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65.いつかの幼女に



「舞彩は君と同じじゃないと不安なんだ」

「……妹を盾にプロポーズされるのは想定していませんでした」

「狡いだろう?」

「あなたから言われるなら、もっと無難な……普通の言葉だと想像していました」


 舞彩の為に言うことを聞けなんて、ひどい言い分。

 詩絵の期待を裏切って申し訳ないが、詩絵が断れないようにズルをする。



「……司綿が出所したら結婚してもらう予定でした。私が」

「うん」

「それを話したら舞彩は『ずるい、それならあたしもする』って言って……」


 僕が出所する前の二人のやり取り。

 アクリル板の向こうで当時を思い出しながら頷く。


「そうでしたね。私と同じに……」


 詩絵は舞彩の言葉を、僕への憧れなんかによるものだと考えたのだろう。

 だけどそうじゃない。舞彩は、詩絵と同じがよかっただけ。

 お揃いがいい。一緒がいいって。そう願った。



「舞彩と別れて、私と?」

「書類上のことだよ。君がそう言ったんだ、僕に」

「……なるほど、狡い言い方をしますね」


 今度は過去の詩絵自身の発言を盾にして。

 どんな手段でもうんと言わせる。そうすれば舞彩も少しは安心してくれるだろう。


「世間からなんて言われるかわかりませんよ」

「僕は、慣れてるから」


 美人姉妹の二人を都合よく扱うひどい男。

 言われても仕方ない。以前とは違って事実なのだし、誰になんて言われても手放したくないと強く思う。


「もちろん詩絵や子供がそんなこと言われないようにちゃんとする。仕事も決めたんだ」

「仕事ですか?」

「森林管理の仕事、伐採とか。保護司の人に紹介してもらった。インフラ整備に必須だけど若い働き手が不足しがちなんだって」


 人と多く関わらない種類の安定した仕事になる。

 特殊なスキルは必要なくて、ただ根気と体力は不可欠な仕事だと聞いた。


「冤罪のことで結構な賠償金ももらえるみたいなんだけど、それは父さんと兄さんと分けたいと思ってる」

「はい」

「僕の分で、どこかに家を買えればと思うんだ。一緒に暮らせる静かな家を」



 未来図。

 あいまいなままのものではなくて、しっかりと形を作っていきたい。

 詩絵と舞彩がいる家を、僕の意志で作って支えていきたい思う。


「贅沢はさせてあげられないかもしれない。でも食べるのには困らないように頑張るから」

「……」

「愛想を尽かされないように頑張るよ。それでも僕がダメなら嫌われるのも仕方ないけど……」

「……司綿」


 詩絵の視線が迷う。

 落ち着かない様子で周りを気にしたり、薄い下唇を噛んだりして。

 言いにくいことがあるとしたら、この場で僕を嫌いだと言いにくいのかもしれない。



「贅沢なんて……普通で、十分です。私も舞彩も……」

「詩絵」

「でも駄目です。私は今、なんで……なぜだかすごく苦しくて……うまく言葉になりません」


 僕の求婚とこの先の話を聞いていた詩絵が、苦しく切ないと感じて落ち着きを失くした。

 それはきっと悪い意味じゃないんだろうと思うと、なんだか嬉しい。



「……なぜ笑うんですか」

「君が僕よりずっと年下なんだなって初めて思ったから」

「そう……ですね。もう」


 むうっと唇を尖らせて不満を訴えた。

 まだ二十歳にもならない少女の顔。



「でも、きっと私は前とは違う。これからは舞彩に嫉妬します」

「ああ」

「私と舞彩とどっちが好きなんですか?」

「両方」

「そういう面倒な質問を何度もすると思います。いいんですか?」

「じゃあ詩絵は、僕と舞彩のどっちが好きなの?」

「狡いですよ、その質問は」

「言っただろう。ズルをするって」


 話しているうちに、憂鬱な毒気はどこかに消えてくれたみたいだった。

 今まで見たことがないほど素直な詩絵の気持ちに、僕もただ正直に応じる。

 こんな仕切りで遮られていなければ普通の恋人同士の会話のよう。


「……」


 アクリル板越しに視線が重なった。

 詩絵は少しの沈黙の後で息を吐いて、軽く首を振る。



「……普通の、家」


 ぽつりと呟いた後、アクリル板の下のカウンターに視線を落とした。

 僕が描いた小さな未来。大それたものじゃない毎日……美人姉妹二人をお嫁さんにと言うのだから僕には大それた野心だけど。


 家があって、食事があって。

 ごく当たり前の会話を交わす、暴力や暴言による恐怖で支配されない家。

 普通の家。


「……あなたに助けていただいた夜。あの日まで、私は自分の家が普通でないとは知りませんでした」

「……」

「私にとっては怖い大人の顔色を窺うのが日常。どこの家もそうだと思って……違うなんて考えたこともなかったんですから」


 詩絵のブログにはそういったことが書かれていた。

 他の家を知らないのだから、自分の環境が普通ではないなどと認識できない。


「あの後、急に態度が変わった干溜埜埜と周りの環境で……私は、自分が不幸だとわかってしまった。あなたの当たり前の善意は、私にとっては魔法みたいに不思議なものだったんです」

「詩絵」

「普通の家庭を望むなんて……ごく普通の幸せを願うなんて、私には……とても、難しかった。絶対に届かないと……」



 僕は、ただ人として当然の簡単なことをしただけのつもり。

 困って泣いている子供に声をかけ、手を差し伸べた。

 それが詩絵に、自分のいる場所が地獄だったのだと教えることになった。


 手を差し伸べた僕は牢獄に。

 何もかも信用できずただ必死に生きてきた詩絵には、世の中の当たり前なものがとても遠く見えた。手が届かないくらい。



 あの夜だって、外の世界に助けを求めるのにどれだけ勇気が必要だったのか。

 舞彩を助けなければという一心で、クレヨンで書いた。


『な す

   けて』



 つ、と。

 詩絵の指がゆっくりと、アクリル板の向こう側をなぞる。

 鏡文字で。


『た す け て』


 ああ、そうか。

 あの文字はただ間違っていたのではなくて、鏡映しになるかもしれないと考えてあんな風になったのかもしれない。

 異父妹を助ける為に、幼い彼女なりに必死に考えた結果。



「もう、大丈夫だ」


 そっと手を当てる。

 冷たいアクリル板に片手を当てた。


「僕は、君を助けに来たんだ。詩絵」

「……はい」


 アクリル板の向こう側で、詩絵の手も重ねられる。

 あの夜はベランダの窓ガラス越しに。今日は透明な壁に遮られたまま。


 十三年の時を経て。

 僕の手は、あの日の幼女にやっと届いたのだと思う。



  ◆   ◇   ◆


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