Letters
恋人に会いに行くことにした。
恋人の住む街へは、がたんごとんと電車に揺られていく。わたしは学生時代にその街に住んでいた。
恋人は、ふだんその街の、路上で、字を売ることを仕事にしている。道をゆく人に乞われた文字を書く。一年に三回ぐらいは旅先で同じことをしている。
二人の住まいが離れてから、わたしは暇をみつけては恋人に手紙を書いた。日々のことを綴るのが、楽しかった。恋人の返事を待つのが楽しかった。もちろんそれを読むのも。
わたしは恋人に手紙を書くためにびんせんや封筒や切手やきれいな色のインクをあがなった。いろいろなものを立ち上らせる恋人の文字がポストに届くのを、心待ちにした。恋人の、きちんとした大きなつめ、墨のにおい、理知的なまなざし、そして、旅先のたべものや風の気配。
しばらくはそれでうまくいっているように思えた。
わたしがさいごに恋人に手紙を書いたのはみつきと少し前で、水色の封筒に海の切手を貼った。恋人がさいごにわたしに手紙をくれたのはふたつき前で、それはブルーブラックのインクで書いてあった。
わたしたちは電話があまり好きではなく、恋人は固定電話をひいていたが携帯電話を持っていなかった。だから、ふつうの勤め人が働いていない時間に、道端で字を売っている恋人と、電話で話すのはむずかしい。
さいごに電話で話したのはひとつきくらい前で、わたしは本当は手紙にしようと思ったのだけれど、それはいくら書き直しても出せる手紙にならなかった。ほんとうの意味で恋人まで届く手紙、恋人に返事を書いてもらえるような手紙になりそうになかった。いくらきちんと住所を書いて切手を貼っても。何度か留守番電話にメッセージを入れてつかまえた電話越しの恋人の声は、なつかしく近くとても遠かった。そろそろ電話しようと思っていたという恋人の言葉の真偽をたしかめるすべはなく、たしかめたところでどうなるわけでもなく、わたしは素直にうれしいと言い、時節の話や、近況報告や、共通の知り合いのうわさ話をした。
水曜日に恋人の自宅の留守番電話に「週末に行きます」とメッセージを残しそれから何の音沙汰もないので、わたしは出かけることにした。わたしの恋人の律儀さとはこうした場合に間に合うように不都合を伝えてくれることだった。もっと用心ぶかい人がそばにいたら、彼は留守電を聞けない状況にあるのかもしれないし、聞いていてもわたしに返事をしたくない状況なのかもしれない、とわたしに忠告してくれるかもしれない。でもわたしはわたしたちのやり方を信じていた。
でかける前の晩に、ペディキュアを塗りなおすかどうか迷った。わたしの好きなメタリックのひすい色は爪のかたちをとどめていなかったけれど、除光液で落とすのもしのびなくて、そのまま、夏の名残のつま先を靴下に隠した。
恋人にさいごに会ったのは、まだ、はだしにサンダルを履けない季節だった。
がらがらにすいた朝三番めぐらいの電車に乗って、ブランチの時間帯に、わたしは恋人の家についた。わたしのためにアパートのドアを開けてくれた恋人は、わたしが来るのがわかっていたようなわかっていなかったような顔で「ひなちゃん」と言った。
それはわたしの名前ではなく姓の一部でもなく彼がわたしに与えた呼び名で、だからもし彼がわたしを知るひとたちの前でそれを連呼しても、誰も彼が呼んでいるのがわたしだとは気付かない。そしていま彼がわたしの知らないところで誰かを同じようにそう呼んでいたり、彼の歴代の恋人が同じようにそう呼ばれたりしていても、わたしにはわからない。それだけの意味の言葉だ。
「おはよう」とわたしは言って部屋に上げてもらった。部屋の様子はわたしがこの近所に住んでいた頃とあまり変わっていない。ふすまの向こうに起き出したばかりの布団が見えた。
たぶん恋人はあかるく晴れたひるまと同じぐらい夜が好きだ。深夜と呼ばれる時間までには彼は店をたたむ。客の望む文字やことばを探し書き付ける作業によって恋人の神経は高ぶり、つかれている。それからたっぷり時間をかけて、歩いてかえってくる。興奮はこころよい疲労に変わる。それから、すこし夜を味わって、夜の暗闇がそれでもわずかに残るころ、ようやくねむることが多い。だから、起き出す時刻は遅い。わたしがそばにいたころは、そうだった。
「留守電聞いてくれてた?」
「留守電? ああ、うん」
「調子は、どう」
「調子?」
まだ半分ねむっているように恋人はふわふわとわたしの言葉を反芻し、「良いよ」とわらった。
「ごはん、食べた? きんぴらと、ひじきの炊き込みごはん、持ってきた」
恋人と恋人の家にたどりついた安堵と不安といとおしさが自分のからだの中から一気にこぼれだしそうになって、恋人を見ていられなくて、わたしは持ってきた紙袋をテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
恋人は紙袋をひきとってから、「ひなは?」とわたしに尋ねた。
「わたしは、今まだどっちでもいい。朝、ちゃんと食べたし」
「俺はもうすこし寝るから起きたらもらう。ひなどうする?」
一緒に眠りたいなと思った。「一緒に寝ようか」と恋人が言った。わたしはそれに頷くだけでよかった。
夕方、恋人の商売道具を手分けして持って、わたしたちはぶらぶらと川原を下った。わたしが作ってきたレンコンのきんぴらとひじきの炊き込みご飯と、恋人の作ったおあげとわかめと青ねぎのみそしるとわたしが作ったオムレツと恋人がお客さんにもらった野沢菜漬けと水気の多い梨がわたしたちのおなかを満たしていた。手をつないで、黙ってたくさん歩いた。
だんだん薄暗くなってそこここの電灯がついて、ざくざく砂利を踏んでいたのが舗装の道にかわった。犬を散歩させている人、走っている人、楽器の練習をしている人。自転車の発電機つきのライト。
川を下っていくと、この街のメインストリートにぶつかる。その橋のちかくに、恋人はいつもちいさく店を広げていた。
わたしがこの街に住んでいたころ、よく恋人が仕事をする隣に座って時間を過ごした。お客さんが好きな漢字一文字や座右の銘や昔の誰かが作った詩歌や、即興のことばを、恋人が紙に書き付けて、その代償を得るのを見ていた。書きあがった文字に反古を押し付けてはやく乾くようにしたり、紙をまるめたり、お金の受けわたしをするのが、わたしにできるしごとだった。あとはただじっと身をひそめて、字を書く恋人の邪魔にならないようにした。
「そういえば」と急に恋人が言う。「ひなちゃんが好きだったカフェこないだ行ったらつぶれてた」
「ほんとう? お客さんすくなかったもんねあそこ」
「ラーメン屋になってた。最初場所を勘違いしたかと思った。チャーシューが、こんなに分厚くて」と恋人はわたしとつないでないほうの手の、親指と人差し指で厚みを示した。
「入ったんだ?」
「うん。あんまりおいしくなかった。安いけど」
「がっかりだね」
「またつぶれるんじゃないかって皆言ってる」
「みんな?」
「あのへんの知り合い」
「ねえ」とわたしは勇気を鼓舞して言った。沈黙から会話を始めることより、話題を急に変えるほうが、まだやさしい。「このごろ字を書くのがつらい?」
少し黙っていたあと、すばやく恋人が言った。「手紙、ごめん」
「仕事は支障ないの」
「ない。楽しいよ。たのしいっていうと、享楽的に楽しいのとは違うけど。責任も、充実もある」
「だんだんと、そうやって」わたしは慎重に言った。「失くしていくのね」
「うん、そうだね」と恋人はわたしとの会話のために言い、「それが俺の仕事だから。お金を貰っている以上なにかを失くさないと釣り合いがとれないとおもう」と自分のためにちいさくつけくわえた。
それは恋人の持論だった。まじめな人なのだ。
以前にくらべたって彼が、開かれているのでも閉ざされているのでもないのに、わたしだけがここにこうして冷たい塊を抱えてあるいているような気持ちになった。ただ彼がわたしのために手紙を書く機能をうしないつつあるだけなのに。
「たとえあなたが」未来永劫という言葉をわたしは言わなかった。「手紙をくれなくたって、わたしは、あなたが、好きよ」
「うん」と誠実に恋人が言った。「知ってる」
それからすこし恋人が字を売るとなりにいた。
若い女の子のグループがいくつかと、おばさんおじさんのグループがもう少し多く、旅人らしい白人も何人か彼の字を買った。いろんな年代のカップルもきた。この街は年中観光客が多い。
常連のおじさんが今日はみかんをくれた。わたしのぶんも。わたしは自分が学生の頃にもよく見かけたそのおじさんを覚えていたが、おじさんがわたしを覚えていたかはわからない。
恋人はひたむきに字を書いていた。
お客さんのリクエストに耳を傾け、どういう文字や言葉を書いて欲しいのかわからない人には、顔をじっとみつめ話に耳をすませてその人が必要とすることば、そのひとにふさわしい言葉を探す。
字をあがなう人への好きとか恋情とか愛とかではなく、ただそういうしごとなのだ。そのしごとが彼を選び、彼がそのしごとを選んだ。
「みかんたべてもいい?」とわたしは恋人に聞き、恋人のぶんもみかんをむいた。まだすこしはやいみかんの放つ青い芳香は墨のにおいとまざりあって、わたしたちの内臓に収まった。
ポストカードのうりあげの正の字が六つとすこし、即席の墨書のそれがちょうど四つになったとき、みるべきものはすべてみたとわたしは思い、立ち上がってスカートのしわをのばした。わたしの街へ帰る電車の、最後の時間が近づいていた。
ミニスカートの女の子が、細っこい男の子の手をつないで、しゃがんで、ポストカードを選んでいる。わたしの恋人がわたしを見た。
「帰るの」
「うん帰る。今なら最後のバスに乗れる」
「きんぴらとごはん、ありがとう。おいしかった」
「うん」
「また来て。俺もそのうち行く」
「うん」
「あのー、これとこれ」女の子がポストカードを指差した。「ありがとう」と恋人が彼女に金額を告げる。「じゃあね」とわたしは言って駅に向かって歩き出した。
おたがいにもう見えなくなる前に一度ふりむくと、おつりをわたし終えた恋人がわたしを見ようとするのがわかった。その視線がわたしに到達するのを待って手を振って、それから前に向き直って、あるいた。
家に着いたらすこし泣こうと思った。
(400字詰め原稿用紙換算13枚)
copyrigh.Lapis Work.Tilol Nagawi.2009
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