわかってないと思ってても、バレバレなんだからね?」
「うぐぅ!?」
馬鹿な……、瞳を動かさず、視野のぎりぎりで垣間見るという奥義が破られるとは……。驚きのあまりどっかで聞いたような変な声が出たわ。まさか実際に使ってしまうなんて……。
「しかも……、なんか当たってるし」
楓はピンクチラシを見るような目で僕の下腹部を眺める。
やめてください、そういう視線はなんかぞわぞわします。男に見られて嫌がる女の子の気持ちが少しわかった気がするが……、ここは威信にかけて真実を述べてやらねばなるまい。
「これは単なる生理現象だ!」
「ほんとかなぁ~?」
「パンツ見えたくらいで一瞬で勃起とか僕はどこのアホ中学生ですか」
「パンツ……、やっぱり見たんだー! 変態、アホっ、アホ」
「白だった。よかった」
カマをかけられたお返しに、そう言いつつ親指を立ててさわやかな笑顔を向ける。
「………………最低」
あ、なんか空気が重い。“冗談だよマイケル。マイケルジョウダンだよ!?” とか言えば許してもらえるんだろうか。アメリカンな軽さで。
……焦ったせいで最高に寒い駄洒落でごまかすという最高に寒い選択肢が見えてしまった。
ていうか、選択肢ってなんだよ……、どこのオタクだよ。
「あい、いや、今のは本気で言ったわけじゃなくてだな……あの、その」
「……ぷっ、ははは、あははははは」
「んん?」
「焦ってる、焦ってる。真くんって意外とかわいいよねー」
あ、つまり遊ばれてたわけね……。
こういう所では男は女に絶対勝てないということ、世の男性諸君ならわかると思います……。
「で、今日はどうするの?」
「そうだな、とりあえずサトルのところに行ってみるか」
「サトルって、あのアホ酒屋?」
「確かにアホだが、雇ってくれそうな恩人にアホとは言えない」
「いや……、言ってるし。ていうか、どういう風の吹き回し? 昨日はあんなに嫌がってたじゃない」
「気が変わったっていうか、冷静に考えてあそこしかないだろ。サトルは知り合いなだけ、体調が戻るまで加減してくれるかもとか思った」
「甘い……、それは甘いよー、今朝の朝食の大福くらい甘いね、真くん」
「は? 朝食?」
僕は首が遠心力で飛びそうなくらいの勢いでちゃぶ台を見やった。そこには、今朝の朝食用に買っておいた大福が一つ。嫌な予感というか、確信を持ちながらも恐る恐る口にする。
「やばい……、なんていうのこれ。味のない、食感だけの餅がこれほど奇妙な食べ物だとは」
「おいしかったよん」
「張り倒すぞ、朝から水分少な目の濃厚ゲル的なもの(無味無臭)を食わされた身にもなれ」
「大福くらいでそんなに騒がなくていいじゃん、ケチ」
「そうでなくても寝覚めが悪かったっていうのに、こいつは……」
「人のパンツ見ておいてよくもそんなことが言えるわね」
「まだ気にしてたんかい! ていうかパンツ関係ないから! 夢の話だよ」
「どんな夢見たの?」
言えるわけがない。夢の中での自分は女の子で、さらにはいじめられていたなんて。
恐らく楓に知られたら、僕は女装願望のあるMっ気たっぷりの変態にされてしまうことだろう。
「秘密だ、秘密」
「秘密結社に拉致監禁されて、拷問を受ける夢? 実はドMの変態王子なの?」
「誰がそんなこと言った! ていうか変態王子ってなんだ、王子って」
とはいえ、ちょっと当たってるのが怖い。
「いや、単なる当てずっぽうだけど。……そういえば確かにちょっとうなされてたかも」
「マジで?! ていうか、それは単にお前がのしかかってたからじゃね?」
「別にそういうわけじゃないと思うけど。真くんが意識しなきゃ私なんて存在してないのと同じなんだろうし」
「知覚できないということは存在しないのと同じだという論法か。哲学だね」
「いや、そんな極端な話じゃなくて。だってさ、真くんが私を知覚できたとしても真くんが寝ている時は、脳だって寝てるんだから回線は閉じていて、普通の人と同じ状態の筈なんだよ、だから他の人にとってそうであるように、真くんにとっても私は存在しないのと同じになるわけ」
「僕がそうされていることを感じることが出来なければ、お前がのしかかってても、そうでなくても、そもそも意味がないと?」
「まぁつまりそういうことだよね、だから真くんが嫌な夢を見たというなら、それは真くん自身の問題だよ。夢っていうのは普段の記憶から作られるものらしいし、昨日出歩いている時に、変なモノでも見たんじゃないの?」
そういう記憶はないが……。僕が見た中で一番変なモノというと、楓その人であるわけだし。ん……、そうなるとやっぱりこいつのせいってことじゃね?
「うん、やっぱお前のせいだな」
「ちゃんと話聞いてた?」
「聞いて、理解した上でそう判断したんだが……」
「はいはい、どうせ私は変ですよ……、ていうかサトルくんに連絡しなくていいの?」
確かに、連絡は早いに越したことはなかった。もちろん、一度断った話だからこちらから持ち出すのは気が引けるのだが。かといって、雛鳥のように口を開けて待っているのは愚かしい。僕はかけてあるズボンのポケットに入ったままの携帯電話を取り出した。
「――お電話ありがとうございます、二宮酒造です」
「あ……、サトルか? 境谷ですけど」
「先輩? もしかしてバイトの件ですか?」
「あぁ……、あれから考えたんだけど、やっぱそっちの世話になっていいかな? 一回断っておいて、失礼なんだけどさ」
「いやいや、全然構わないっすよ! じゃあ、今日早速店まで来てください。詳細を説明しますんで!」
「今からでもいいか?」
「問題ないっすよ、今日は配達もないんで」
サトルの大きな明るい声を聞くと、こちらまでやる気になってくる。
あれで昔は悪かったんだから、人は変われば変わるものだな。
もっとも、変わらないままの馬鹿が一番多いのは事実なのだけれど。
「うわぁ、今日も暑いねぇ、いつまでこんな日が続くんだろ。超まぶしい」
「だったら、家にいてもいいんだぞ」
「えー、一緒にいるって言ったじゃんー」
「言ったのはお前だけどな、ていうか、なんで僕と一緒にいたいわけ?」
「だって、私のことを知覚できるのって真くんだけじゃん? 真くんがいないと、私は自分が本当に存在しているのかすらわからなくなるときがあるのよ」
「さらっとちょっと重いこと言ったな」
人は他者がいて初めて己の存在を認識できるとは言うが、その場合の他者とは、自分を認識し得る者に限られるのだろうか……。まぁ、少なくとも彼女にとってはそうなのだろうから、僕が考えることでもないか。
「つまりあれだな、依存系ってことだな」
「なんか、すっごい馬鹿にされた気がするんだけど」
「いや、結構需要あるみたいだぞ、依存系。僕は好かんが」
「さらっとちょと酷いこと言わなかった?」
「結構需要あるってところ?」
「僕は好きじゃないってところよ!」
「別に僕の好みとかどうでもよくね?」
「いや、それでも普通面と向かっては言わないでしょうよ……」
彼女は言う。自分の存在を見失いそうになるから、僕と共にいると。
いつもやたらと絡んでくるのは、僕しか相手をするものがいないから。
そういう寂しさを埋めようと、彼女なりに必死なのかもしれなかった。
「ほら、もう着くから話かけてくるなよ、相手は後でしてやるから」
「はいはい、私は行儀よくお酒でも飲んでます」
「頼むから勝手に店の酒飲むなよ!?」
「冗談だってば、マイケルジョウダンですよ真くん」
あ、それ今朝思いついたくだらない洒落と同じだよね。こいつと思考回路が被ってしまうとは、ちょっと情けないかも。
「寒いことこの上ないな」
「しっつれいねー、ちょっとした思いつきをそこまでけなされるとへこむわ」
「ちょっと思いついたことをそのまま口に出しちゃうお前が悪い」
「そこは天真爛漫でかわいいって言えないの?」
「ちょっと思いついたことをそのまま口に出しちゃうお前が悪いけどそこは天真爛漫でかわいい」
「腹立つわー、もういいわよ、アホ」
酒屋のドアを開けると、最高に涼しい風が僕を包んだ。
暑いのは好きじゃないが、こういう風に冷気が気持ちいいのは、現代の風物詩の一つなのかもしれないな。……さすがに風流だとは思わないけれど。
「いらっしゃいって、先輩でしたか。どうもどうも、わざわざ呼んですいません」
「いや、僕が雇ってもらうほうなんだから、そんな気を使わなくていいし、敬語でなくていいから……いいですから」
「先輩こそ、気を使わないでくださいよ、俺にとって、先輩はいつまで経っても先輩なんですから」
非常に有難いんだけど、そこまで懐かれることをした覚えはないんだけどな……。
まぁ、好意を持ってくれているのであれば悪い気はしないが。そもそも、僕はいつだって影の薄いキャラで通っていたのだから、こういう風に言ってくれる人は貴重なのだし。
「さっそくですけど、ちょっと上行きましょうか」
サトルに案内されて、僕は二階の家の部分へと進んだ。
「この間まで入院されてたって聞きましたけど、体力的には問題ないんですか?」
「すまん、実はまだちょっと体力が戻りきってない。一週間くらいあればハードな仕事でも出来ると思うが……やっぱダメかな」
「全然問題ないっすよ。ていうか俺の中で先輩を採用するのはもう決定してるんで」
「うわー、このハゲ、えらく真くんのこと好きなのねー、もしかして本当にホモなのかも」
坊主頭のことをハゲって言っちゃダメです。そんなの言うには小学生だけです。毛根めっちゃ元気そうだし。
「はげー、はげー。あっ! はげちゃびん!」
おいやめろ。わざわざはげちゃびんって言い直すな。その単語自体懐かしすぎるだろ。
「先輩、どうして吹き出しそうになってるんですか?」
「すまん、不可抗力だ」
「はぁ……、しっかりしてくださいよ? 体力はともかく、中身がおかしい人までは雇えませんからね?」
「本当にすまん」
くそ……、楓の奴あとで殺す。といっても、もう死んでるけど。
「で、わざわざ奥まで来てもらったのは……、実は仕事のことじゃないんですわ」
サトルは困ったように微笑む。
それは、彼が何か言いづらいことを口にするときのくせであることを僕は不思議と覚えていた。
「俺に姉貴がいたのって覚えてますよね?」
「あぁ、小中の時、僕と同級だった子だろ?」
一度も同じクラスにならなかったし、話をしたこともない筈だから、顔すら覚えていないが。
サトルと仲良くなったきっかけは、サトルの姉と僕が同級だったからだから、彼に姉がいることは忘れる筈がない。
「……あいつ、死んだんですよ」
「…………え?」
一瞬、言葉が出なかった。彼の表情から、何か良くない話題がされるのだろうと感じ取ってはいたが、さすがに予想外だった。楓も同じだったようで、それまでふざけて騒いでいた声も、今は静まっている。
「死んだって……、いつ?」
「俺が先輩と出会う、ちょっと前ですわ」
最近の話ではないみたいだ。高校でつるんでいた時には一度もその話題がされなかったのは、彼の中での心の整理がついていなかったからだろうか。
「そりゃ、お気の毒に……」
僕は、そういう当たり障りのないことしか言えない。悲しみというのはそれに陥った本人にしか理解することは出来ず、わかったような顔をして同情したり、変に励ましたりすることはおこがましいことだと、僕は知っていたから。
「こんな話急にしてすいません。でも、最近知ったんです……。どうも由香利のやつ……、先輩のこと好きだったみたいなんですよ、ずっと」
「そうなんだ……」
曖昧に返事することしか出来ない。
由香利というのが、彼の姉の名前なんだろう。記憶の片隅に、うっすらそういう名前があった。どうして死んだのか、それを尋ねることすら憚られて、僕はサトルが次に口を開くのを待つしかない。
「いきなりこんな話されて迷惑ですよね。気味悪く思われても仕方ないと思います。でも、先輩には言っておきたくて。由香利が、直接言うことはもう出来ないから」
近しい肉親の死。それが、どれだけ心に傷跡を残すのだろうか。僕にはそういう経験はない。気がつけば、一人。そう、いつだって一人だった。
親のぬくもりも知らない。施設を出て、周りがそうではない中、一人だけ働いて。でも始めから一人なのと、ある日突然孤独を感じることと、それは一体どちらが辛いのだろうか。自信を持っては言えないけれど、それはたぶん後者じゃないだろうかと思う。知らなければよかった幸せだって、世の中にはあるんじゃないか。それが、永遠に続くものでないのなら。もちろん、惨めな生活を望んでいるわけでも、一般的に見て幸せとされる暮らしを送る人を妬んでいるわけでもない。ただ……、目の前のサトルの顔が今にも泣き出しそうだったから……、そう感じたのかもしれない。
「うん……、別に悪い気はしないよ。ただ……」
「はい……」
「ただ、なんとなく申し訳ないような気分になるね」
「それは、どうしてですか?」
サトルは少し怪訝な顔をして僕を見る。
どうして、なのだろう。顔も知らない死者に好かれていたという事実、それはたぶん不気味というか、あまりいい気分にならないのが普通なのかもしれない。
でも、僕が今感じているのは、恐らく罪悪感。ヒーローを気取るつもりなんて決してない。僕は、自分の限界を知っている。他の何よりも自分自身に見切りをつけて、今まで暮らしてきたのだから。だけど、彼女の気持ちに応えられなかったことは、それはやはり罪なんじゃないだろうか。何故かそんなことを考えてしまう。
「うん、ごめん。上手く説明できないんだ。たぶん口にすると、僕ってすっごくナルシストみたくなっちゃうからさ」
「ナルシストっすか」
「いや、僕は僕自身をつまらないものだってちゃんとわかってるし、自分に自信なんてないんだけどね。おかしな話だよ」
「先輩はつまらなくなんかないっすよ。高校の時の俺を唯一わかってくれたのは、先輩だけなんですから。それに、つまらない奴を由香利が好きになる筈がない」
そう断定されても困るんだけどな……。
高校の頃のことを思い返してみる。
僕はバイトばかりしていて、授業中はずっと寝ていたり、放課後に入っている仕事のことばかり考えていた。休み時間もそんな感じ。何より僕が感じていたのは疎外感。
自分だけがしなければならない苦労。それ自体も辛くなかったといえば嘘になるが、何より僕を苦しめていたのは、自分が周りとは違うのだという事実だった。誰かより優れているという意味で感じる疎外感というのは経験したことがないからわからない。少し優れている程度なら、それは優越感という名の快楽にしかならないのだろうから。
とにかく、僕は人と違う状況に置かれているというコンプレックスが堪らなく嫌だった。
だから、ほとんど誰かと会話するということすらなかったのだけど、サトルだけは違った。といっても、それ程仲が良かったわけではない……と思う。何せ、彼が高校の頃は、とても近づきがたい外見だったわけだし。初めて出会ったとき、彼は何故か僕の名を知っていた。“バイトばかりやってて浮いてる奴がいるから、どんな奴か見に来た”とかなんとか言ってたが、今から思えば家で彼の姉が僕の話題をしていたので、どんな奴か見に来たというのが正解なのだろう。今時金髪リーゼントにしているような輩に絡まれて、僕はそのとき正直かなりびびっていた。だけど、話してみれば彼は外見のような人間ではないことがすぐにわかった。実際悪い噂というか、武勇伝は聞いていたので見かけ倒しというわけではないのだろうが、少なくとも理不尽に暴力を振るうような人間ではないことは確かだった。彼もどこか孤独を抱えていたのだろう。僕たちは、互いの傷を、それがどうして出来たものなのか確かめようともせず、認め合った。
人は、自らが孤独であることを、いつか知る。
それが遅いか、早いか。僕たちが、あの頃毎日を嘆いていたのは、それが普通の人より少しばかり早かっただけのこと。
ともかく、彼と話している時は、僕の劣等感はほんの少し薄まっていたように思うし、彼にとってはもっとそうだったのだろう。姉の死という悲しみを、平和な顔をして過ごしているような人たちではなくて、“いかにも苦労しています”という雰囲気を出している僕と共有しようとしていたのかもしれない。
思えばいつも、彼のほうから話しかけてきた。
「でもさ、僕と会った時には、既に由香利さんは亡くなってたんだよね?」
彼女と僕が同級ということはサトルから聞いていたが、まさか既に亡き人だったとは。
「はい……、でもあの頃の俺は、どうしてもそれを認めたくなくて。いつか、何気ない顔をして玄関のドアを開けてくれるって、本気でそう信じていたんですよ、幼い子供でもないのに。とにかく、由香利が死んだって、口にはしたくなかった。そうすることで、もう二度と会えない気がして。……まぁ、あいつが死んだ夜から、二度と会えないってことは決まってたんですけど」
「そうだったんだ……」
言うべきこと、慰めの言葉はもっとたくさんあるのに、それは声にならず、喉の奥まで出てきては消えていく。そういう重い空気に場が支配されていた。
正直、ごめんだった。軽い気持ちでバイトしようと思って出てきたら、これである。
不幸なんて、嫌いだ。それが自分のものでも、人のものでも、目をそむけてしまう。昔はそうでもなかったのかもしれない。
ただ、一度目をそらして逃げることを覚えてからは、ずっとその繰り返し。だから、僕は自分が嫌いなのだろう。
「あっ、ほんとすいませんね、こんな話しをしちゃって……。最近になってようやく由香利が死んだ事を認めることが出来るようになったんです。だけど、先輩に由香利の気持ちを伝えておきたいとも思って。矛盾してるような感じはするんですけどね」
「死んだ人間の、生前の感情に意味がないなんてことは、ないさ」
「そう言っていただけると有難いです……」
「でも、どうして彼女の気持ちを僕に?」
僕にとっては当然の疑問を問いかけただけなのだが、サトルは急にバツの悪そうな顔をした。それから、“ちょっと店を見てくる”と言ってその場を後にしてしまった。