51.それぞれの交差点_2
――娥孟は僕が殺す。
司綿は気づいていなかったのだろう。囁くような声で。
――だから。
詩絵がそれを聞いていたことを。
――君たちは、幸せになってくれ。
司綿がそう決めたのなら、彼の気持ちは尊重したい。
けれどそれは詩絵の本当の気持ちと違うから、道が異なる。
翌朝、ごはんの後で司綿は出かけていった。舞彩が主に使っている自転車を借りてどこかに。
娥孟を殺すと決めたのなら何か手段は必要だろう。本気で詩絵たちの為に行動しようとしている。
「舞彩、話があります」
「なぁに姉さん?」
詩絵の言葉を素直に聞いてくれる舞彩。この子なら。
きっと、代わりになるから。
◆ ◇ ◆
見知らぬアカウントから連絡があった。
これまで二度、こいつのおかげで金を拾った。一度目は埜埜から五万。二度目は見知らぬ男から五万。
使えばすぐなくなってしまう金額だが、それでも儲かったのは間違いない。
だから信じる。
信じるというほどの内容でもなかった。まるで親の小言のような。
――車に気を付けなさい。
はぁ?
起きてそのメッセージを見て、何のことだと鼻で笑った。
とりあえず今日はパチンコ屋にでも行こうと思っていたのだ。手にした五万が倍になるならそれでこの町を離れるか、と。
人通りのない道に出た時に聞こえたエンジン音。
朝のメッセージが頭の中に走った。
正体不明のアカウントだが、今まであれが娥孟に損をさせたことはない。
娥孟を助けてくれる神の啓示というやつかもしれない。
後ろから突っ込んできた暴走車の上を転がり難を避けた。
ツイてる。
慰謝料だなんだと言って金を払わせることもできる。
やはりあのアカウントは娥孟にとって幸運の女神に違いない。
車との衝突では娥孟の方が分が悪い。ボンネットにぶつけた腕が痛むし、転がった際に頭もふらついた。
転がりながら運転手は見えた。ぎょろりと目を見開いた初老の男。
そんなに見開いてどこを見ていたんだか。
ぶち殺してやる。
いや、それでは娥孟が捕まってしまう。娥孟は今、被害者なのだからその立場を利用しなければ。
理屈はそうなのだが腹は立つ。
「てめぇ、おらぁ!」
怒鳴りつけた。殴るわけにはいかないが言葉だけならいいだろう。
朝っぱらからこんな目に。
「――」
車に気を付けて、と。
その瞬間になって疑問が沸き上がった。
未来がわかるわけでもないだろうに、なぜあのメッセージが送られてきたのか。
偶然ではない。偶然ではないとしたら計画的なこと。
何者かが娥孟を狙って――
閃いた時には、猛烈な勢いでバックしてきたリアガラスが目の前に迫っていた。
◆ ◇ ◆
店の鍵は預かったまま。
干溜埜埜と詩絵の関係は、頻繁に会うようなものではない。
金庫の鍵は別で、他に店に置いてある物といえば飲食物とグラスなど。
詩絵が酒を盗んだり店中を荒らして帰る可能性など想像もしていないのだと思う。信頼とは違うが。
埜埜は詩絵に興味がない。
文句を言わないが懐きもしない。ロボットのような娘だと見ている。詩絵の笑顔など見たこともないだろう。
反対ならある。埜埜は他人に対しては笑顔を振りまくことが多かったから。
平日午前中のスナックなど誰が来るわけもない。
前回、下調べはした。
警察に娥孟が捕まる前に。あるいは誰かに殺されたりする前に。
詩絵がやらなければならないことをする。
詩絵が一流の怪盗などであれば全て計画通りに進められたかもしれないが、残念ながらそうではない。
背背の事故死など予測できるわけがなかった。
当初描いていた予定とは違う。ひどく性急になってしまうけれど仕方がない。
もっと苦しめたかった。
不安と猜疑心で胸を満たして、後悔と謝罪の言葉を吐かせたかった。
だけどそれよりも優先したいものが出来てしまったから。
司綿は優しい。
想像していた通りに、想像していた以上に。
彼がいれば舞彩は心配ない。彼は必ず舞彩を助けてくれるから。詩絵は詩絵のやるべきことをする。
誰も来るはずがない、午前中のスナック。
早く準備をしなければいけない。
鍵を開けて中に入り、その扉が閉まる直前。
ぞわりとした。
前もそうだった。この瞬間にドアに手を掛けられ、楽口に話しかけられた。
嫌な予感がしたから、悪い現実が訪れる。
そんな風に。
「おい」
血で汚れた手と、獰猛な低い呼び声。
閉めようとした扉の隙間から内側に漏れてきたそれに、体の芯が震えるような寒気を感じた。
ぎゅうっと下腹が締め付けられるような息苦しさ。
無理やりドアを閉める力もなく、とにかく離れたくて店の奥に進んでしまった。
袋小路に。
「埜埜の奴はどこだ? あぁ?」
「が、も……」
ドアを開けて、その出入り口を塞ぐような巨躯が詩絵をさらに奥へと押しやった。
後ずさり、椅子にぶつかる。
血が流れている。手に。
ガラスで切ったような傷もあれば、何かに無理やり叩きつけたように皮が削れた痕も。
今、死なれては困る。
だからメッセージを送ったのに。車に用心するように。
少しはコントロールできると踏んでいたが、そんな詩絵の計算など意味がなかったらしい。
メッセージを読まなかったのかもしれない。
おそらく車には巻き込まれたのだ。怪我をした様子を見ればそうとしか考えられない。
だけどまさか、その足でなぜこの店に来るのか。
どうにかこの場を切り抜けなければ。
そう思うのに、膝と腹がびくびくと震えだして言葉が出てこない。娥孟を目の前にして歯が音を立てて。
娥孟を見上げて目を逸らせないでいる詩絵に、傷だらけの娥孟の顔に疑問の色が浮かんだ。
それから何か閃いたのか、ぎょろっと目を見開いた。
黄色いヤニだらけの歯を見せて笑う。答えを見つけた、と。
「俺を知ってるってことは、お前もセンセイの関係者ってわけだ。だろぉ?」
逃げ場のない薄暗い店内。
若い女と、血走った男が二人。
娥孟は痛みを思い出したのか、手の傷を舐めてからはっと笑った。
「俺に舐めたことしやがって……ちぃと話を聞かせてもらわねえとな。埜埜の居場所も、センセイを呼んでもらうのもいいぜ」
怖い。
娥孟の手が伸びてくるのが怖くて動けない。
詩絵に向けて手を伸ばしかけて、娥孟はそこでもう一度疑問の色を浮かべた。
「お前……どっかで見たような……」
幼女だった詩絵の面影を見出して、しかし思い出せず。
あらためて詩絵の容姿に視線を這わせてからせせら笑う。
「どうせムショに行くことになんだ。かわいそうな俺のために、お前の声で慰めてくれよ。なぁ」
過去の恐怖が、薄暗い室内で詩絵の心と体を鷲掴みにした。
◆ ◇ ◆




