古典落語「猫の忠信」
原作:古典落語「猫の忠信」
台本化:霧夜シオン・凛風亭涼音 合作落語声劇台本
所要時間:約30分
必要演者数:4~5名
●登場人物
六:浄瑠璃のお静師匠の元に通う男。
ひょんなことから兄貴分の常吉と師匠の関係を見てしまい、
それまで身を入れていた芸事にやる気が無くなっている。
次郎吉:六さんと共にお静師匠に浄瑠璃の芸事を習っている男。
その日も師匠の元へ通おうと六さんに声を掛けて誘う。
常吉:六と次郎吉の兄貴分。ケンカが強く、硬派な男として有名。
だが、二人と共に浄瑠璃の芸事を師事しているがある日、師匠と
密会しているところを六に目撃される。
弁慶橋のたもとの吉野屋に妻のおとわと一緒に住んでいる。
おとわ:常吉の妻。
名うてのやきもち焼きで有名だが、夫に良く尽くす良妻賢母。
お静:六、次郎吉、常吉の住んでいる在所に移り住んできた、浄瑠璃を
教えている女性。
六に常吉と密会している場面を目撃される。
●配役例
(4人)
六・♂:
次郎吉・♂:
お静・おとわ・♀:
常吉・常吉(猫)・♂:
(5人)
六・♂:
次郎吉・♂:
お静・♀:
常吉・常吉(猫)・♂:
おとわ・♀:
※枕は冒頭のみなので、演者同士で話し合って誰がやるか決めて下さい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
本編
枕:三味線を伴奏楽器に、太夫と呼ばれる人が語りをする浄瑠璃、
と呼ばれるものがございます。
原型となるものは平家物語を琵琶で伴奏して語った平曲にあるとされ
ております。
それを戦国時代、天下人と謳われた右大臣・織田上総乃介信長公が大病
を患った際、侍女の小野のお通が枕辺で聞かせたと伝えられておりま
す。
そこから時代が下りまして泰平の世、江戸時代。
浄瑠璃も民間に広く伝えられまして、男女問わずお師匠さんと呼ばれ
る人たちが自宅兼稽古屋を開き、広くお弟子さんを募っていたもので
す。
お師匠さんたちもいわゆる生活というものがかかっておりますから、
弟子のえり好みなんかはしていられません。
ですから、弟子入り志願してくる者もピンキリでございます。
声だけはいい、節回しがいい、声量はある、台詞の解釈はよくできて
る、どこも褒めるとこが無い人には、長いこと座ってても痺れが切れ
ないのは今日び珍しい、なんてものは言いような褒め方をして、
お弟子さんのやる気を維持していたものです。
そんな、浄瑠璃の稽古屋が江戸のあっちやこっちに雨後の筍みたいに
あった頃の昔のお話。
次郎吉:おーい六さん。
いるかい六さん!
?おい、どうしたんだよ?
下うつむいてさ、何ぼんやりしてるんだよ。
お前、稽古に行かねぇのか?
六:馬鹿馬鹿しくって行ってらんないよ。
次郎吉:行ってらんないってお前、芸主じゃねぇか。
六:芸主ったって、馬鹿馬鹿しくって行ってらんないよ!
お前も知ってるじゃねぇか。
あの師匠がこの町内転がり込んできた時、どんな様子だったか。
「芸も未熟でございます。知り合いもおりません。皆さんのお力添え
で何とかしていただきとう存じます。」
頼まれればこちとら江戸っ子だい。
実じゃねえ皮じゃねぇけどさ、弟子をつけてやってさ、
師匠だの先生だの言われるまま…誰のおかげだってんだい!
その師匠にさ、亭主気取りの野郎がいやがんだよ?
馬鹿馬鹿しくって、行ってらんないってんだよ!
次郎吉:え、男?男ができたの?あっそう。
そりゃあ、いい女だからねぇ。
言い寄ってくる奴はたくさんいるよ。
男の弟子なんてな、みんなそういうもんだ。
だからみんなで約束したじゃねぇか。
師匠にちょっかい出しちゃいけねぇ。
みんなで男から守ろう、
末には穢れをしらない清らかなおばあさんこしらえよう、
そうやって約束したじゃねぇか。
それを抜け駆けはいけないってんだよ。
相手は誰だよ、相手は。
六:お前もよく知ってんだよ。
弁慶橋の常兄ぃだよ。
次郎吉:えっ、誰だって?
六:だから、弁慶橋の常兄ぃ。
次郎吉:うっそだよ。そんなバカなぁ。
兄ぃは硬ぇ男だよ?
俺たちの約束を守ってこそすれ、抜け駆けなんかするわけねぇ。
第一、あそこのかみさんときたらね、
名うてのヤキモチ焼きなんだよ?
浮気なんかするわけない。
六:そんなわけないって…俺は見てきたからそう言ってんだ。
それでさっきよぉ、師匠のところに行ったんだ。
そしたらどうもね…うん。
中に入りてぇって心持ちにならないんだよ。
妙なもんだなぁって思ってたらさ、壁に節穴あったんでこうやって
のぞいたんだ。
そしたら長火鉢の脇にさ、師匠と兄ぃが、べっったりくっついてやが
んだよ。じゃれついてやんの!
もう馬鹿馬鹿しくって行ってらんねぇってんだよ!
次郎吉:本当かよぉ、おい。
そんなことはねぇだろ。
六:嘘だって思うんなら、行ってみりゃいい。
今やってたとこなんだから。
次郎吉:俺ぁそんなこたぁなかろうと思うよ?
兄ぃのかみさん、名うてのヤキモチ焼きだからさぁ。
六:そんなことなかろうって、俺ぁ見てきたんだから。
嘘だと思うなら、見てごらんよ。
次郎吉:え?見てごらんって……中で?
六:そんなわけないだろ。
そこの節穴からのぞくんだよ。
次郎吉:節穴ったって、二つあるじゃねぇか。
どっちがいいんだい?
六:どっちだっていいよ。好きな方で見なよ。
次郎吉:わかったよ。
じゃあ、上の節穴から見ようじゃねぇか。
…そんなことねぇと思うんだけど…でも…なんだか楽しみだね、おい。
【二拍】
ええ?ああ、ああ……
おお。お!お!
六:どうだい。嘘じゃなかったろ。
次郎吉:ほんとだよ。ほんとだ兄ぃだ。お盛んだよ。
師匠がさ、兄ぃの胸にしなだれかかってらぁ。
目ぇ見つめあってるもん。
あの師匠の目ぇったらないね。
「身も心もあなたのものよ」なんて目してるよ。
兄ぃもさ、「おめぇ生涯離さないよ」って顔しているよ。
はぁー、へぇぇぇぇ。
こうやって、「常さん、どうぞ」
うおおお、たまらんぞ、ええ?
見つめあってさぁ…あらぁね、気持ちが通じ合ってんだよ。
こう歯車みたいにさ、がちがちってかみ合うんだね。
いいねぇ、いい二人ができたじゃないか。
おめでとう、おめでとう。
六:お祝い言ってどうすんだよ。
次郎吉:へへへ。
だけどさ、のぞき見なんてたまらないねぇ…へへ。
この節穴からのぞくの、たまらねぇよ、ぞくぞくする。
おい六さん、ちょっとこっち来てくれよ。
六:なんだい?
次郎吉:いいから、こっち来てくれよ。
六:だからなんだってんだい。
次郎吉:俺、のぞきながらさ、おめぇを抱きしめてるから。
六:ッ馬鹿やろこんちきしょう!
次郎吉:シャレだよ、シャレだってんだよ、へへ。
【再びのぞく】
ああ…「おひとつどうぞ」って、うまそうに吞んでるねぇ、おい。
あ、兄ぃが刺身食おうってんだよ。
あれっ、師匠が止めたね。
六:なに?止めた?
止めてどうしたんってんだ?
次郎吉:「冷たいお刺身は毒だからおよしなさい」って
師匠がお刺身を口にいれた!
あ!お!
口であっためたよ!
あ、あ!師匠!兄ぃの口に!
かぁぁぁぁちくしょうこのやろう、ちくしょうこのやろう、
ちくしょうこのやろう!
やってらんないな、ちくしょう!
おい、飛び込んで、師匠はおめぇだけのもんじゃねぇ!って、
言うだけのこと言ってやろうじゃねぇか!
六:よしな。
次郎吉:え?
六:よしなってんだ。
次郎吉:どうしてだよ!
飛び込んで、言うだけのこと言ってやらぁいいじゃねぇか。
六:よしなっつんだよ、兄ぃには喧嘩じゃかなわねぇんだぞ。
二人でかかったってかないやしねぇ。
それに、何を言おうってんだよ。
次郎吉:ふざけんなって、冗談じゃねぇって言ってやんだよ。
六:そんなに言うんだったらおめぇ、中ぁ行ってやんなよ。
俺ここで見てるからさ。
次郎吉:ぇ…じゃあ、俺よすよ。
六:なんでぇ、こんちきしょうが。
それより俺に考ぇがあんだよ。
これからさ、兄ぃの家に行くんだ。
おとわさん、名うてのヤキモチ焼きだから、焚き付けてやんのさ。
ここでの話しをするんだ。
そしたらさ、「ああああああ!」って飛んできて夫婦喧嘩が始まる。
こいつは見ものだよ、どうだ?
次郎吉:そらいいねぇ、ここへ飛び込んでくれれば半端じゃねぇよ。
徳利だとかどんぶりだとかお猪口だとか、ダーッて壊れるよ。
六:瀬戸物だけ壊れるとは限らねぇじゃねえか。
次郎吉:俺の商売、瀬戸物屋だからさ。
六:変なところで、商売っ気だしてやがんな、おい。
次郎吉:まぁまぁ、けど面白ぇじゃねぇか、やろうやろう!
六:よし、俺にまかしとけってんだ。
次郎吉:わかったわかった。
俺、おめぇにすべて合わせるからさ。
っと、ここだ。
六:じゃ、開けるよ。
どっこいしょのしょー…っと。
いたいた。
ちはーっ!ちはーっ!
おとわ:はーい。
あらなんだい、誰かと思ったら次郎さんに六さんじゃないか。
どうしたの、久しぶりじゃないのさ。
ずいぶん顔出さなかったもんだから、生きてんだか死んでんだか
心配してたじゃないか。
生きてたの?
六:へっ、どうも恐れ入りやす、へへ。
もうね、貧乏暇なしってやつでございまして、もう忙しくってねぇ
。
でも久しぶりにね、姐さんの顔見てぇなぁって思って来たんでござ
いますよ、なぁ?
次郎吉:そうそう、姐さんに会いたくなりやしてね。
こうして連れ立って来たんでさあ。
おとわ:なんだい、二人そろってあたしの顔見たいだなんてさ。
今ちょいと手が離せなくてね、
キリのいい所までやったらお茶淹れるから、
座って待っててくれるかい。
次郎吉:いやいやいや、よろしいんでございますよ、ご精がでますねぇ。
それで、何をしてらっしゃるんで?
おとわ:何って、仕立て屋に着物頼んだんだけどね、
忙しいから脇へお願いしますって言われてさ。
しょうがないからあたしがさ、くっつけてんだよ。
次郎吉:へえ、着物ですか。
なんか、見たようなもんでございますね。
おとわ:おそろいだよ。
六:おそろいって、あ、師匠んところの稽古着で?
そうですか、それをくっつけてると。
次郎吉:そうでござんすか。いやご精が出ますねぇ!
いいとこに出くわしましたよ。
姐さんの評判、よろしゅうございますよ!
兄ぃがね、ちゃーんと仕事ができるってのはね、
かみさんが家でしっかりしてるからですよ!
それではじめて、兄ぃは表で安心して働ける!
いやいやもうほんとね、評判よろしゅうございますよ!
姐さんは器量はいいし、それでちゃんと尽くすなんて
これはもう滅多にいるおかみさんじゃねぇってんで
みんな言ってるんすよ、ほんとでござんすよ。
いやぁ、そのひたむきな姿ってのがたまんないね!
とってもいいっすよ!
とってもいいと思うねぇ!
…だけどさぁ、兄ぃは若者頭とか言われてるけどさぁ……、
…冷たいお刺身がどうだとか……
六:【↑の語尾に被せるように】
だからお前はお喋りだってんだよ!
何もここでそういうこと言わなくったっていいだろ!
姐さんの耳に入ってみろよ、嫌ぁな心持ちじゃねぇかよ!
次郎吉:だっておめぇ、仏さんみたいに何にも知らねえ了見でもってさ、
気の毒じゃねぇかよ。
冷たいお刺身が……
六:【↑の語尾に被せて】
よせっつぅんだよ!
姐さんの耳に入ったらおめえ、嫌な心持ちじゃねえかよ!
よせ! よせっての!
おとわ:な、なんだい、あたしの耳に入ったら嫌な心持ちって。
うちの人が酒でも呑んでんの?
吞んでたっていいじゃないのさ。
働きがあるから、お酒呑むんじゃないか。
え?なんなの?
六:あ、いや、そら、こういうことはね…?
いやいやいやいや……。
おとわ:何なの二人とも。
怪しい…なんか下向いてるじゃないの。
次郎吉:ぁいやいや姐さん、なんでもねぇ。
そんな気にしないでくだせぇ。
姐さんは知らねぇほうがいいや。
あっしはね、思わず口からぱっと出ちゃっただけで知らねぇんだ
。
おとわ:な、何なの。
そんな言い方されたら気になるじゃないのさ!
うちの人がどうしたっていうんだい!?
六:いやぁ…なんでもねぇんです。
これはねぇ……。
おとわ:!もしかして、うちの人…うわ……浮気してんのかい?!
六:!はぁ~……、もうしょうがねぇ、隠すこたぁできねぇや。
ええ、そのとおりなんでございますよ……。
おとわ:ちきしょう!
ここのところ、どうもおかしいと思ったんだよ!
ちきしょう!ちきしょう!あきれかえっちまう!
六:そう、それなんすよ。
あっしら二人もあきれかえっちまった。
あきれた国からあきれた国を広めたいくらいあきれ返っちまいました
よ、ほんと。
それもねぇ…、お相手がねぇ……なんでございますよ。
お、お、おお……
おとわ:だ、誰なんだい?
次郎吉:ぅぅいやいや、これは…聞かなかった事に…。
おとわ:聞かなかった事って、そこまで言ったんだからお言いよ!
誰なの?!
六:【溜息】
…そこまで言うならしょうがねぇ。
実は……それ、稽古着、それ、なんすよ…。
おとわ:し、師匠?お静師匠と?!
六:そりゃあね、夜中にこっそりやるってんならともかくね、
昼間っからさ、長火鉢の脇にお膳を置いてさ、
真向いに座ってねぇんですよ。
おとわ:真向いに、座ってないって…?!
六:師匠が兄ぃの胸元にね、こう、しなだれかかってんの。
もう他人事ながら腹立っちゃったよ。
しな作られてさ、兄ぃ嬉しそうな顔してんだもの。
でね、兄ぃがこう刺身に手を伸ばす。
おとわ:きぃーっ!!
六:いやね、兄ぃが刺身食おうとしたんです。
そしたら師匠が止めて、
「冷たい刺身は毒だから」
なんて言うんですよ?
…俺は毒じゃねぇと思うよ。毒じゃねぇよあれ。
んで、師匠が口ん中に刺身入れたんだ。
それでさ、「これだったら大丈夫、大丈夫よ。食べなさい。」
って言ったら兄ぃがね、
「これはねぇ、おめぇが食った方がいい。」
「常さん。」「お前さん。」「いやん、いやん。」
おとわ:~~あきれかえったね、ほんとに!
ちきしょう、ちきしょう!!
よく教えてくれたね。それで、いつのことよ!?
六:今ちょうどやってるとこ!
もう、あきれかえっちまって――
おとわ:【↑の語尾に喰い気味に】
そんな冗談じゃなくて、いつなの!
六:いや、今ちょうどやってるところ!
今!今、今やってる!
薪ざっぽう持ってね、俺、ダーッと行ったの!
おとわ:【冷静になって】
…………あっそ、そうだったの。ご苦労様。
次郎吉:あ、あれ…?
六:…むこう向いて仕事始めたよおい。
油の掛けが足りねぇかね…?
【おとわに向けて】
自分の亭主盗られて、そんな縫い針なんかしてる場合じゃねぇよ!
おとわ:お前さん達さ、ウチの人となんなの?
友達じゃないの?
友達ってのはね、ウチでなんか揉め事があったら、
まあまあまあって宥めるのが本当の友達じゃないの?
波風立たずにやってるのにさ、わざわざそんなこと言わなくたっ
ていいじゃないのさ!
昨日見たとか、一昨日見たっていうならわかるけど、
いま見た、いま来たとか。
ウチの人は夕べから風邪ひいて、奥で寝てんだよ!
六:……えっ?
おとわ:寝てんだよ!!
次郎吉:寝てんだよ、だって…そんな強がり言ったって駄目だよ。
いるわけがねえんだ、むこうで酒吞んでんだもん。
おとわ:だってこっちで寝てるものがさ、むこうで酒吞んでるわけない
じゃないのさ。
六:だから、むこうで酒吞んでる者がこっちで寝てるわけないもの。
いるもんならよ、会わしてもらおうじゃねえか。
おとわ:いるんだから会わせてあげますよ!
ちょいとおまえさん!
次郎さんに六さんがーー
常吉:【語尾に被せるように】
おぅ…、さっきから話は残らず聞いてた。
ここんとこな、どうも頭がぼーっとして、てめえの身体なんだか
人の身体なんだかよくわからねえ。
…やい、次郎に六!
六:!!ぉぉッ、あ、あっしはこれで失礼をーー
次郎吉:おいおい待て待て、待てってんだよ。
常吉:なにしてやがんでぇてめえ達は。
若ぇ夫婦のところ行ってケンカさして、それを見て楽しもうなんて
のはよくある話だよ。
なんで俺たちみてえなところに来て、なんだってそんな馬鹿な事
しようってんだ?
次郎吉:あれぇ…おかしいな…?
六:いやいやっ、そうじゃねえんだ。
向こうで確かに…おかしいなあ…。
次郎吉:おかしいよ、いや、ねぇ?
六:【じろじろ常吉を眺めて】
息は上がっちゃいねえしなぁ…おかしいなぁ。
次郎吉:いやいや、向こうで呑んでたよねぇ?
常吉:向こうで呑んでるったって、俺はここにいるよ。
次郎吉:それなんだよ…なんなんだろうねぇ…?
常吉:じゃあ何かい、向こうで俺が師匠と酒吞んでたってのか…そうか。
おぅおとわ、羽織だ、羽織出しな。
おとわ:えっ、一体どうしたってのさ?
常吉:良いから、羽織を出せってんだよ。
おとわ:はいはい。
で、どこに行くんだい?
常吉:どこに行くったってお前…どこに行くったって……、
俺が、俺を、見に行くんだよ。
おとわ:そんなこと言って、他人の空似ってのがあるからさ、
ちょいとお前さん、調べておいでよ。
常吉:ああわかったよ。
おう、早く来な。
次郎吉:っおかしいなあ…いや、ホントにいるんですから、
いるからあっしはこうして来たってのに…。
常吉:俺ァここにいるじゃねえかよ、ええ?
けど、そういやここんとこな、妙な事を耳にするんだよ。
こないだお湯屋、床屋に行ったら、「ここんところ、お唄が上手に
なりましたね。もっとも仕込みが違うからうまくなるんでしょうけ
れども」
てな。
妙な事を言うもんだと思ったんだよ。
次郎吉:あっ、兄ぃ着きやしたよ!
こっからのぞいたんでさ。
常吉:こののぞき穴か?
よし、おめえ、見てみろ。
六:わかりやした。
わかりやしたけど兄ぃ、そこを動かねえで、中に入っちゃなりません
よ!
いやほんと、ここにいるんですからね。
じゃあ、見ますよ。
【二拍】
んん? って、はァァァ…。
もう中へ入っちまってるよ…、
入っちまっちゃなんねえって、あんなに言ったのになんにもならね
え………【のぞき穴から目を放して隣を見て】
って、あれ?もう出てる?
そんな馬鹿な、いま中に…
あっ、入っちゃってる!
いつの間に…ってあれ!? もう出てる!?
どうやって…ってもう中にいる!?
ありゃ!?
ありゃあ!?
常吉:おいッ、何を言ってやんでェ!
俺ァここにいるじゃねえかよ!
そんなわけねえじゃねえか!
次郎吉:いやいやいやいや、いますって!
中にたしかにいましたって!
常吉:もういい、俺が見る。
まったく、そんなわけねえじゃねえか。
俺ァここにいるんだからよ…………ッ!?
六:あ、兄ぃ、どうしたんで?
常吉:…おいッ、次郎…!
次郎吉:へ、へい、どうなすったんで!?
常吉:確かに中で、師匠と一緒に酒を呑んでるのは…俺だ。
六:そうそうそう、そうなんだよォ!?
当人が言うんだから間違いねえ。
常吉:中で師匠と酒吞んでいるのが俺で…?
じゃ、この俺は一体、どこの誰だ?
六:おぉおいおい気味の悪いこと言っちゃいけねえよ兄ぃ!
常吉:!そうか、わかったぞ…!
よくな、キツネタヌキが人を化かす化け猫なんてこと言うだろ。
だからな、アレぁ…狐狸妖怪だな。
次郎吉:はぁぁなるほど、氷ようかん…!
常吉:【間髪入れずに】
氷ようかんじゃねえ! 狐狸妖怪だってんだよ!
バケモンってんだ!
ようしお前ら、中入れ。
そしたら師匠が酒すすめてくれるはずだから、そいつを吞むんだ。
んでご返杯ってなるだろうからそこで隙を見てな、
手をぐわあッと引っ張って、身体をねじ伏せて、耳を抑えるんだ。
ケダモノってのはな、耳を抑えられるとダメなんだ。
いたたまれなくなって耳がこう、ぴくぴくぴくーって動くんだ。
そしたら何でもいい、叫べ。
次郎吉:な、なんて?!
常吉:なんでもいい、ぴくぴくだぁーッとかなんとか言え。
そしたら俺が飛び込んでって、パァーンと張り倒してやるからよ。
次郎吉:はぁぁなるほど、ぴくぴくだぁーッて叫んだら、兄ぃが飛び込ん
でって張り倒す。
六:それで、あの、化け物をねじ伏せるのは誰がやるんで?
常吉:そりゃ六、おめえだよ。
六:えぇえぇ、や、やだよォ、
そんなねじ伏せてる間に喰いつかれでもしたら。
常吉:いいから! 二人でやれってんだよ!
六:ぅぅわかったよォ、わかりやした。
じゃあ兄ぃ、言ったらぱーっと飛び込んでくれなきゃ嫌だよ?
どっか行ったりなんかしないでくれよ?
常吉:でぇじょうぶだよ!
早くやんな!
次郎吉:わ、わかったよぉ。
じゃ、じゃあ、入ろうか?
六:お、おぅ、分かった。
じゃ、じゃあ開けるぞ。
後ろ閉めるんじゃねえぞ、え。
いつだって逃げられるようにしとかねえと嫌だよ。
よっこいしょのしょ…よっこいしょ、しょーーーっ…。
【一拍】
ちわーっ、こんちわーっ。
お静:はぁーい。
あら、誰かと思ったら次郎さんに六さんじゃありませんか。
ちょいとお前さん、次郎さんに六さんが。
常吉:【酔っぱらっている】
おぉーぅ…。
おぅ、じぃろぉうに、ろくかぁぁ?
なぁんだぁおぃ、おぅじろぉ、ろくぅ、ひさしぶりじゃねぇかぁ。
こっちぃ、こっちぃあがんなぁぁ。
六:【次郎吉にささやく】
おい様子が変だよ…。
【普通に】
へっ、あっし達ぁあの、ここで結構でございやす。
あの、この壁のところで結構でございやすんで。
お静:そんな、あのこっちへおあがりになって…。
次郎吉:いやいやいや、ああぁあっし達はあのここで、
この壁のとこで結構でございやす。
壁が好きなもんで。
お静:そんなヤモリみたいなこと言ってないで。
さ、こっちへいらして。
一杯飲むんでしょ? お酒。
六:えっ、お酒? お酒いただけるんですか!?
いやいや、そうですか、ありがとうございやす!
どうもすいやせん。
いやぁあっしは酒ときたら目が無くて、どうもすいやせん。
酒とくると…って、あ、注いでくださるんでございますか?
いやいや師匠すいやせんね、ありがとうございやす。
またまた大分酔ってらっしゃって、あらとっとっと、
あらとっとっとっとっとっ…
次郎吉:【六の袖を引いて】
ぉぃ、ぉぃって…!
六:【次郎吉に袖を引かれて小声で返す】
よせ、よせ、待てってんだよ、がっつくなって…!
吞んだらおめえに…
次郎吉:【↑の語尾に被せて小声で】
てめえこそがっついてんじゃねえかよ。
相手は氷ようかんだぞ。
酒かと思って吞んだら馬のしょんべんかもしれねぇぞおい。
六:【小声で】
ぁ! あぁ、そうか…ちょちょっと待てよぉ…。
【普通に】
師匠あの、これ……本物のお酒でございますかね?
お静:偽物のお酒なんかありゃしませんよ、呑んで下さいな。
常吉:ろぉくう、おめえぇ、おれの酒がのめねえぇってぇのかぁ?
六:へっ、へへ、へいっ。
じゃ、じゃあ兄ぃ、いただきやすんで……。
ん、ほっ、ほ、ほ、ほっ…【ためらってる】
吞むんだ、呑むんだ…!
【思い切って一口吞む】
お、お、お…んっ。
……ん!!
へ、へへへ……ほんものだ。
お静:嘘のお酒なんかありゃしませんよ。
何かつまみます?
六:へへへ、酒の肴なんかいらないんですよ、ええ。
じゃあ、一息でいただきやすんで。
んっ、んっ、んっ……。
ぷはーっ。
【次郎吉の方を向いて】
こらうめえ、良い酒だよ!
【酔ってる常吉に】
兄ぃ! …兄ぃその、ご返杯で一杯いかがで…
常吉:おぅそぅかぁぁ、ろくぅ、すまねえぇなぁぁ…
次郎吉:!!(兄ぃが、手を伸ばした…!)
六:おりゃあッ!!
常吉:ぅぅおお!?
六:こいつでどうだぁ!
次郎吉:ろ、六さんの抑えた耳がぴくぴくーって動いた!
ぴ、ぴくぴくだぁぁーーーっ!!
常吉:やったか!
うおぉおーッ!
お静:え、えぇぇちょ、ちょっと何を…って、あら、あら常さん!?
えっ、じゃこっちのは…って常さん!?
ここにも常さん、こっちにも常さん、あら? あら!?
あららら、両方に…!?
常吉:師匠っ、騒いじゃいけねえ!
次郎! 表閉めろ!
六! 絶対に放すんじゃねえぞ!
【抑えられてる常吉に対して】
やいっ!
この………俺ッ!
てめえなんだってここへ来るんだ!
師匠の名にも関わりゃ、俺の名にも関わるじゃねえか!
魔性のもんじゃねえ、化生のもんだろ!
言えッ!
こういう俺は吉野屋の常吉、吉常が尋ねる!
言えッ!
言わねえか!!
常吉(猫):申します! 申します!
常吉様の姿を借り、拠ん所なくこの家へ参りましたそのわけを、
ま、一通りお聞きなされてぇぇぇ……下さりませ!
【鳴り物入りの曲があれば…幽霊が出てくる時のあの曲ですね】
頃は人皇の六十二代、
村上天皇の御代、山城・大和の二か国に、
田鼠と言って田畑を荒らすぅぅぅ鼠、
月日が時の博士に占わせしところ、高位の御方のお傍に仕えし、
雌猫の生き皮にて、製したる三味線を弾けば鼠は立ち去
る、とのこと。
よって余山の宮にて仕えし雌猫の生き皮にて製したる三味線を弾け
ば鼠は、立ぁぁぁぁ~~~ち退きけん。
民・百姓の喜びに、初めて声を上げしより、
初音の三味と名付けたも、たも、たも、たも、
たもたもたもたもたも…たも!
国の為とは言いながら、親猫を殺されましたその時は、
百匁に足りぬまだ仔猫、何の頑是も無く泣くばかり、
耳をこすりて雨を知り、
目に時は知りながら、
何の因果で親猫の行方は知れぬと泣きはらし、
ごろごろにゃん、と尋ねても未だに知れぬこの年月、
ようよう訪ねて参りましたあたくしの親は、
あれ、あれ、あれあれあれ、あれにかかりしあの三味線、
あたくしはあの三味線の子でぇぇぇぇぇ、ござります!!
お静:あっ、こ、こっちの常さんが!?
常吉:!見ねえ、大きな猫の姿になったぞ。
六:本当だよ、気取ってやんだよ、芝居がかってやがんだ。
次郎吉:だけど兄ぃ、今度のおさらいは大当たりだね!
だってさ、すっかり義経千本桜そろっちゃったよ。
六:そりゃあ、どういうことだい?
次郎吉:だってそうじゃねえか。
兄ぃが弁慶橋に住んでる吉野屋の常吉だから、義経。
んで、この猫がただ酒を飲んでたから猫の忠信 (ただのむ)ってんだ
よ。
で、わしが駿河屋の次郎吉で、駿河の次郎。
こいつが亀井の六郎で、ほら、すっかり千本桜そろっちゃったろ!
常吉:何を言ってやがんでぇこんちきしょう。
肝心の静御前がいねえだろ。
次郎吉:へへへ、こいつは兄ぃの言葉とも思えねえ。
師匠の名前はお静なんだ。
だから師匠が静御前に…。
お静:【↑の語尾に被せて】
嫌ですよ、あたしみたいなお多福に、静御前は似合いませんよ。
常吉(猫):にぃああぅ。【猫が鳴くようにして言って下さい】
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様(敬称略)
三遊亭栄楽