第9話
第9話
◇古書喫茶『ClamPon』
その日の古書喫茶は、定休日らしからぬ慌ただしい雰囲気に包まれていた。
「お姉ちゃん、使っていい食材ってこれでぜんぶ?」
「うん、お店の分は避けてあるから」
今日は、ナツキの小学校の友人達が遊びに来るらしい。折角なのでナナに料理も教わり、昼食を皆で囲むのだとか。
「……僕、外してましょうか?」
子供達の会合に、面識の無い大人が同席するのはお互いに気まずいのではないか。それに、子供の相手はあまり得意ではない。……大人の相手も、別に得意というわけでは無いのだが。
「えっ、いいよ気なんか使わなくても! ナツキの友達、良い子ばかりだから!」
「そーそー」
「……じゃあ、適当に隅で本でも読んでます」
幸い、店内には読みきれない程の本が所蔵されている。壁の風景になって嵐をやり過ごそう。
十数分ほどして――
「「「「おじゃましまーす!」」」」
「……おじゃま、します」
男子ニ名、女子三名。嵐がやって来た。
「あれ、ナナ姉ぇこの人誰?」
「コラ、お客さんでしょっ」
「今日定休日のはずだろ?」
「ねぇちょっとカッコよくない?」
「……」
「親戚のサギリお兄さん。いろいろあって、今うちでバイトしてるんだ」
風景に溶け込む作戦はうまく行かなかった。子供達に目ざとく発見されたサギリは、質問攻めにあっている所をナツキに助けられた。
「親戚? 従兄弟とか?」
「何歳ですか!」
「ナナ姉ぇとは付き合ってるんですか?!」
「えっ、ここに住んでるのか?!」
「は、はは……」
いや、助け舟は沈没したようだ。留まるところを知らない子供の好奇心がサギリを襲う!
「ほらほら、お兄さん困ってるでしょ。それに、そろそろ準備始めないと、お昼の時間に間に合わないよー?」
そこに、新たな船が通りかかる。さっきのボートよりも安心感のある客船。しかもレストラン付きだ。
……ボート。先日の戦いは、サギリの心に影を落としていた。
敵が待ち受けていたという事実。その敵のうち一体を取り逃したという事実。それに――
(気さくなおじさんだった……)
ボート上での会話。あれはすべて演技だったのだろうか。あるいは、あれこそが本来の――いや、惑わされるな。敵はこちらの好感を得る術に長けている。自分を、ヴァニタスを騙すための演技だったのだと、そう納得しなければならない。そうでなければ、自分は……
「俺野菜切る!」
「まず手を洗いなさいよね」
「……ナナお姉さん、これ……」
「ヒマリちゃんありがとう! ヒマリママにも、後でお礼言わなくちゃね」
サギリの懊悩などお構いなしに、幼い怪物達は煩く騒いでいる。だが、今はこの喧騒が心地よい。余計なことを考えずに済むから――
「ナナ姉、今日は何教えてくれるのー?」
「今日はみんな大好き、カレーでーす!」
「やった!」
「カレーかぁ、なんかフツーだな」
「文句言うならレオウくんのぶんは無しね」
「文句言ったわけじゃねーよ!」
どうやら今日の昼はカレーのようだ。奥の深い、それでいて手軽に作れ、子供にも人気のメニュー。こういった場には実に相応しい。
「カレーですか」
サギリはおもむろに椅子から立ち上がった。
「カレーには少しうるさいですよ」
「には? にもでしょ」
「ナツキ、お前の親戚、なんか変なヤツだな」
子供達はナナの指導のもと、昼食の準備を和気藹々と進めていた。
「まずは下拵えからだねー!」
「ナナ姉ぇオレ知ってるぜ、玉ねぎがあめいろになるまで炒めるんだろ!」
「それすっっごく時間がかかるんじゃないっけ」
「えー。じゃあお前玉ねぎ当番なー」
「なんでだよぉ」
飴色玉ねぎ! 美味しいカレーには欠かせないアイテムだが、いざ作るとなると中々面倒な一品だ。長時間、火加減にも注意を払わなければならないので、子供達には少々難しいだろう。ただし――
「飴色玉ねぎなんて、みんな良く知ってるね。ふつうに作ろうとするとちょこっと大変なんだけど……今日は裏技を紹介しちゃいましょう!」
「お! 待ってました!」
そう。飴色玉ねぎには時短テクニックが存在するのだ!!
子供達の期待の眼差しを受けながら、ナナは勿体振りつつ冷凍庫からチャック付きのフリーザーバッグを取り出した。
「じゃーん! これは昨日の内に一ミリくらいの薄さにスライスして、冷凍しておいたものです!」
「わたしも手伝ったんだからねー」
「冷凍したら冷たくなっちゃうじゃん。よけーに時間かかるんじゃねーの?」
「それがね、こうすると玉ねぎの水分が出ていきやすくなって、いつもより早く飴色になるんだよ」
玉ねぎが飴色になるためには、玉ねぎ自身の持つ水分を飛ばす必要がある。水分は細胞壁内に閉じ込められているので……凍結によりその体積を増加させ、細胞壁を内側から破壊させることが有効となる。
切り方にも工夫が見て取れる。一般的に、飴色玉ねぎを作る際にはみじん切りにすることが多い。だがスライスならば、より簡単に、より薄く仕上げることが出来る。みじん切りよりは催涙作用のあるsyn-プロパンチアール-S-オキシドの発生が抑えられて目も痛くなりづらいので、小学生にはこちらの方が適している。よく見ると、繊維と垂直方向に包丁が入っている。これも時短の助けになるだろう。
「冷凍かー。けっこー手間だな」
「電子レンジでチンしてもOKだよ。どうしても時間が無い時は、フライドオニオンを使うのもありかな?」
「さっすがナナ姉、頼りになるー!」
確かに、電子レンジも有効と聞く。突発的にカレーが食べたくなった場合には検討の余地有りだ。
「レオウくんさっきから文句ばっかり。美味しいもの食べたかったら、手間暇惜しんじゃダメなんだから」
(ナツキちゃん流石だ、良い事を言う)
サギリは腕組みをしながら頷いた。無論、手早く簡単に美味しい料理を作ることも大事だ。だが、面倒な工程を省略せず、丁寧に作ればそれに応えてくれるのが料理なのだ。
「裏技を使うとは言え飴色玉ねぎは結構難しいからね。ナツキと……あともう一人くらい、お手伝いに付いたほうがいいかも」
「あ、じゃあ俺が――」
「ヒマリちゃん一緒にやろー!」
「う、うん……」
少年が何か言いかけたように見えたが、ナツキはそれに気付かなかったようだ。あの少年、確かレオ君とか呼ばれていたが……
(どう書くんだ?)
「玉ねぎ組は決まりね。あとは、お野菜を切る人と……あ、そうだ。同時にお肉も炒めてもらっちゃおうかな」
「肉! ナナ姉ぇオレ肉焼きたい!!」
「よーし、じゃあお肉はタカヒロ君と、レオ君にお任せしようかな。責任重大だよー?」
「やった!」
「それはいいけどさー。ナナ姉、何度も言ってるけど俺の名前、レオウだからな」
(…………どう書くんだ?)
「さー、今日のお肉は~」
「牛か?!」
カレーの肉に何を使うか――。これは人類の永遠の命題でもある。
曰く、牛こそ至高。
曰く、豚こそジャパニーズカレーの真の姿。
曰く、神聖な獣や不浄な獣など以ての外。機内食でもチキンプリーズ。
宗派の対立は時に血で血を洗う争いにまで発展するとかしないとか。
「鶏と豚でーす!」
「「とりとぶたぁー?!」」
(なるほど!)
各家庭の経済状況に差がある事を考えれば、牛肉という安易な選択は禍根を残す恐れがある。全員が満足する気配り。お節介かも知れないが、とても重要なことだ。
「ニ種類も入っていて豪華でしょー? それに、鶏は手羽元を使うから良いお出汁が出るんだよ」
「てばもと?」
「知ってる! 水炊きに使うやつだ!」
(手羽元で出汁を! 水炊きは手羽先やガラを使うことのほうが多いが、カレーの具と考えたらなるほど手羽元のほうがボリューミーで適している。それに、比較的安価で手に入りやすい手羽元でコストダウンを図りつつ、ニ種類の肉を用いることでリッチ感が生まれている)
「まずは手羽元を、焼き色が付くまで炒めてもらおうかな」
「はーい」
「肉汁を閉じ込めるためにしっかり焼くんだよね?」
「ナツキちゃんそれは違う。肉の表面を焼く事で肉汁や旨味を閉じ込めるというのは実は誤解なんだ。確かに、焼灼止血のイメージがあるから、焼いた面から肉汁が出ないと感じるかもしれない。だけど、タンパク質の熱凝固は水分の放出と不可分と言っていい現象だからね、焼く事では旨味を閉じ込めることはできないんだよ。現に、焼いている時にジュージュー音がするだろう? あれは水の蒸発する音、つまり肉汁が漏出している証さ。肉汁を出来るだけ逃したくない場合は、低温調理が効果的だね。ただし、肉を焼く事は肉汁の損失を補って余りある効果があるんだ。ほら、焼いた肉は美味しそうに変色して良い香りがするよね? あれはメイラード反応と言って、肉の細胞に含まれる化合物のアミノ基とカルボニル基が反応して起きる現象なんだ。つまり、あの食欲を掻き立てる香りは肉汁を犠牲にしないと手に入らないのさ。あ、カレーに入れたら折角香ばしく焼いてもふやけちゃうんじゃないかって思ったよね? 確かにカリッとした食感は失われてしまうけど、メイラード反応によって発生した香りと旨味成分はちゃんとスープに溶け込んでいるから問題ないよ」
「ひっ……」
「しょーしゃく?」
「なあナツキ、お前の親戚、変なヤツだな」
「……」
「そろそろかんせーだな」
「あ、忘れてた! 最後にコレを入れて……」
店内がカレー特有の良い匂いに満たされ、腹を空かせた子供達が待ち切れなさを隠せずソワソワし始めた頃、ナナがカレー鍋に小瓶に入った何かを投入した。黒く、粘性の高い液体を、ほんの少量。
「ナナ姉それなに?」
「これはねー、カレーが美味しくなる魔法の隠し味だよ」
そう言ったナナの手から、レオウが液体を掬ったスプーンを奪い取る。
「あっ――」
「隠し味いっただきぃ!」
そうしてソレを口に含んだレオウだったが、次の瞬間には顔を歪め、そのまま流しで口をゆすぎ始めた。
「まっっっずっ!!! ナナ姉なんてもん入れてんだよっ! ……まだ口の中が苦ぇ」
「ガストリックはそのまま食べるものじゃないよ……」
「よくをかくからそういう目に合うんでしょ。これにこりたら、つまみ食いなんてみっともないまね、卒業したら?」
レオウは不満そうな表情のまま、しかし自分が悪い事は自覚しているのか、特に言い返せず水をがぶ飲みするのだった。
「ほう、ガストリックですか」
「もういただきますするから、あとにして」
ナツキの友人を招いての食事会は成功に終わった。サギリもご相伴に預かったが、供されたカレーライスは小学生が作ったとは思えない美味しさだった。
最初こそ小学生の有り余るパワーに圧倒されていたサギリだったが、時間とともに打ち解けることができた、と思う。
「ヒマリちゃんにはずっと避けられてたけどねー」
確かに、ナツキの一番の親友だと言う子にだけは、なぜか距離を置かれることが多かった。……まあ、難しい年頃だから仕方が無い。
「ともかく、ナツキちゃんに友達が沢山居て安心したよ。学校楽しい?」
「何目線なの? ……まあ、学校は楽しいよ。二学期はじまるの、待ち遠しいし」
「それは何より」
友人は大切だ。サギリの故郷は限界集落で、同年代の子供など数えるほどしか居なかった。あの兄妹が転校してくるまでは……
(……)
眩しい思い出は常に、暗澹とした記憶と対だ。世間一般では時間が解決してくれるなどと言われるが、今の所そのような兆しはない。
「……腹ごなしに、散歩にでも出かけてきます」
沈んだ気持ちを払拭するには、経験上、心を無にして過ごすのが一番だ。借りているスクーターで風を浴びれば、少しは気が晴れるかも知れない。そう思っていたのだが――
「あ、それなら一緒に買い出しに行かない?」
◇???
桃屋麻夫は、組織の調整役たる峯曽から直々に手渡された資料を読んでいた。そこには、種の大敵とされる存在に関する情報が書き連ねられている。数日前に送られてきたものと大きく異なるのは、隠し撮りされたと思われる青年、サギリの顔写真が追加されている点だ。
(まだ若い。それに、どこにでも居そうにも見える)
桃屋は市内にある小さな銀行の支店長であり、己の果たすべき役割を十分こなしてきたと自負している。それは、愚かな人類――取り分け、老い先短い年金生活者に信託報酬の高いファンドを勧めたり、あるいは人間の行員に高い営業ノルマを課して自爆させるといった内容だ。一つ一つから得られる利益は小さいが、こうした積み重ねが組織の重要な資金源になっているのだ。とは言え最近は、中級ヴィリディアンに昇格したからにはもう少し大きな仕事に取り組みたいと、そう思うようにもなっていた。
その桃屋に、千載一遇の好機が訪れた。
自身の持つ能力を存分に振るいたい。金貸しなどと見下す連中に一泡吹かせたい。それに、藤というそれなりに有能な行員を潰された恨みもある。ゆえに桃屋は、二つ返事で峯曽の依頼を快諾したのだった。
(敵の拠点も判明している。とは言え――)
そこに迂闊に突入するほど、桃屋は愚かではない。自身に最も有利となる狩り場に誘い出すことができれば、それが理想だ。だが、どうすればその要求を満たすことができるのか。桃屋は悩むが、有効と判断できる答えは一向に出ない。
(……気分転換に、散歩でもするか)
行き先は決めてある。資料にあった拠点は、駅からそこそこ近かった。もしかしたら、ばったり遭遇する可能性も、無いわけではないのだ。
◇駅前通り
駅前通りは、閑静な古書喫茶周辺とは趣を異にしていた。
それなりの大きさの駅ビルには、飲食店や家電量販店などが軒を連ねている。かと言って雑然とした印象は受けない。緑化政策の賜物か、ちょっとした公園のような空間が広がっており、クレープやケバブなどの移動販売車も出ているようだ。
「いやーすごい都会って感じですねー」
「そう? あ、商店街の八百屋さんは、たまに珍しいお野菜を入荷してくれるから、後で寄るね」
古書喫茶で出す料理に使う食材は、卸売業者や個別に契約している農家さんから仕入れているらしい。その農家と言うのは、すべて姉妹の祖母の伝手なのだとか。ともあれ、商店街で購入する野菜は伊佐戸家で消費するためのものであり、珍しい野菜もナナの研究と興味のために購入しているらしい。
「サギリお兄さんって、都会の方行ったことないの?」
「うーん、そうだね。あんまり」
「へぇー。ふぅーん。……じゃー帰ったら、ひぞーのぺですとりあんでっきの写真集、見せてあげる! きっと驚くよ!」
「ぺで……え何それ?」
サギリは何だかよくわからないマウントをとられ、何だかよくわからないものの写真を見せられることになった。ナツキと違い、特に都会に憧れているわけではないのだが。
――その時だった。
「これを」
「――!」
耳元で声がした。
突然のことに思わず飛び退る。そちらを確認すると、スーツ姿の男が立っていた。オールバックに角張った眼鏡。その表情はにこやかだ。
「お受け取り下さい」
男の手にはポケットティッシュが握られており、それがサギリに向けて差し出されている。
「えっ……」
「どうぞ」
混乱するも、何となく受け取らないといけない気がしたサギリは、男からそれを受け取る。サギリは、ポケットティッシュと共に白くて厚みのある紙を渡された事に気付いた。名刺のように見えるそれには、何も書かれていない。白紙だ。
「えっと、これ……」
「裏面を」
(裏面?)
言われるがまま名刺を裏返そうとするサギリ。
それを待たず、身を翻すスーツ姿の男。
裏返る名刺。
そこに書かれた内容に、サギリは目を見張る。すぐさま顔を上げるが、男は既に走り去りつつある。
「先に帰ってて!」
言うや否や、男の背中を追いかける。
「え! ちょっと――」
ナナは声を掛けるが、走り出したサギリには届かない。
まさに突然の出来事だった。男が声を掛けてきたかと思えば、サギリにポケットティッシュを渡し、かと思えば次の瞬間には走り去って――
「何だったの……」
サギリが落としていったティッシュを拾おうと屈んだナナは、同じ場所に落ちていた紙に書かれた文字を目にした。
そこには、はっきりと『お前の正体を知っている』と書かれていた。
◇公園
逃げる男。追うサギリ。
どこまで逃げるのか、辺りは次第に人気の無い地域になっている。
(こちらにとっても好都合だが――)
追走劇は、男が急に止まったことで幕を降ろした。寂れた公園。遊具の多くが撤去されている。
「どうも、はじめまして。それでは、あなたが本当にあの――」
「御託はいい。ヴィリディアンはすべて滅ぼす」
サギリの腰に、ベルトが出現する。
「性急な方だ。まあいいでしょう。伝説に謳われるその力、見せてもらいます。私的な恨みもありますしね。藤君が抜けた穴を埋めるのは、些か大変でした」
サギリはベルト左端のポケットから取り出した赤い水晶髑髏を右端の孔にセットした。
「変身」
『Igni』
「ハハッ……!」
対するスーツ姿の男の体にも変化が生じる。全身を茶色の枝が覆い、茶と緑の入り混じった怪物が現れる。
巻き起こる炎の嵐が収束し、ヴァニタス 炎の形態が現れる。
赤黒い異形と、茶緑色の異形。
始まるかに思えた両者の激突。しかし、それはこの時、起こらなかった。
〈ブゥゥーーーーーーン〉
バイクのエンジン音が近付いてくる。
一般人に姿を目撃されることは、両者にとって都合の良いことでは無かった。ゆえに近付くバイクに対し、互いがどう動くか無言の牽制があり、しかしそのわずかな時間で件のバイクが辿り着いてしまったのだった。
「「??!!」」
そして両者は同様に驚愕する。
バイクに跨るは漆黒の異容。それも、ヴァニタスと似た――
「ヴァニタスが、二人?! ど、どういうことだ!!」
激しく混乱する敵ヴィリディアン。だが無理もない。サギリ自身、驚愕の余り頭が真っ白になっていたのだから。
(ヴァニタスが、二人……そんなはず、そんな……!)
ヴィリディアンの放った言葉を頭の中で繰り返す。そんなことあり得るはずがない。理性ではそう理解っているが、相反する眼の前の現実が、サギリを混乱させる。
混沌を極めた場において、漆黒のヴァニタスは静かにバイクから降り、ヴィリディアンに向き直る。
「ヴィリディアンはすべて滅ぼす」
「「!!」」
男の声。そしてこの存在は、ヴィリディアンを知っている!
「ふ、ふざけるな! まずは貴様から――」
「煩い」
激昂するヴィリディアンに、冷徹な声が向けられる。
「来い」
そして手招き。明らかな挑発だ。
「ぐっ……おのれぇえええ!!」
敵ヴィリディアンが走り出す! 助走により勢いをつけ、右腕を振りかぶり殴打の予備動作。
対する黒いヴァニタスは動かず、その場で右半身を前に出した半身の姿勢。両腕は自然に曲げ、右腕は水月の、左腕は腰の高さに構えた。
その後に起きた出来事は、サギリの想定を遥かに超えていた。
迫りくるヴィリディアンが、その右腕を突き出す直前。黒いヴァニタスは不意にヴィリディアンに向かって踏み込み、右手で敵の右腕を内側から掌打。その勢いを利用し、懐内で回転しながら、敵の左腕を掴む。殴りかかられていたのは黒いヴァニタスの方であったのだが、刹那の間に攻守は逆転、今や敵は後ろ手を捻り上げられ拘束されている!
「がぁあああ! やめろ、離せっ!!」
「……骨格は、人類と似通っているらしいな? つまり――」
そう呟いた黒いヴァニタスは、敵の左上腕を左手で、前腕を右手で掴み直すと、肘関節の屈曲方向と逆に――
「フンッ」
「――――――あ」
骨の折れる、嫌な音が公園に響いた。
「ああぁぁぁあああぁうでが、うでがあああ!!!!!」
間を置いての絶叫。拘束を解かれたヴィリディアンは激痛に耐えられずうつ伏せに倒れ込む。その衝撃が左腕に響き、また激痛が走る。痛みに悶え、悶えることでまた痛む最悪の循環。それは、理性を取り戻し痛みと向き合えた事で次第に収まっていく。ただし、左腕に障るため無闇に動くことも叫ぶこともできないため――歯を食いしばって耐えるしかない。気を紛らわせるためか、吐息は荒く、右手は地面を幾度も引っ掻き、両脚もモゾモゾと蠢いている。
そんな憐れな怪物に、黒い悪魔が追い討ちをかける。
「気味が悪いな」
言いながら、黒いヴァニタスはヴィリディアンの右足関節を掴み、持ち上げる。逆の手で膝関節を掴むと――
「なにを、やめ、やめ――」
「フッ」
バットを折るが如く。ヴィリディアンの脛は、黒いヴァニタスの膝によって粉砕された。再び、嫌な音が公園に響く。
「――――――――――ッッッッッ」
声にならない悲鳴が漏れ出る。
最早、悶えることすら許されない。顔を地面に擦り付け、何とか痛みを散らそうとするヴィリディアン。静寂の中、その場に流れるのは荒い息使いと砂を掻く音のみ。
瀕死の怪物に、再び悪魔が迫る。
倒れ伏す背中を右脚で踏み付けた黒いヴァニタスは、両手で敵の頭部を把持。
「や、め――」
そして、頭部を捻じりながら持ち上げる。海老反りになりかけた上体を押さえるため、背中に乗せた足に体重をかけ、這い蹲った姿勢を維持させる。結果、ヴィリディアンの首からは、古い家が軋むような音が響く。
「ごっごがっ、がっがががががが――」
「想定より強度があるな……出力上昇、10%だ」
『装着者 ノ 関節可動域 ヲ 3% 程 逸脱スル 恐レ ガ アルタメ 推奨 デキマセン』
「構わない。Admin権限で許可」
『Copy 出力上昇 10%』
黒いヴァニタスが、何者かと短い会話を交わす。機械音声? 細部をよく見ると、黒いヴァニタスの装甲は金属質のパーツが多く使用されている。まさか、人間の手で作ったものなのか?!
混乱するサギリを一顧だにせず、黒いヴァニタスはヴィリディアンの首を捩じる両腕に力を込める。
「がああああああああああああああ」
「終わりだ」
ヴィリディアンの頭部を持ったまま、黒いヴァニタスが両腕を高く掲げる。引き千切られた頭部と体から、緑色の液体が辺りに飛び散る。
こうして敵ヴィリディアンは、地獄のような苦痛の末、その生涯に幕を降ろした。
「もう少しサンプルが要るな……腕でいいか」
惨劇は終わりでは無かった。
黒いヴァニタスは背中を踏み付けたまま、今度はヴィリディアンの折れていない右腕を掴む。そして、先程と同様の手順で引っこ抜いた。
「こんなところか」
「どうして――」
サギリは思わず声をかける。どうしてそんなことを。いや、本当に聞きたいことはそんなことではないはずだ。一体何者なんだ? 何が目的だ? その鎧は?
「……」
黒いヴァニタスが赤いヴァニタスに向き直る。その仮面は返り血のごとき緑の液体に濡れている。両手にはヴィリディアンの頭部と片腕。
「お前もヴィリディアンか? いや――」
黒いヴァニタスが、こちらを伺う素振りを見せる。仮面越しに表情は読めない。
「お前がヴァニタスか」
「……そういう、君は」
表情? 果たして鎧の中に居るのは人間なのか? いや、そもそも中身が存在しない可能性がある。そう、ヴァニタスのように――
「そうであるなら、目的は同じだ。こちらに敵対する意思は無い」
「……」
黒いヴァニタスは身を翻す。敵意は感じられない。最初の宣言通り、ヴィリディアンを滅ぼすという目的は、恐らく本当なのだろう。
「俺の邪魔さえしなければ、な」
「……」
そして、乗ってきた大型バイク後部の収納スペースにヴィリディアン頭部と腕を仕舞い、その場を去るのだった。
第9話 「戦士、二人」
次回―――
(ピアディーナ!)
「タカさん、いい加減、機嫌直して下さいよ」
「目的地? いや、終着点だ。なあ、兄者?」
「あ! そーだ。せっかくだし、サギリお兄さん作ってよ」
(あの鎧に仮面……ヴァニタスに似ていたが、確かに人工物のような質感だった)
「………………ヴァルゴ」
第10話 「その名はヴァルゴ」