43.暗い順路
「角度が悪くてすみません。窓は隙間くらいしか開かなくて」
「いや……」
「ほら、ここです」
画面に映っているのは、路地裏で明らかにトラブルめいたやり取りをする二人の男。
何かを奪われた後、文句を言ったのかもしれない。
振り向いた男が、容赦ない力を込めて拳を叩きつけた。
「っ」
音まで拾えているわけではない動画だけれど、潰れる音が聞こえるような気がした。
楽口を殴った大男。あれが娥孟萬嗣。
続けて膝を叩き込むところは画面の下に切れて映っていなかった。
そのまま画面下に倒れた楽口に唾を吐いた娥孟は、路地を出てから周りを気にした。
目撃者がいないかと。そして足早に立ち去る。
「人間、上には注意が向かないものですね」
詩絵は一人でホテルに入り、部屋の窓から路地を撮影していたそうだ。
隙間程度しか開かない窓からホテルの裏路地を。
「立地的にこうなるだろうと思ったのですが、窓の位置までは把握しきれなくて」
「……そう」
いつから計画していたのだろうか。
こんな風に娥孟を利用するなんて思ってもいなかった。確かに詩絵や僕が腕力でどうこうするよりずっと有効な手だけれど。
「死んだ……の?」
「残念ながら」
詩絵はそう言って首を振る。
「たぶん生きています。確認までは出来ませんでしたが」
残念だけれど、生きていると。
息が漏れた。
安堵の。
「この後、通行人が見つけて救急車を呼びました。あの勢いで鼻面を殴られたので前歯くらいは折れていると思います」
「そう」
「よほど打ちどころが悪ければ死ぬかもしれませんが。数日は特にニュースに気をつけましょう」
背背の時のように見落としたりしない。
おそらく明日には暴行傷害事件として報道されると思う。被害者の症状と共に。
犯人は娥孟萬嗣。今の時点で容疑者になっているかわからない。
「どうやって娥孟を?」
「差詰のように社会的地位を持つ人間とは反対に、暴走族のような反社会的なタイプの人間も実名でSNSをする傾向があります」
驚き戸惑う僕に、詩絵は思い描いた通りの結果に気をよくしたように教えてくれる。
とても上機嫌。
「若い時に非行に染まる人間というのは大抵、成人後も大して変わりません。中身は単純で行動を予測しやすい」
短慮で直情的。
金に困っているとわかっているのだから餌を仕掛けるのも簡単。
「……舞彩?」
ふと見れば舞彩の顔色が悪い。
血の気を失い、目線を下げたまま。
つい先ほどはいちご大福で笑顔だったのに、急に病気にでもなったように。
「大丈夫?」
「うん……うん、ちょっと」
言いにくそうに戸惑う舞彩の頬に手を当てた。
熱があるわけではない。
「あいつの顔見たら……ちょっと」
「そうか」
娥孟が動いている映像を見て怖くなってしまった。
僕だって、躊躇なく他人に暴力を振るう娥孟の姿には恐怖を覚えた。小さい頃にあいつと一緒に暮らした舞彩に影響がないはずがない。
「しっかりなさい、舞彩。あの男もいずれ」
「詩絵、いいから」
復讐の為に気を強く持てという詩絵の言葉もわかるにしても、それだけでなんでも解決できれば苦労はしない。
僕みたいに気持ちがフラフラと揺らいでいてはいけないと思うけれど、舞彩の心に刻まれた恐怖心は簡単には解けないだろう。
「大丈夫だから。ここにあいつはいない」
「うん……ごめん、お風呂入ってくる」
小さく頷いて立ち上がる舞彩の背中を見送り、息を吐いた。
「娥孟にも始末をつけます。これは私たちの問題ですから」
「詩絵……そうじゃないんだ」
二人になって詩絵と向き合い、なんと伝えればいいのかわからない。
とりあえず気になっていることから聞いておく。
「楽口秋基の方はどうやって?」
「私がホテルに誘いました。昨夜埜埜の店で鉢合わせて、私に情欲を訴えるので」
「詩絵」
「指一本触れさせていません。心配はいりません」
平然と言うけれど、それでいいというわけじゃない。
間違えればどんな目に遭っていたか。
本当になんと言えばいいのか。舞彩と結婚しておきながら詩絵が他の男と会話をしただけでこの嫌な気分を。楽口秋基だから余計に。
自分勝手だとは思う。けれど。
「危険なことはやめよう、詩絵」
「司綿……」
「危ないことなら僕がやるから、君と舞彩はやめてほしい。お願いだ」
復讐なんてやめよう、とは言えない。
僕がやると誓った。彼女らと共にやると自分で決めたことをなかったことにするなんて言えない。
「楽口のことはこれで十分だ。詩絵と舞彩が危ない目に遭うのは嫌なんだ。どうしても」
「……」
視線を迷わせた詩絵に対して、先ほど舞彩にしたように頬に手を当てた。
ほんの少し表情が和らぐ。
ああ、と納得した。
ずいぶんと上機嫌だと思ったのだけれど。
「僕の為に、ありがとう。詩絵」
「司綿……」
褒めてほしかったのだ。楽口を痛い目に遭わせた、うまくやったと。
復讐をする。
僕を不当に貶めた人間に対する復讐の手伝いをする。こんな風に。
そうしようと言った僕がこんなに弱い気持ちで、詩絵は純粋な気持ちで。
そんな彼女に僕が言えることは、なんだろうか。
「でも、もういい……僕の為に危ないことはしないでくれ」
「……」
「娥孟は僕がどうにかする。僕にも、君たちの為に何かさせてほしい」
復讐なんてやめようとは言えない。
僕のことはもういい。けれどきっと、娥孟萬嗣が生きている限り舞彩は心のどこかに不安を抱え続ける。
僕を助けてくれた詩絵と舞彩。彼女たちの為になら、娥孟を殺して刑務所に入ったっていい。僕なんかにできる精いっぱいのこと。
「司綿……」
「詩絵、君を」
詩絵の頭を抱き寄せた。
舞彩がいないからなのか、素直に小さな体を寄せる詩絵。
刑務所から出た日の僕は何も見えていなかった。
世間全てが敵のように見て、怯えて、考えることも放棄していた。
だから気づかなかったのだけれど、詩絵だって特別な人間ではないのだ。
本来なら甘えられる母親はその役を果たさなくて、夢に描いた僕を本物のように思い込んできた。
僕の役に立つように背伸びして頑張って、上手にできたと報告する。
まるで子供が親に満点のテストを見せるように。
否定なんてできない。
でも、このまま危険なことを続けさせるわけにはいかない。
僕にできるだけのことをしよう。二人を守る為に。
「君が好きなんだ……詩絵、だから」
「……わかりました」
真剣な気持ちが伝わったのだと思う。詩絵は頷いて僕の胸におでこを擦り付ける。
「あなたに黙って危ないことはもうしません」
「そうしてくれ」
「次は、危険ではない手を打ちますから」
聞いて聞いてと訴えてくる少女にやめようと言い出せなかった。
後戻りなんてできない。そういう言葉は出所した日に言うべきだったのだ。
彼女らの体温に甘えておいて、いまさら後悔する資格なんて僕にあるはずもない。
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