第6話
第6話
ふと、甘い香りを嗅いだような気がした。
「もしかして、あなた」
いつの間にか、林道の先に、真っ赤な服を着た女が立っていた。
「話には聞いているわ」
甘い匂いが、強い。頭が、ガンガンと、する。
「ようこそ、そして」
考え、が、まと、まらな――
「さようなら」
眼の前に迫る蔓を、サギリは紙一重で回避する。頭が割れるように痛い。甘い匂いが思考にまで纏わりついてくるようだ。
「ヴィリディアンッ!」
しかし、それによってサギリの闘志が乱されることは無かった。
出現したベルトの左ポケットから取り出した赤い球体を、ベルト右端の孔にセットする。
「変身」
『Igni』
サギリの身体が炎を纏った姿へと転じる。それは戦士か、はたまた悪鬼羅刹の類か……
頭痛が引いていく。敵が発していたと思しき甘い匂いは、ヴァニタスに備わる防御機構、ネブラの兜内にまでは影響を及ぼさないようだ。
「それが虚無というわけですか。なるほど、言い知れぬ恐怖を感じますね」
相対する真紅のドレスを纏った女はわざとらしく身震いしながらそう言うと、ヴィリディアン本来の姿へと変わる。全身が蔓に覆われたような姿。両腕の赤黒い膨らみは、何らかの攻撃手段か。
「文字通り、送ってやろう。あんたらの言う、虚無へとね」
ヴァニタスと化したサギリが敵に迫る。猶予は与えない。敵の動きを観察するなど、余裕のある者のする事だ。厄介な動きをされる前に、有無を言わさず滅する。振りかぶった右拳は五指に炎を帯びている。顔面を掴み、焼却し尽くすつもりだ。
「お話も無しに、性急なこと」
迎え撃つ敵ヴィリディアンは、右腕の赤黒い膨張部をサギリに向ける。そこから、鋭い涙滴形状の弾が打ち出された。その弾速は、先日倒した相手の放ったものの比ではない!
「くっ」
左腕での防御を試みるが間に合わず、直撃を許してしまう。しかしそれでヴァニタスの勢いが削がれることは無い。顔面を狙うアイアンクロー!
「フッ!」
敵は左腕でこれを払い退けると、ヴァニタスの胴を蹴りつける。咄嗟に脚を上げて防御姿勢をとるサギリ。だが、予想以上に重い一撃は彼の身体を後方の樹まで吹き飛ばした。
「ガァッ!!」
倒れ伏すまいと脚に力を込めるサギリに、敵が近付く。
「ふふふ。私の香りがまだ効いているようですね。動きに精彩さが無い。伝説の存在はこんなもの、ということでしょうか?」
両腕を突き出す先程の射撃の構え。必要以上に近寄らず、仕留めるつもりだ。
「今度こそ、さようなら。噂ほどでは――」
「形態チェンジ」
『Glacies』
ヴァニタスの周囲を季節外れの冷気が吹き荒ぶ。起き上がろうと藻掻く素振りをしつつ、死角ではフォームチェンジの準備をしていたのだ!
「!」
すぐさま弾丸を放つ敵ヴィリディアン。しかし、それら弾丸はヴァニタスに届く前に減速し、有効打とならない。
「厄介な!」
射撃では不利と見たか、距離を詰めての肉弾戦を挑む敵ヴィリディアン。迎え撃つサギリ、しかし――
「先程よりも、更に動きにキレが無いようですねッ!」
『Glacies』の形態は、他と比べ防御力に勝るが動きに制限がかかる。インファイトは不得手だ。しかも大木を背にしており逃げ場が限定されている!
飛来する右フックを左腕でガード。すかさず左のアッパーが来る。辛うじて首を捻りこれを回避。息をつく暇も無く、再度右のボディーブローが……いやこれはフェイントだ! 咄嗟に下げたガードが蔓で固定され、無防備な頭部に頭突きが迫る! 何とか右手でこれを押し止めるが、ここまでの動きはすべて敵の掌中であり――
「最大、濃縮!」
周囲の景色が歪むほど、高濃度の何かがサギリの顔面を覆う!
◇峯曽邸
(菊池藻治、桃屋麻夫、そして……)
峯曽夾丞の自宅。
急遽、という形で手配した中級ヴィリディアンらを思い返していた。
(蘇芳美鈴)
私的な伝手を頼った一名。彼女はかつて、自分に師事していた。
ヴィリディアンの中には、生まれつき、毒の生成能力を有する者がいる。
人間社会に溶け込むに当たり、そうした者達の能力のコントロールは大きな課題であった。そこで、ヴィリディアンのコミュニティでは、同様の能力を持った適任者がその術を教えるのが通例となっていた。
こと毒の扱いにおいて、峯曽は正しく適任であったと言えよう。
蘇芳美鈴の発する香気は、一般的な意味合いでの毒とは異なる成分である。しかし、彼女の会得した制御能力を持ってすれば、それを毒性を持つまでに濃縮し、指向性を持たせて放つことができる。
(だが……)
夾丞は瞑目する。
(果たして、悪鬼にどれほど効果があるか……)
◇林道
「最大、濃縮!」
「!!!」
――世界が反転するような感覚。身体の一切に力が入らない。自身の実存すら希薄に感じられるような浮遊感。
サギリは、自分が昏倒しそうになっていることを自覚した。
今はまだ、倒れる訳にはいかない。
何の答えも得られていない。
だから、今はまだ!
サギリの意識を刈り取らんとする、眠気にも似た甘い誘惑に、全身全霊をもって抵抗する。
両脚に力を込める。自分が大地に立っていることを思い出せ!
両腕に力を込める。倒すべき敵の姿を思い出せ!
そして、今にも霧散しそうな思考を掻き集める。お前の、為すべき事を思い出せ!
失われかけたサギリの意識が浮上する。託された使命のため。架せられた運命のため。目の前の敵を討ち滅ぼすために。
この間、現実世界では一秒にも満たない刹那。しかし――
「良い夢を」
敵にとっては、それで十分。
ほんの一瞬、意識を失ったサギリ。その頭部と腹部には、敵の両の腕がそれぞれ押し付けられている。
(ま――)
避ける猶予は残されていない。
敵の両腕から発射された弾丸が、零距離で放たれる。背にした大木に叩きつけられ、衝撃が余すこと無くサギリを襲う。
(……)
敵ヴィリディアン、蘇芳美鈴は射撃の後、念の為距離を取って相手の様子を観察する。
(一瞬とは言え、私の毒が効いた……戦闘能力も大したことは無い。これが本当に、峯曽の仰っていたヴァニタスなの……?)
俯せに倒れたヴァニタスは動かない。
零距離での全弾斉射だ、無理もないとは思うが……とても峯曽の語ったような脅威度があるとは思えない。
(とどめを刺して報告……いえ、このまま縛って苗床にした方が、成果としてのインパクトも大きい。あの女の鼻も明かせるというもの)
瓜生薊。成り上がりの癖に上級だのと権威を振りかざす、嫌な女。あのセンセイを頤使するなどと、誰であっても許されない。考えるだけで虫酸が走る!!!
(この功績をもってあの女を追い落とす。そうすれば今度は……)
センセイが、自分に頭を垂れるのだ。
美鈴の顔に邪悪な笑みが浮かんだ。
周囲では、甘い香りがした。
◇???
(……)
また、この夢だ。
懐かしい、平穏な日々の記憶。
(えん……じゅ……)
幼馴染の少女が、こちらに手を振っている。その少し先には、少女よりも少し年上の少年が……
二人とも笑っている。この兄妹とは、いつも仲良く遊んでいた……
(『お前はもう弟みたいなもんだからさ!』)
(あ……づさ……にぃ)
(『もう本当に弟になっちまうか! なー、エンジュ?』)
(『もー! お兄ちゃん!!』)
優しさに包まれ、満ち足りた毎日。
場面が変わる。
少し成長した少女が、自分の隣を歩いている。
(「……」)
(『……』)
手を繋いで歩いた、学校からの帰り道。
もう、二度と戻っては来ない毎日。
また場面が変わる。
あの日。
エンジュ達の家。
旅行から帰った彼らに会いに行った、あの日。
屋敷の前には、仮面の悪鬼に腹を貫かれた恋人が――
「ァァァァァァアァァあぁァァァァァァァァァ嗚呼あああ!!!!!!!!!!」
蘇芳美鈴は、思わずヴァニタスを捕えていた蔓を切り離す。
直前まで何の反応も無く引き摺られていた悪鬼が、突然の咆哮と共に、1 mほど宙に浮かび上がったのだ。
空中で屹立したヴァニタスの周囲には、これまでとは比較にならないほどの冷気が立ち込める。縛っていた蔓が凍り、崩れ落ちた。
「ッ! それなら、もう一度お眠り!」
全弾斉射した弾倉の回復に不安はあるが、相手のダメージは深刻なはず。変貌の影響も定かではないが、近接戦闘に持ち込めばこちらに分がある。
「シッ!」
飛び上がりつつ右のスマッシュ。これを布石に格闘を組み立てる。ガードした左腕を巻き込みながら着地し、マウントポジションをとればそれで大方試合終了だ。
右スマッシュがヴァニタスに襲いかかる。ヴァニタスはこれを腕で防――がない!
「なにっ?!」
突如、空中に直径二十センチメートル程の氷の盾が出現。蘇芳美鈴の殴打はヴァニタスに届かない!
一瞬、空中で動きの留まった美鈴の首を、ヴァニタスの両手が掴む!
「あっ、ぐぅ」
凄まじい冷気が流れ込み、吐息すら凍りついていく。宙に吊り下げられた状態では、逃げることができない!
「……!」
薄れゆく意識の中、首を掴む腕に弾丸を接射! 拘束が解かれ、美鈴は地面に転がった。
「ゲホッ、ゲホッ、ガッ……」
堪らず咳き込む。空気が、二酸化炭素が足りない。苦しむ美鈴を尻目に、ヴァニタスは緩慢な動作で地に降り立った。
「……」
ヴァニタスはベルト左のポケットから赤く透明な球体を取り出す。
その表面にある亀裂は、髑髏を象った意匠だ。
「形態、連携」
『Glac-Igni』
赤い水晶髑髏を、ベルト左端の孔に嵌め込むと、ヴァニタスの左腕を渦状の炎が覆う。そしてそれは半身を焦がし――真紅の装甲となった。
氷と炎。相反する二つの脅威を備えた悪鬼羅刹が誕生した。
(見誤った! だが、引くわけには行かない!)
美鈴は迷いを振り払い、ヴァニタスに向かって突貫する。後悔など、後でいくらでもできる。今は目の前の敵を倒すことだけに集中するのだ。
「最大濃――」
「煩い」
ヴァニタスが左腕を振るうと、纏った炎が周囲の大気を舐める。放たれつつあった、美鈴の甘い毒はすべて焼き尽くされた。
「ぐっ、あぁぁ!」
美鈴はしかし止まらない。
センセイの教えに従い、叫びつつも、頭の一部は冷静さを保つ。警戒すべきは氷の盾による防御。これにフェイントをぶつけ、その隙に間を縫って本命を叩き込む。
「だぁあああ!」
まずは何度か見せている右。だがこれは陽動だ。ジャブ程度に留め、氷の盾の形成を誘発させる。間髪入れずに続く左フックが本命、と見せかけ、これも否だ。
二度の攻撃が止められた後、僅かに首を動かし頭突きを警戒させてからの膝蹴り。これが本命だ。
美鈴の右拳がヴァニタスの顔面を捉える。瞬時に氷の盾が形成……されない!
「?!」
美鈴の攻撃はそのままヴァニタスに吸い込まれ、そして抵抗なく空を切った。目の前に居るはずのヴァニタスの姿が、美鈴の拳に掻き回されたかのように歪む。
「こっちだ」
想像していなかった方向からの呼び掛けと、続け様の一撃に、美鈴は混乱しながら地面を転がった。
「ま、幻?」
――シュリーレン現象。密度の異なる暖気と冷気。これにより発生する光の屈折で、遠景がゆらめいたりそこに存在しないものが見えたりすることがある。ヴァニタスの氷と炎を操る能力が、局所的な蜃気楼を生んだのだ!
「じゃあ、今度こそさようなら」
「!」
ヴァニタスの周囲に幾つもの氷の盾が形成される。いや、盾では無い。先端の鋭い、投擲用の刃だ!
それぞれの刃の後方に燃え盛る炎が灯ると、それらが一斉に打ち出された!
「ああああああああああああ!!!」
氷の刃に刻まれた凍傷が炎に焼かれ爛れる。全身を襲うその蹂躙は、蘇芳美鈴が息絶えるまで続いた。
変身を解除したサギリはその場に座り込んだ。
新たに得た力、氷と炎の連携、『Glac-Igni』で敵を倒すことには成功した。だが、負ったダメージが回復した訳では無い。しばしの休息が必要だ。
(……)
……恐るべき敵だった。
おそらくは、”中級”ヴィリディアン。
先日倒した下級との戦闘能力の差は歴然だ。
(そう言えば、僕に止めを刺さず、どこかに運ぼうとしていたか)
先程の敵の動きを思い出す。
行く先は、敵の本拠地か、あるいは――
「……」
やる事が、まだ、残っている。
林道の奥。
匂いによる感覚の混乱が無くなったこともあり、敵の隠れ家を見つけ出すことができた。
それは林の中の、小高い丘の麓に位置する洞窟。
心臓が早鐘を打つ。
万が一、という事がある。
だから、中を確認しなくてはならない。
脂汗が吹き出す。
洞窟の入り口に近付き、その壁に手を掛ける。
掛けた手を支えにし、中を覗く。
独特の臭いに、顔を顰めそうになる。
洞窟内部は入り口の狭さに比してそれなりに広かった。
その、中央、に――
サギリは、目の前が赤く染まったように錯覚した。
怒り。憎悪。悲憤。苦悶。
綯い交ぜになった激情に囚われそうになる。
(!!!!!!!!!!)
サギリの左手が、震える右手を押し止める。
感情に飲まれたなら、どんなに楽だろうか。
しかし、それが許されることは無い。
耐えなければ。少なくとも、今は。
息を整える。
右手の震えは収まっている。もう、大丈夫だ。
サギリの左手が、抑えていた右手を放し、左のポケットから赤い球体を取り出す。
「……変身」
『Igni』
そして、洞窟内は焼却された。
第6話 「氷と炎」
次回―――
(これは! チップス!)
「「あらあらまあまあ」」
「ナツキちゃんそれは違う」
(蘇芳君……)
「お姉さんと付き合ってるのかなって」
「デザート変更って――」
「少々お待ちください!」
第7話 「古書喫茶、再開」