42.金品の人品
楽口は約束通り、二時より早く店を訪れた。
早すぎたのか鍵はまだ開いていない。浮かれてしまったのは仕方ない。
このまま待っていれば来るか、すっぽかされたなら自分が間抜けなだけと思っていたのだが。
昨日伝えたSNS宛に連絡が入った。
やはり人目が気になるから、もう一つ別通りのホテルで会いたいと。
話が早い。最高だ。
昨夜も遅くに連絡があった。五万くらいお願いしたいと。
その手の商売の相場から考えればかなり高いが、彼女のレベルなら全然いいだろう。色々とよろこばせてやって、楽口とのセックスを楽しむようになれば続きも期待できる。
一度体を許せば、ずるずると。
その最初の一度が難しいのだと。
どんな形でもいい。ヤることをヤってしまえば情が移ることだって。
仮に今回限りになったとしても、若い美少女の肌を堪能できるなら損ではないだろう。
もしよほど期待外れだったなら渡す金を減らせばいい。向こうだって後ろ暗いことをやっているのだから。
うきうきと、指定されたすぐ近くのホテル――ラブホテルだった――の看板を見つけて、横の路地で彼女が来るのを待った。
今日はなんていい日なのだろうか。
「なあおい」
看板の前を通り過ぎるのかと思った大男が、不意に向きを変えて楽口に迫った時。
ずっとチェックしていたスマホ画面から顔を上げて、咄嗟にどうすべきか判断できなかったのは仕方がない。
もう頭の中はこの後のことでいっぱいだったのだから。
「は?」
「お前、さっき埜埜の店から出てきたよなあ?」
埜埜の店。
パンジーちゃんが働く店を訪ねて、閉まっていたからここに。
そういう順番だったのは間違いない。
「あ、いやその……」
でかい。楽口より頭半分以上。
服の上からでもわかるくらい体の厚みも違う。染めてからだいぶ経っているのかまだらな汚い金髪もどき。
「ちょっと話をしようぜ、兄ちゃんよ」
「あ……」
逃がさないという構えで。
明らかに荒事に慣れた男を目の前にすれば、逃げられる気もしない。まして今は狭い路地に入ってしまっていて。
人目が気になるからと言われて人目が付かないところにいた。
気にしていたのはママの目もあったのだろうが、もしかして他にも心配事があったのかもしれない。
そうだ。埜埜は背背のボスの愛人だと言っていたのだから。
「い、卑金……さん、の……?」
「あ?」
男は一瞬、不思議そうな声を漏らしてから、いやらしく底意地の悪い笑みを浮かべる。
「ああそうだなぁ、話がはええじゃねえか」
わかっているなら話が早い、と。
大男のせいで薄暗い路地裏がさらに暗くなったように感じた。
「ご、誤解っす。俺は埜埜さんとは何も……」
「おいおい、そういう話が通る筋か?」
「本当に……いや、マジっすから」
誤解されている。
楽口が埜埜と後ろめたい付き合いをしているとか、そんな誤解を。
後ろめたいことは本当だとしても相手が違う。恨まれる筋合いはない。
「俺からセンセイに話した方がいいか? さっきからお前、ずいぶんズマホ気にしてたじゃねえか」
「これは、その……」
「それ最新の機種か? 俺にちっと見せてくれてもいいだろ?」
強引にスマホの内容を見せろと言ってくる大男に首を振って、
「ほんとすんません、勘弁して下さい。その……」
荷物の中には、見られたくないものもある。
女を悦ばせるための道具、だとか。
どんな手段でもパンジーちゃんを気持ちよくさせてやろうと準備をしてきた。初心で若い彼女に大人の遊びを教えてやろうと思って。
「か、金! すんません、心配かけた迷惑料なら払うんで……ほんとに」
「へえ……ああ、俺も余計な心配させられたわけだからな。誤解だってんならまあセンセイに言う必要はないわな」
「でしょ……ねえ、ほんと」
余分に現金を持ってきておいてよかった。
金は大抵の問題を解決してくれる魔法の力がある。
相手の立場からすれば、楽口を泳がせた方がまた収穫のチャンスがあるかもしれないのだ。今ここで捕まえる必要性は低いはず。
事実として楽口は埜埜さんとやらと関わりなどないのだから、次なんてことはないのだが。
「ほ、ほんと……あの」
「わかったって、よ」
楽口が開きかけた財布からごっそりと札を引き抜かれた。
文句を言いかけるが、一睨みされて言葉を飲み込む。
「……っとに、俺が物分かり良くてよかったなぁ。お前」
数千円を財布に戻して、これで勘弁してやると。
最悪だ。本当に最悪。
女に盗まれたりすることを用心して財布を分けていたから、取られたのは五万だけということになるのだが。
「……んで?」
「は……?」
「埜埜は来んのか? 今から」
来るわけがない。約束どころか面識もないのだから。
本当に誤解で金をとられただけ。警察に被害届を出したらどうなるのだろうか。
それも怖い。卑金議員に盾突くことになる。高い勉強代だったと泣き寝入りするくらいしかないかもしれない。
「来ないっす。つか、本当に誤解なんで」
「あぁ?」
不審そうに唸られるけれどどうしようもない。
楽口は事実を言っているだけなのに信用されない。状況が悪すぎる。
実際の待ち合わせ相手が来てくれたら誤解は解けるかもしれないが、別の面倒になるのかも。
「……?」
遅い。
連絡の様子からすればすぐに来そうなものだったのに。影も形もない。
「だま、された……」
頭が一気に冷めた。
浮かれていた楽口の気分と、今のやり取りでの動揺。
混乱する頭の中で納得できる答えを見つけて、腹の底から苛立ちが湧きたった。
「くそ……パンジーちゃんが……っ!」
小さく呻いた。
男にも聞こえるだろうが、わざとだ。
この大男が楽口の待ち合わせ相手を知らないのなら、それを伝える為に。
グルだったなら、悔しがる楽口を笑うだろうけれど。
効果はてきめんだった。
「あァ?」
◆ ◇ ◆
無神経で傍若無人なのが娥孟萬嗣だが居心地が悪いこともある。
十数年ぶりにこっちに戻ってきたわけだが、住む場所があるわけではない。
昔、世話してやった知り合いのアパートに転がり込んで、だらだらと過ごしているわけだが。
宅配便と偽ってドアを開けさせ、古い付き合いを押し通して上がり込んだ。
気弱な男だ。娥孟に出ていけとは言えない。
しかしそれが二週間以上続けば、いつまで居座るつもりかという空気は満ちてくる。
水道光熱費もかかるわけだし、適当に冷蔵庫の中身を漁って食ったりもした。
一応、埜埜からもらった金の一割を宿賃だと言って渡している。明らかに不足だが、タダで居座っているわけじゃないという了解をさせる為に。
先行きの見通しが立たない。
酒もタバコも満足に買えない現状を不満に思いつつ、じゃあ真面目に働くかと言われればそんな気にもならない。
楽して金を手にした。
埜埜の娘が釣り上げたバカな男。その親から多額の賠償金……示談金を受け取って、それからロクに働きもせず過ごした。
その金も次第に乏しくなり、苛立ちから暴力沙汰を起こして刑務所に入ったわけだが。
出所して、さあどうするかと。汗水流して働くことがバカバカしいとすっかり体が慣れてしまった。
過去の成功体験が娥孟をかつての町に呼び寄せた……というだけでもない。
娥孟だってスマートフォンくらいは使う。特別に詳しいわけではなくとも。
一応は流行りのアプリだとかSNSは触っていた。
出所後まもなく、そのSNSに知らない誰かから連絡が入る。
現在の干溜埜埜の店。
その情報があったから、またこの町でうまい儲け話がないかと戻ってきたのだ。
だがそうそう甘い話などあるわけがなく、無駄に時間を過ごすだけ。
また埜埜に金を無心にいくか。
あるいは飲み屋周辺で働き口を紹介してもらうのも手かもしれない。飲み屋や隣接する風俗街などでは娥孟のような人間を必要とすることもある。
働きたくなくても仕事をしなければ金に困るのだから。
家主には今月中に出て行くなどとうそぶいて、特に当てはないまま。
そんな娥孟のスマホに再び見知らぬ誰かから連絡があった。埜埜の店を教えてくれた奴だ。
――今日の午後、埜埜が男と密会する。
そういう内容だった。
なぜそんなことを知っているのか、なぜ娥孟に教えるのかとか。
嘘か本当かもわからない情報だったが興味を引くには十分だ。
別に嘘でも何でも構わないが、実際にそうなら。
面白い。金を引き出せそうだ。
やはりあの女、五十過ぎの議員先生なんかで満足できるタマじゃない。こそこそと昼間から密会とは。
別に嘘でも構わないと思って足を運んだ。
現場を捕まえなければ意味がない。幸いなことに娥孟の自由時間は十分にあった。
本当に、開いているはずのない昼間の埜埜の店に入ろうとする男を見つける。
待ち合わせ場所が違ったのか。飲み屋街から通り一本ずれたラブホテルに向かって、その看板に隠れるような路地で待つ様子。
間違いない。こいつが間男だ。
埜埜の姿はまだないが、まあいい。
締め上げてスマホの中身でも見れば言い逃れもできないだろう。
やましい気持ちがあったのだろう。
卑金の取り巻きと勘違いされて、迷惑料をくれると言う。
話が早くて助かる。これは恐喝ではない、相手側が迷惑かけたから払うと言っているのだから。
全部を奪うと遺恨が残る。
一部だけ、万札以外は返してやる。電車賃でも飯代でも少しは必要だろう。
この辺はベテランチンピラの娥孟なりのさじ加減というやつだ。
そもそも本命はこの男ではない。
埜埜の方が金を取れる。ご主人様に隠れてチャラい男と遊んでいた事実をネタにすれば、また金をくれるだろう。
卑金の部下がこの間男を後でどうにかするかもしれないが、それはまた別の話。娥孟には関係ない。
このまま待っていれば埜埜が来るだろうか。
来たところを捕まえて、お店の方で話をしてやるのがよさそうだ。
通りの方を気にした娥孟の耳に、間男の悔し気なうめき声が届いた。
「くそ……パンジーちゃんがぁ」
この男の名前は知らないが、相手は娥孟を知っていたらしい。
埜埜から聞かされていたのか。こんなチャラ男と淫らに交わり合いながら、娥孟の話を。
パンジーちゃん、などと。馬鹿にした呼び名で。
「あァ?」
ぶつんと切れた。
次の瞬間、万札を握りしめた拳がラブホテルの壁との間にチャラ男の頭を挟んだ。いい具合に勢いをつけて。
◆ ◇ ◆




