「竹取物語」を読んで
「竹取物語」の感想を、思いつくままに述べていきます。
5人の貴公子の言い訳の多さと不誠実さ。彼らははじめから実際に冒険に赴こうとはしないし、自分自身でかぐや姫から出された課題に真摯に取り組もうとする姿勢がまったく無い。確かにとんでもなく実現不可能な難題なのだが、彼らの不誠実さは、かぐや姫でなくても、お引き取り下さいという気になる。家来たちに褒美をエサに困難なことをやらせようとする他力本願。かぐや姫は初めから貴公子たちの求婚を相手にしてはいないのだが、彼らのその性根の悪さ、ズル賢さを完全拒否したのだ。
今回再読して、貴公子たち・人間どもの言い訳のひどさがとても目についた。
自分が持つ圧倒的な美に対し、自分の容貌は劣っていると卑下するかぐや姫。そもそも端から会いたくない相手への面会拒絶の理由付けの意味と意図が大きいのだが、「輝く姫」という名を持つ彼女は、自分の美をひけらかさない。ただこれは、存在自体が懸隔しているという、彼女の自負からだろう。そもそも人間どもと比べるまでもない、ということ。
かぐや姫が月の世界で犯した罪の内容が、とても気になった。地球への島流しの刑を受けた理由・罪名は何なのか。彼女は高貴な身分のようなのだが、その彼女が愚劣な人間世界に落とされるほどの罪の内容。
昔から、「貴種流離譚」という物語の型があり、竹取物語はまさにそれに当たる。高貴な身分の者が、何らかの罪により鄙に流されるというもので、そこで困難を経験し、許しが出て元に戻る時には、人間的に成長していることが多い。源氏物語の光源氏が須磨に自ら退去するのも、その例だ。
帝から迫られた時の上手で柔らかな拒絶の仕方がいい。帝の申し出を断ることは、命に関わることであり、それは物語中にも示される。かぐや姫は帝の手を振り払う代わりに、「きと影になりぬ」。ふっと光となって姿を消してしまうのだ。これ以上上手な拒否の仕方は無いだろう。誰も傷つけず、自分も傷つかない。
先ほど、「島流しのあと成長して戻る」と述べたが、かぐや姫は果たして成長したのかというと、わずかにそれが感じられる部分もある。彼女は基本的に地球と人間を蔑視していた。自分は、このような汚れた下賤な場所にたまたまいさせられている、と、感じていた。だから、自分を親身に育ててくれた翁と嫗は別として、さかんに言い寄る男どもには、その姿を見せようともしない。それは帝に対しても同じだった。
しかし貴公子と帝との交流により、彼女は少しだけ変化する。人間の心情への共感と、人間を思いやる気持ちが生まれてくる。
翁と嫗は無償の愛を捧げてくれた。帝も彼女の外面の美に惹かれる部分が大きいのだが、やはり真の愛を伝え続けた。このような人間の真心を、彼女は理解する・できるようになったのだ。
最終的にかぐや姫は、「天の羽衣」を身につけた瞬間、それまでの地球の記憶と人間的な暖かな感情から完全に切り離され、月へと向かう。その変わり身の早さと決然とも言える様は、ある意味見事だ。「変化の者」、「変化の人」と、他称され・自称するかぐや姫は、ここでまさに変化する。人間界とはまったく別の、特別な存在なのだということを人間に知らしめて、彼女は人間の手の届かない場所・世界へと去る。「天の羽衣」は彼女を月の世界の存在へとスイッチを切り換える働きをする。
ufoが出てきたり、3ヶ月で成人したり、光に姿を変えたりで、SFのような物語だ。日本の物語の元祖と紫式部にも認められている日本初の物語がSFというのが面白い。
空飛ぶ車が万博で話題だが、はるか昔にも、日本の空を飛ぶ車があったのだろうか。