34.温度
「もう少し飲んで下さい」
ちらりと横を見た詩絵に促される。
「そんなに震えて、体を壊します」
「……」
助手席に座る僕に、ステンレス製の水筒に入った温かいお茶を飲むように。
少し飲んだけれど、なんでもないお茶の感触が先ほどの会話を思い出させてくれる。
子供の頃、遠足の時などに水筒の中身がお茶だと残念に思ったものだ。
よその子はスポーツドリンクだったりして羨ましく感じて。
そんな文句を言ったことがあった。その時の弁当の味なんてもう覚えていないのに、思い出す。
母親とすれば普通のことだっただろう。
当時の僕は幼くて、今も結局は立派な大人になんてなれなかった。
「背背と何を話していましたか?」
「……」
港での宴会の準備と片付けの仕事。楽口からの伝手で背背が関わる場所で。
仕事を終えた僕が戻るのを待っていた詩絵。遠目に見えていたか。
「何か、あなたのことを――」
「世間話だよ。魚を釣ったとか、背背の身の上話」
「……」
港から家に戻る道は曲がりくねっている。
薄っすらと雪の積もる道を、詩絵はゆっくりとしたスピードで進んだ。
「母親の……」
「はい」
「あいつの母親の話とか。魚料理が得意だったって」
「恥を知らない男です」
詩絵の声は冷たい。
僕の母親を殺しておいて、よくもぬけぬけと母の話題など。恥知らずが。
確かにその通りなのだけれど。
「もう死んだって言ってた」
「そうですか」
「……」
会話が途切れて、水筒からお茶を飲んだ。
温かさが胃の中に広がる。
「背背はおそらく今後も司綿に接触するでしょう」
「うん」
「心理学をかじった男。妻との離婚理由はモラスハラスメント。人を追い込むことを好む性格で、あなたの……」
「……うん」
カウンセラーと名乗って僕の母に近づき、死を選ぶまで追い詰めた。卑金の手下。
僕にとって最悪の仇。
「あいつにも、母親がいたんだ」
「……」
なのに、あの男にも母親がいた。
母親から見れば腹を痛めて産んだ子供。
当たり前のことだけれど、わずかな会話でそれを知る。母親の思い出なんかがあるのだと。
「背背を産んでこの世に送り出した母親なら、それも同罪です」
「違う」
咄嗟に否定の言葉が口から洩れた。
言ってから口に手をやり、自分の言葉を反芻する。
「それは……違う。子供の罪は母親には関係ないよ」
「……司綿」
僕が水筒をホルダーに戻していると、詩絵は開けた道路脇に車を寄せた。
母のことを思い出した僕が精神的に参っていると思ったのだろう。
停車して、僕の右手に手を添えた。
冷たい手。
車内でなくて外で僕を待っていたのかもしれない。寒かっただろうに。
ハンドルを離して僕の手を両手で包み込む。
「司綿」
「うた、え……っ!」
「司綿」
ぎゅうぅっと爪を立てて握りしめる。
痛みより驚きで声が漏れた。すぐ近くに迫る詩絵の顔を確認する。
「舞彩以外の人間に優しくしないで下さい」
「詩絵、僕は」
「司綿の優しさを、他の人間に向けないで下さい」
停車した車中でシートベルトを外して、両手で僕の手を掴んでいた。
強く力を込めて、外の空気より熱を感じない瞳に僕を映して。
逃がさないと言うように。しがみつくように。握り潰すくらいの強さで僕の手を取り、僕の目の中を覗き込む。
「詩絵……っ」
「……すみません」
血がにじむほど強く掴んでいた手から力が抜けた。
「司綿、あなたが優しいことは知っています。そうでしたね」
「……」
「……」
溜息交じりに呟いた後に黙り込んでしまった詩絵。少し迷ってから、その肩に手を伸ばして抱き寄せる。
華奢な体躯。
「ごめん、不安にさせた」
「……いえ」
出所後の世界に不安しかなく怯えていた僕に、全てを捧げて安らぎを教えてくれた詩絵と舞彩。
一緒に復讐しようと誓ったのに、当の僕がちょっと背背と言葉を交わしただけで揺らぐようなことを口にした。
僕は弱い。
体ではなくて、心が弱い。
いざ怨敵を目の前にしておきながら、けれどそれも母の腹から生まれたただの人間だと思ったら気持ちが怯んだ。
「僕は別に優しくなんてないんだ」
「司綿」
「だけど」
他人を傷つけるのが怖い。
間違ったことをしたと責められるのが怖い。
すぐに迷ってしまう。
「だけど詩絵。君と舞彩に必要としてもらえるなら、そうなる。君たちに必要なだけ優しくできるように頑張るから」
復讐するのだと決めた。
彼女らは僕の復讐を手助けしてくれる。
自分で決めたことくらい最後まで貫こう。そうでなければ彼女らに不誠実だし、母に合わせる顔もない。
そう、自分で決めたことなんだから。
◆ ◇ ◆




