プロローグ
0.
それはきっと偶然で、愉快なほどあっけなく、だからこそ僕たちは、どうしようもなく儚かったのだ。呼ぶ声は届かない。たとえ、どれだけこの手を伸ばしたとしても。僕たちはただ、愛されたかっただけなのかもしれない。
別に、誰でもよかったんだ。ただ、自分たちに価値があるのかを教えて欲しかった。
いつか僕たちは祈ることをやめ、繰り返し空想の中を駆け巡っていた。
1.
ここはどこだろう。身体が熱くて、うまく目を開けることさえ出来ない。薬品の匂いがやけに鼻についた。空気はどこか乾いているのに、白いシーツは嫌な汗でじっとり濡れていた。
僕はどうしてこんなところにいるのだろう。ぼうっとした頭でそんなことを考えているうちに思い出してしまう。つまり、僕は死ねなかったらしい。つまらないだけの日常から逃れる為だけに死ぬことを選んだ僕を消してしまう程、この世界は甘くなかったのだ。
自ら傷つけた胸の痛みに、それ以上考えるのが嫌になって僕はピッ、ピッと規則的に鳴る医療器具の電子音に意識を傾けることにした。
「――こんばんは」
ふいに聞き覚えのない少女の声が僕にかけられた。身体を起こすことが出来ない僕は、彼女のシルエットを拝むことすら叶わない。だけど艶がかったその声は“結構美人かもしれない”なんて暢気な想像を僕にさせていた。こんなときにそんなことを考える余裕があるのが、まるで夢の中のことのようだった。
「おかしいな、人の気配はなかったんだけど……、いつからそこにいたの?」
「たぶん、数時間前から。あなたが自分の胸を刺したときからずっと……」
「ちょっと良くない趣味だね。ていうか、普通自殺しようとしてる人がいたら止めない?」
「だって、私は普通じゃないもの。それとも、止めて欲しかったのにあんなことしたの?」
「そういうけど、君が救急車を呼んだから僕が今ここにいるわけだろ? ……どうして邪魔したの?」
「邪魔なんかしてないわ。私は見ていることしか出来なかったもの。救急車は別の人が呼んだよ。あなたが大声出したから」
さっきから胸がずくずくと痛む。意味もなく続いていく日常に嫌気が差して、家にあったフルーツナイフを持ち出した僕は、ゴミみたいな路地裏に向かい、そして――。
僕はあの、ナイフが胸に突き刺さる瞬間をなるべく思い出さないように努めたが、もし鏡が目の前にあったなら、きっと絵に描いたような青い顔が写っただろう。
「痛かったからね……。あれは理性とか感情で我慢出来るもんじゃないよ。そりゃ大声も出る」
「経験したことないからよくわかんないけど、そういうものなのね。まぁ、どうでもいいわ」
一呼吸おいて、彼女はどこかもの悲しそうな声で続けた。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「……何?」
「これは純粋な興味なのだけど、あなた、まだ死のうと思ってる?」
「正直に言ってわからないよ。まぁ、今すぐ死ぬ気力がないのは確かだけど」
「死ぬのに気力なんているの?」
「そりゃいるだろ。最初から死にたいやつなんて、いるわけないんだから」
どうしてこんなに自然に会話しているんだろう。僕は、彼女の名前すら知らないというのに。身体はいやに熱くて、とても話せる体力なんてない筈なのに。だけど、さすがにもう休みたい。まるで頭の中に大きな渦が巻いているようだった。結局僕は、それに飲み込まれるように一度もまともに目を開けないまま、意識を失った。
2.
――落ちていく。
心地よい浮遊感。
下はアスファルトで、障害物になるような木や車もない。あと数秒かそこらで身体は地面に叩きつけられて、僕にとっての世界は終わるのだろう。
だけどそれは、絶望じゃない。これでやっと解放される。死後の世界があるのかどうかなんて知らないし、今の僕にはどうでもよいことだった。
あぁ、でも、どうしてこんな時にあの歌を聴きたいなどと思ってしまったのだろう。
ねぇ、教えて欲しい。あの優しい歌は、誰の歌だっけ。
長い夢を見ていた気がする。
少しうるさいくらいの雀の声と、眩しい光が僕に朝を告げている。
若干床ずれしかけた背中を気にしつつ起き上がろうととすると、凝り固まった筋肉がぎしぎしと悲鳴を上げた。
「……っ痛!」
思わず小さくうめくと、丁度見回りに来ていたと思われる看護師が大げさな顔をしてこちらを見た。
走り去った彼女がすぐに医者を連れてきて、脳障害や身体機能障害の軽いチェックをされたのち、後日もっと精密な検査を受けることになった。ちなみに、病院に運ばれてから二週間も意識を失っていたらしい。ICU、HCUを経て、無意識状態のまま個室に運ばれた僕は、たとえ目覚めたとしてもかなりの確率でどこかに障害が残ると思われていた。実際、どこにも障害が残らなかったのは奇跡以外何者でもないらしい。
余談だが、ベッド脇のサイドテーブルによく知らない団体からの花がいくつか供えられていたのが、やたらに気持ち悪かった。ちなみに、僕が意識を取り戻した後、一度だけ見舞いに来ると、作ったような涙顔を浮かべては励ましてくれたけれど、それ以来は一度も見ていないし、もう二度と関わることもないだろう。
親とはとっくに死別しているし、これといって仲の良い友人もいなかったので個人的な感情で僕を訪ねる者はなく、静かだが寂しい日々が数日続いた後、僕は退院の前夜を迎えた。
それは、僕がこれまで暮らしてきた世界と何も変わらない、退屈で色のない日常の延長線。僕はまた、これまでと同じように、心をなくした安い歯車のように生きていくのだと思うと、たまらない気分になった。
今まであえてそうしないように努めてきたけれど、この夜だけはこれからのことを考えずにはいられない。勤め始めたばかりなのに一ヶ月も連絡なしに休んでしまったのだからバイトはクビになっているだろう。わずかな貯金も今回の医療費に消えるとなると。
(僕は、どうして生き返ったのだろう……、いっそあのままだったら)
そんなことを考えているうちに、僕は再び僕だけの、心の深い領域に閉じこもってしまう。情けなく膝をかかえながら。
どれくらい経ったのだろう。ふと、金属のようなものが高速振動するときのような甲高い音がしていることに気付いた。
(……え? この時間に工事?)
そんな筈はない。だってここは病院で、時計の針は深夜の二時過ぎを差しているんだから。
段々大きくなるその音に内心かなり怯えながらも、僕はゆっくりと顔を上げた。
一体いつからそこにいたのか、淡い月明かりを背に受けて、彼女はそこに立っていた。
不気味で、少し高圧的な感じがして、その視線から冷たい印象すら受けるのだけど、どこか寂しそうな表情がこちらの気を引く少女。
鳴り止まない金属音のさなかで、彼女は特別それを気にする様子もなく僕に話しかけてくる。
「――こんばんは」
「おかしいな、人の気配はなかったんだけど……、いつからそこにいたの?」
「たぶん数週間前からだと思う。あなたが自分の胸を刺したときからずっと……」
「ちょっと良くない趣味だね……、ていうか」
「何?」
「前に、同じ会話しなかったっけ?」
「どうかしら」
「あのさ、そもそも君、誰?」
「わからない。私、記憶がないもの」
彼女はそう短く言うと、話題をそらすように僕のベッドに腰かけた。長くて、色素の薄い髪の毛が頬のすぐ近くを流れて、僕はそれだけでドキっとさせられた。
「君、ここに入院してる子?」
「いいえ、ここにいるのは、あなたについて来たから」
「それって、おかしくない? 僕がここに運ばれてきたのって、もう一ヶ月も前だし」
「どうだって、いいじゃない」
そう言われると何故か、それ以上追求する気持ちがなくなってしまう。僕たちは、一晩中そんな中身のないやり取りばかり交わしていた。つまるところ、ほとんどまともな会話にならなかったのだ。
彼女は自分のことに関しては知らない、覚えていないと繰り返すだけだったし、僕は僕で、そんな彼女の様子を不思議と疑問には思わなかった。現実だとあり得ないようなことでも、夢の中なら自然に受け止めてしまうあの感覚が、その時の僕を包んでいた。
正直な話、僕はこの時点では自分は夢を見ているのだと思っていた。だから彼女と話し出してからはつんざくような音のことなどどうでもよくなっていたし、とりとめのない会話を延々と続けることに何の苦痛も感じなかった。もっとも、“あなたについて来た”という言葉の意味は、この日最後までわからなかったけれど。
今思えば、僕はこの時のこの異常を心底楽しんでいたのだと思う。将来に対する不安も、これまでの挫折も悲しみも、この時だけは確かに忘れられたのだから。
僕の学生時代は、一言で言うなら、灰色にくすんでいた。親がいなかった僕は、生きることに精一杯で、これといった特技も身に付けないまま、気が付けば時間だけが経っていた。
高校時代はバイトをいくつも掛け持ちし、どやされ、疎まれ。近所の人間からは優越感から生じるつまらない同情を貰い。
特に親しい友人も出来ず、身を焦がすような恋というものがどんなものかも知らないままの僕が覚えたことと言えば、無難な笑顔でエラい人の話に合わせることと、反感を買わないように立ちまわることだけ。
周りはそんな姿にうまく騙され、僕はどこにでもいる少年としてみなされ、暮らしてきた。
だが、どこにでもいる少年と一つ違うとすると、僕はどうしようもなく孤独だった。もっとも、それは僕がそう思い込んでいるだけで、同じように感じている人間はどこにでもいるのだろうけど、それでも他愛ない話で盛り上がっている連中を見ると、心中では羨ましく感じていたことは事実だ。
心が傷ついた日はたくさんあったのに、嘆いている暇すらなく慰めを誰かに求めてもアニメや漫画のような都合の良い励まし役などどこにもいなかったから、僕はただひたすらに耐えた。
“違う、これは本当の僕じゃない、こんなのは違う“と心の奥底で叫んでいる自分がいる。だけど、僕はそんな感情をずっとずっと、押し殺し続けた。
そういう無理を繰り返していたある日、ふと僕は、僕というものを諦めてしまったのだ。僕の中にもともとあった、情熱とかそういった何か大切なものが、いつの間にか綺麗さっぱりなくなっていた。きっかけは何だったのか、もうよくわからない。
気が付いた時にはもう手遅れなほど、僕は憔悴していた。毎晩のように傷ついた日の光景を夢に見てうなされ、次の日を陰鬱な気分で過ごさなければならなかった。
当然そんな状態でまともな生活が続くわけもなく、あれほど苦労して学費を貯めて入った大学を欠席過多で中退して以降は定職に就かず、アルバイトで生計を立てる日々が始まった。
そうして、こんな日がいつまで続くのだろうと薄暗い一人きりの天井を見上げていたあの夜、とうとう僕は死を選んだのだ。
一つだけ全ての人間に平等に与えられるものがあるとするなら、それは死だ。死は全てをゼロにする。楽しいこともなければ、代わりに悲しいこともない。未来もなくなれば、過去すら消えうせる。あくまでも、自分にとっては、だが。
僕のようなマイナスだらけの人間にとって、それはなんて甘い誘惑だっただろうか。
「……そろそろ朝ね」
お互い口数も少なくなった頃、丁度窓から朝日が射し始めたのを見た彼女が口を開く。
「今日で退院か、なんかあっという間だったな」
「ねぇ、これからどうするの?」
「わからないよ、とにかくバイトを探さないと」
「楽しいの? それ」
「楽しいわけないだろ。でも、しょうがないよ」
「じゃあさ、私、いてあげよっか?」
「……え?」
何をどういう意味で言っているのかわからなくて思わず聞き返すと、振り向いた彼女は少しだけ微笑んでいて、僕はふとそれを眩しいと思った。
それから彼女は何でもないことのように、だけど優しくゆっくりと言ったのだ。
「だからね、私、これからずっと見ててあげるよ、あなたのこと」
「……あのね、君と僕って、ほとんど初対面だよね?」
当然、そうツッコんだわけだけど。本当、どうしてだかわからないけど悪い気など全くせず、むしろ胸が静かに、だけど確かに高鳴っていくのを感じていた。たぶんそれは、そんな言葉をずっと誰かに言って欲しかったから。本当の所、それも嘘かもしれない。
だって、きっとこの時この瞬間、僕は彼女に恋をしてしまったのだから。
初めまして!
以前から幽霊少女ものをやりたくて、念願叶って書き上げたものを徐々に公開していくことにしました。
連載ペースはまだ決めていませんが、最後まで載せますので、どうぞよろしくお願いします。
(あとがき苦手だなー)