信頼と信用。
「アジィルがね、そろそろ君を殺したいみたいだねぇ。時期的にも丁度いい気がするし、始末しようか〜」
二人きりの寝室でそう告げられたゾゥラは、あっさりとそう口にするシドの顔を、ジッと見つめた。
いつも通りの笑顔で、いつも通りの態度。
ーーーそう、いつも通り……。
髪に、頬に触れる指先の温かさも。
乱れることのない柔らかい口調も。
そして、笑みの形をしているのは口元だけで、瞳の奥に浮かんでいる冷酷な色も。
全て、いつも通りだった。
ゾゥラが、シドの心からの笑みを見たのは、たった一度きり。
どれだけ楽しそうにしていても、罵倒や当て擦りを受けても変わらない彼は、その身の内に、常に危うさを湛えていた。
「始末、ですか?」
「うん。アレは油断してるからさ〜。《女神の加護》を眼前にぶら下げてあげれば、喜んでついてくるだろうねぇ。……それが罠とも知らずに、ねぇ?」
あはは、と笑うシドの本心がどこにあるのか、ゾゥラには分からなかった。
ーーー罠に掛かるのは……『誰』なのです?
口に出すことが出来ない問いを、心の中だけで呟く。
愛している、という囁きも。
僕はダメだねぇ、という自嘲も。
今、こうして口にしている『策略』も。
その全てが、彼にとってはどうでもいいことなのではないか、と、ゾゥラは思っていた。
全て、ただの気まぐれで。
何を口にしていても、次の瞬間には『気が変わった』と撤回するような享楽に身をやつしているような、シドは、そんな人だった。
でもそんな彼に……ゾゥラは、惹かれたのだ。
『君って不自由だよねぇ』
かつて、ゾゥラは彼にそう囁かれたことがあった。
『自由になりたいって、そう思う?』
まるで悪魔のような囁きは、抗い難い魅力を秘めていた。
『完全な自由が欲しい? それとも、選択肢くらいでも満足出来るかな〜?』
それは、ゾゥラにとって初めての言葉だった。
物心ついた頃から、女王として生きなければならない、と、定められた人生に、突如現れた誘惑こそがシドだった。
『君が僕を選ぶなら、君自身のことは好きなように選んでいいよ〜?』
自分で生き方を選んでいいと。
彼は、そう口にしたのだ。
想像したこともなかった。
人に求められる生き方以外を、ゾゥラは考えたこともなかった。
ゾゥラは人生で初めての大きな選択肢を与えられ……それを、拒絶しようと思えなかったのだ。
危ないのだと、分かっていた。
彼という存在は、どうしようもなく危ないのだと。
それでも、惹かれてしまった。
シド自身の魅力にも、シドの示した選択肢にも。
人はこうすれば『堕ちる』のだと、彼は知っていた。
「どうする〜?」
「分かりました。どうなさいますか?」
「ゾゥラを誘き出したら、信用出来る私兵を引き連れて来るってさ〜。だから、油断させる為に一人で《女神の加護》の源に続く部屋に、来て貰っていいかな〜?」
「はい」
ゾゥラは頷いた。
ーーー問題はありません。
理由は、二つある。
一つは、もしシドに逆らったところで無駄だ、という部分。
もし彼が自分を殺したいのであれば、それは必ず実行されるのである。
それだけの力が、シドにはある。
彼が無能ではないということを、誰も知らないのだ。
総大将のエステグは当然のことだけれど、シドを危険視している側付き侍女のムーアですら、その『本性』を理解している訳ではないと思っていた。
ゾゥラだけが、それを知っているのだ。
もう一つの理由は、ゾゥラ自身の問題だった。
誰よりも彼を愛している……その『本性』まで含めて、彼の全てを愛してしまっているから。
だから。
ーーーシドがその道を選ぶのであれば、受け入れるだけなのです……。
本当のところ、彼が何を考えているのかは、ゾゥラには分からない。
もしかしたら自分ですらも、彼のことを本当の意味で理解は出来ていないのかもしれなかった。
自分の国を滅ぼしてでも、王配に収まることを望んだ理由を、聞いてはいる。
けれど、ただ聞いているだけで、それが本心とは限らないのだ。
それ程にシドは、ゾゥラとは視座が違う場所にいた。
誰が理解できるだろう。
彼の国の宣戦布告に対して、反撃して攻め落とす手筈も。
その後の状況の流れも、全て、指示したのはシドだったのである。
一つも、その読みが外れたことはなかった。
その後も、のらりくらりとアジィルを抑えていたが、そこにゾゥラの意図は一つも入っていない。
『ゾゥラはね〜、国のことはきちんとやって、ただ、僕の言っていることは否定していれば大丈夫だからねぇ』
そう、髪を撫でて微笑むままに、従っていただけだった。
周りの人間が自分をどう思っているのかなど、シドにとってはどうでもいいことなのだ。
『エステグもムーアも、信用出来るから大丈夫だよ〜。君の絶対的な味方だからねぇ』
シド自身のことを軽視する相手ですら、彼はそう評価しているのだから。
『僕がダメ扱いされて、ゾゥラは辛いかもしれないけど、我慢してねぇ』
そう、こちらの気持ちすらきちんと理解を示して、そう言ってくれるから。
ただ、優しいぬるま湯の中に、ゾゥラはいれば良かったのだ。
もしその全てが、彼が力を手にする為の策略であったとしても。
きっと自分は後悔しないのだろうと、そう、思っていた。
愚かなのかもしれない。
もし結果が我が身の破滅だとすれば、側から見れば、ゾゥラは『シドに騙されて、愛されていると勘違いした馬鹿な女』でしかなくなるだろう。
それでも、良かったから。
「シド」
「何かな〜?」
「愛しています」
ゾゥラは、『自分のことを愛しているか』とは、問いかけられなかった。
もしかしたら、ある日突然『そんな訳ないよねぇ』と言いかねないから。
だからせめて、自分は本当に彼を愛しているのだということだけ、知っておいて欲しかった。
裏切られたとしても、記憶の片隅にくらいは残って、たまに思い出して欲しいと思うから。
ゾゥラの囁きに、シドは糸のように目を細めて、抱きしめてくれる。
そして、頬を寄せてくれた彼に、耳元で囁かれた。
「僕も愛しているよ、ゾゥラ」
声音は凄く優しくて。
でも、その瞳の奥にどんな色が浮かんでいるのかは、ゾゥラからは決して見えなかった。
ーーーこれで幸せになれてしまうから、きっと、私はダメなのでしょうね。




