40.花の名は
目当ての店は開いていなかった。
とは言ってもわざわざ隣町まで来たのだから、入ったことのない飲み屋でも行ってみよう。
飲まなければ運転して帰れるわけだが、わざわざ一時間弱かけて出てきたのに何も遊ばないのではつまらない。
行き当たりばったりの行動は楽口秋基にはいつものことだった。
目的のスナック近くの別の店に入る。
楽口の家のある市と違いここは県庁所在地の飲み屋街だ。一見でも入りやすい。
「ああ、埜埜さんの店ね。風邪をこじらせたって言ってたわ」
「目当ての子でもいるの?」
「前にも行ったことあるのよ、俺。あのママさんエロ可愛かったからさぁ」
「埜埜さんは駄目よぉ。彼女はこわぁい人のお手付きなんだから」
近場のスナック同士なのだからお互いのことも知っていて不思議はない。
明らかにその埜埜さんより見劣りする女が、狙っても無駄だと楽口に甘ったるい声で言いながら笑った。
「怖い人ぉ? なにそれ、ヤのつく人とか?」
「あははっ、違うわよぅ。もっと怖くてえらぁいセンセイのお気に入りなの」
「そっかセンセイかぁ」
言われてみて楽口の頭の中で繋がった。
背背の上司というかボスは卑金議員のはずだ。センセイとは卑金で、あのママはその愛人のような立場なのだろう。
だから表に出したくない話もあそこでできたのだ。
議員様ともなれば、やはりいい女を囲えたりするんだなとか。
それに手を出すのはリスクが高いだろうとは思う。今回は情報収集目的だったから下心は少ししかなかったにしても。
「そっかそっかぁ」
「ウチをひいきにしてよお兄さん」
「あったり前じゃん、これからはここでしか飲まないって」
予定が外れた分だけは楽しんでいこうと適当なセクハラトークをしながらの酒を飲み、そこそこいい気分で店を出た。
当初の目当てよりランクは落ちたかなと、店を出てからやや物足りなさを覚えたりもする。後悔なんてそんなものだ。
未練がましく、もともと行くつもりだった埜埜さんとやらの店の入り口の方を見ると――
「……あ?」
小柄な女がドアを開けるところだった。
しばらく休みますの張り紙はそのままで、だけど鍵を開けて。
店のスタッフか。
遅くなったけれど今からでも店を開けるのかもしれない。ママ不在でも。
ちらりと見えた姿は、とても若くてやたらと可愛い。
先ほどの店の女性スタッフと比べれば格段に。あんな子が働いている店なら多少高くても損とは思わない。もし金で解決するなら相場以上を支払ってでも仲良くなりたいくらい。
「ちょっと、ねえねえ」
「っ!?」
閉まろうとしたドアに手をかけたら、彼女はぎょっとしたように楽口を見た。
「ああ、ごめんねぇ驚かせちゃった。ここって埜埜さんのお店だよね」
「……なんで……なんですか?」
突然後ろから店のドアに手をかけた酔っ払い。
不測の事態に戸惑う女の子は、あまり接客慣れした様子ではなかった。
「いやいや、俺ってばこのお店に用があって来たわけよ。お客さんだって」
「……お店は休みです」
「みたいだねぇ、それでがっくりしてたとこに君がいたからさぁ」
客だとアピールして、戸惑っている彼女に強引に話を続けた。
男慣れしていない。こういう商売をしているのに妙なことだが、初々しい素人っぽさが余計に楽口の心をくすぐってくれる。
やや内向的な女の子というのは、多少強引にでも迫ると断り切れないことがあるものだ。
ここで退いてしまったら落とせない。こんな可愛い子と二人で話す機会なんてなかなかないのだから、酔った勢いも味方にしてドアから手を離さない。
「君もこの店の子? 見たことないなぁ」
「……」
「困らせてごめんって。本当に悪いと思ってるけど、こんな可愛い子がいるなら俺ってばいくらでも払っちゃうよ。個人的にさぁ」
二十歳そこそこで水商売なんてしているのなら、金に困っているに決まっている。
ママ不在の今、いくらでも払うからお話しようと言えば乗ってくるという勝算もあるはず。
酔っていたせいもあって、当初の目的だった背背関連の情報収集なんてことはもうすっかり忘れていた。
「関係者、ですけど」
「お店がお休みだったらさぁ、別の場所でもいいからお話しようよ。好きなとこでいいから」
「……あなたは?」
質問されたということは興味を引いたということだ。やった。
満面の笑みで答える。薄い愛想笑いの彼女に。
「俺? 俺ってば秋基ちゃんって言うのよ」
「はあ」
「あ、下の名前ね。気軽に秋基ちゃんって呼んでやってくださいよぉ」
名字ではなく下の名前で呼ばせる。こういうのも距離を縮める為の手段。
楽口の下心くらいわかっているだろう。何とも言えない様子で、けれど思案する間があった。
悩んでいる。これはいい、すごく良い。
「ほんと時間は取らせないって。一軒だけ、飲みいこ。お願いっ」
「一軒だけ?」
「席料代わりにチップも払うからさ。三十分……いや、十五分だけ俺ちゃんの話に付き合ってよ」
時間を区切ることでイエスを取りやすくするトーク。
店は休業中だけれど十五分だけ話に付き合えばチップを払う。ハードルを下げて一度頷かせれば、次のハードルも下がるものだ。
「ほら、オッケーならほら、行こう。ワインが美味しい店知ってるんだ」
でまかせだが、とにかく話を進めてしまえばあとはどうでもなる。
これは成功パターン。釣ったのは今までの人生で最高レベルの女。
「……今日は無理です」
「えぇぇー、なんでさぁ? 俺ってばほんとこう見えて誠実よ。嘘とか言わないし」
「それはいいことですね、本当に」
女が、それまでの薄い表情とは違う顔を浮かべた。
突然に色付いたように艶やかな笑みを。
「今日は、無理です」
「……へぇ」
なるほど。そりゃあいきなり誘っても頷けない事情もあるだろう。
別の機会を作るなら了承しなくもない。そういうことだ。
「この辺のお店は横のつながりもありますから。時間外営業なんて見つかると面倒、ですので」
「そうだよねぇ、そりゃそうだ」
「だから」
ハンドバッグから手帳を出した。
ペンを手にして、連絡先を求めるように。
今どき、連絡先を手帳に書くなんて珍しい女の子だ。
……なんだか最近、似たような感想を持ったような気がするが。
「昼過ぎなら、この辺はほとんど人気がありませんから。明日なんてどうです?」
どうです、だなんて。
なんて可愛いことを聞くんだろうか、この子は。
「オッケーオッケー、なんにも大丈夫だってば。他の予定なんて全部吹っ飛ばしても会いに来ちゃうって」
「調子のいいことばっかり」
「ほんとほんと、神様でもなんでも誓いまくっちゃって君の……ええっと、君の名は? なぁんて」
浮かれながら言葉を並べ立てて、まだ聞けていなかった彼女の名前を尋ねた。
少し悩んだ顔をしてから、うんと頷いて綺麗な唇を開いた。
「パンジーです」
「それってお店での名前でしょ」
「続きは、また明日。二時にここの鍵を開けておきますから」
人気のない飲み屋街で、ママの不在のお店の鍵を開けて。
それはもう、楽口を最高にハイにさせてくれるお誘いだった。
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