35.手の跡
「事故、だな」
さっさと仕事を終わらせて帰りたい。
真冬の屋外での仕事なら誰だってそう思うだろう。
警察だと言っても人間なのだから同じだ。小暮もまた同じ。
真冬の、しかも強風吹き付ける波止場など長居したい場所であるわけがない。
氷よりも冷たく感じる波しぶきに身を縮めながら、死体が上がったという防波ブロックの当たりを覗き込んだ。
「酔っぱらって千鳥足。日中にここらで魚釣っていい気分だったってところだな」
昨夜、議員の秘書が海に落ちた。
新年会の席から酔い覚ましと言って外に出たと言う。その時点では今のような強風ではなかったはず。
戻ってこないので探しに出た漁港関係者二人が、まさに海に転落する被害者を見たのだとか。
経緯は複数の人間から何度も聞き取りしているが、まだ酒臭いが残る連中も含めてだいたい同じ内容だった。
何かで口裏合わせているわけでもないだろう。そういう場合はボロが出る。
「背背さん、いい人だったになぁ」
「付き合いのいい、話しやすい人だったんじゃ……残念や」
「敷板の端っこ踏んで落っこちちまうなんて、やっぱ酔っぱらっとったんじゃろう」
漁師たちが口々に言うのを後ろに聞きながら、白い息を吐く。
落下したという周辺に膝を着いて刷毛で払い調査している鑑識職員。
彼らも早く帰りたいだろう。堤防に残った死者の爪痕なんて新年早々に見たいものではない。別に新年でなくても関係ないか。
「俺らがちゃんと点検しといたらなぁ」
「わざに端を歩くやつもいねえから」
堤防になっているコンクリートブロックの継ぎ目に鉄板が渡してあった。
普通なら歩くのに何も問題はない。
酔っていたせいなのか雪の影響だったのか、被害者背背羞奨はわざわざその鉄板の端っこを踏んだ。
経年劣化で腐食が進んでいたのだと思われる。端の方に重量がかかったからという理由もあったのだろう、固定していた留め金が折れて鉄板ごと真冬の海に落ちた。
想像するだけで身震いする。
伸ばした手は堤防を掠って爪が剥がれた。
氷点下に近い夜の海に落ちた場合にどうすればいいのかなど、小暮だってわからない。
ショックで死ぬかパニックになるか。
落ちる瞬間を見ていた漁港関係者が大声で仲間を呼び、海に落ちた背背を助け上げようとしたらしい。
ただほとんどが酔っ払い。
防波ブロックに引っかかった背背を引っ張り上げようとしたが、もたついている間にも冷たい波が次々と背背にかぶってきた。
最終的な死因はどうやら心臓発作のようだ。
窒息や溺死ではない。
まあ死因が何であれ死んだ本人にはもう関係ない。報告書を作る方の問題だが。
「小暮さん」
「おぅ」
防波ブロックの隙間から拾い上げた鉄板を調べていた同僚に呼ばれた。
調査が終わったならさっさと引き上げよう。
「深酒しての水難事故だな」
「そうやって決めつける発言したらダメだってまた課長に怒られますよ」
地元のテレビ局、報道関係の人間も来ている。そういう場所で迂闊なことを言うなとよく注意されるのだ。
とはいえ状況から見て確定的な話。
「あぁはいはい。公式発表を待てってな」
クソ寒い真冬の港でないのなら待ってもいい。さっさと引き上げたい。
どうせ結論は同じことだろうが。
「注意喚起の呼びかけと再発防止の為に近隣港湾の安全点検、だろ」
「それはそうなんですが」
小暮より若い同僚が言いよどむ。
死者が出た海の方を見て表情を曇らせた。
「なんだ、死亡事故が初めてってわけじゃないだろう?」
「何度目だろうと慣れませんけどね」
「意外と肝が小さいんだな。どこにでもあるただの事故だ」
気分のすぐれない様子の後輩に気遣いともからかいとも取れる声をかけ、風の冷たさに襟を立てる。
小暮の言葉に後輩ははぁと溜息を吐いて、軽く首を振った。
「違うかもしれませんよ」
肝が小さいと言われて気を悪くしたのかもしれない。反発するようなことを言う。
「ただの事故じゃないのかも」
「何を言って――」
「女の手の跡があった……みたいで」
耳に入ってきた言葉が脳で理解されるまでに少し時間が必要で、それから小暮の目がぎろりと光った。
「……なに?」
「ただの事故、じゃあないかもしれません」
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