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10.冷たい誓いの口づけ



 食事、片付け。トレーニング。

 これからの日課として腕立てと腹筋。外にランニングをと言われたけれど、僕の顔を見た詩絵が今日はやめましょうと言った。

 外で走ると言われた僕は、よほどひどい表情を浮かべたらしい。



 詩絵はモバイルPCを持っていた。

 旧式のものだが特に問題はないと。携帯無線の端末もあって電波圏内ならどこでも使える。

 通信手段を含めいろいろ計算した結果、これが最も効率的だと判断したと言う。


「一応、海外サーバーを経由して通信するように設定していますが、本格的に調べられたら私の契約端末と知られます」

「それは……どういう?」

「復讐の為に調べものなどしますが、その中には他人に知られたくないこともあるでしょう」


 復讐。決して合法的な響きではない。

 詩絵は本気で僕の受けた不当な扱いに対する復讐計画を練っていたらしい。


「そういう場合は別の通信手段を用いたりしますが……司綿」



 舞彩がお風呂に入っている時間。詩絵の見せる画面を確認する。

 シート分けされたファイルの一枚目。


「この男は、覚えていますか?」

「弁護士……の」

「そうです」


 顔写真を見て思い出した……わけではない。

 襟につけられた金色の記章。弁護士バッジ。

 裁判の為に会って話すことが多かった相手だが、僕は他人の顔を見て話すのが苦手だったから。目印のようにそのバッジのあたりを見ていた。

 来ているスーツの雰囲気も似ているからそう思っただけだ。


「当時の公選弁護人、差詰(さづめ)作論(さくのり)。今は五十一歳です」

「……」

「四歳年下の妻と、二十一歳になる娘がいます。大学の法学部に通っています」


 それらのプロフィールがまとめられたファイル。

 淡々と読み上げる詩絵に目を向けると、彼女は軽く首を振った。



「顔写真は彼の個人事務所のサイトから。この手の人間は実名でSNSをやっていることが多く、家族の情報は彼らが自ら晒しているだけです。あなたが心配するようなものではありません」

「そう……」


 詩絵が悪いことをしたのかと疑ってしまったが、そうではないと聞いて安心する。

 僕の為に彼女の経歴を汚すなんてさせられな――


司綿(つかわた)


 僕の気の抜けた隙間に、詩絵の声が鋭く差し込まれた。



「差詰の情報についてはそうですが、他では表に出せない手法を用いたものもあります」

「表に、って」

「法に触れることもしています。私は」


 違法なことを。

 開けた口から何か言おうとして、言葉が出てこない。


 なんでそんな、だとか。僕なんかの為に馬鹿なことはやめろとか。

 言うべき言葉はあると思うのだけれど、前科者の僕に言える資格があるのか。

 はっきりと、堂々と僕に告げる詩絵に迷う様子はなく。


「いえ、そうですね。司綿、私が卑怯でした」

「そんなこと……」

「あなたの復讐だとばかり言って、私の本心を晒していません」



 そう言ってファイルを数枚切り替えていく。

 流れていく画面に一瞬だけ映った顔に見覚えがあるような、ないような。


 詩絵が止めた画面には、半端に伸びた汚い金髪の日焼けした男が映っている。

 これは……覚えがないような気がするけれど。



「十三年前。あのアパートで暮らしていた男です」

「君の……養父?」

「正確ではありません。私を産んだ女と当時交際していた男です。名は娥孟萬嗣(がもうばんじ)


 写真は、なんだろう。報道写真の一部のような。

 派手な赤紫のシャツから見える肩が、それだけで大柄な体格を思わせる。


「一昨年、暴力沙汰で逮捕された時の写真です。その時は隣の県にいました」

「暴力……」

「あの頃私たち姉妹に、憂さ晴らしのような暴行をしていたクズです」

「っ」


 幼い姉妹に生傷があったのは事実。

 僕でないのだから他の誰かが。この娥孟萬嗣(かもうばんじ)が。



「ギャンブルで負けたから。タバコが切れたから。私を産んだ女……干溜(ひだまり)埜埜(しょの)と言います。埜埜が生理中で、性欲を発散できなかった苛立ちで」

「そんな……こと、で」

「娥孟はその時の気分次第で、私と舞彩を泣かせる為に突き飛ばしたり引きずったり。重大な怪我をさせたら面倒になると考える程度の知恵はあったようです」

「……」

「自分で泣かせておいて、泣きだすとやかましいと怒りました。私たちはこの男の機嫌に怯えて暮らしていました」


 正真正銘のクズ。チンピラ。

 それが母親の内縁の夫として家にいた。



「ひとつ。もし舞彩の内腿に火傷の痕があったら、言わないであげて下さい」

「やけど?」

「この男が押し付けたタバコの火です」

「‼」

「自分の焼き印だと言いながら……あの子は覚えていないでしょうが、私は覚えています」


 身震いした。

 理解ができない残虐性に恐ろしさを覚える。

 続けて、彼女らの陰惨な幼児期に腹が煮えるような怒りを。


 そしてこの男――娥孟萬嗣は、幼い姉妹をいずれ女になると見ていたのだ。その時点では違ったとしても。

 焼き印などと称して舞彩の足に傷痕を。


「そんな、こと、を……っ」

「舞彩には言わないで下さい」

「あたりまえ……だ」


 言葉がつっかえるのはいつものことだが、いつもと違う。

 他人が苦手で緊張してではなくて、許せない悪行に対する怒りが抑えきれなくて。

 それだけではない。今の成長した舞彩を知ればこの娥孟が何をするのか。考えてしまえば背筋が震える。


 僕の奥さんになった舞彩を。


「……」


 ふと我に返る。

 僕の舞彩なのに、なんて。よくもまあそんなことを言えるものだ。



「司綿」

「……」

「私はあなたの復讐にかこつけて、娥孟への復讐も果たそうとしています」


 僕の復讐の手伝いをするからと言ってきた詩絵が、娥孟のファイルを閉じながら言う。

 舞彩が風呂から上がった物音がする。妹にこの男の顔を見せたくないのかもしれない。


「あの事件の後、娥孟は訪ねてきたあなたのお父様に土下座をさせ、その背中に唾を吐いていました」

「こいつ」

「あなたにとっても憎むべき相手ですが、この男に対する動機は私の私怨です。だから」

「違う」


 今まで復讐と言われてもピンとこなかった心が、すうっと固まっていく。

 曖昧なままどうすればいいのかわからない復讐という感情を、静電気でまとわりついてくるビニール袋みたいに思っていた。それが熱を受けて腹の底に確かに固まっていくような。


 明確な敵。

 悪人。救い難い外道。

 僕が負わされた罪の本当の所在地。娥孟萬嗣(がもうばんじ)



「僕の復讐だ」

「……」

「君たちのこともある。父さんのことも……虐待で刑務所に行くなら、この男が入れられるべきだったんだ」

「そうです」

「だからこれは、僕の復讐だ」


 舞彩を傷つけられた。

 言わないけれど、詩絵にも似たような傷痕はあるのかもしれない。

 いわれのない罪で謝りにいった父を這いつくばらせて唾を吐いた。父の気持ちを思えばそれも絶対に許せない。


 そして僕の十三年。

 かつての女児への虐待暴行の罪は、僕ではなく娥孟萬嗣が裁かれるべきもの。


 復讐しよう。

 この男は生かしておけない。こんな奴を世にのさばらせていていいはずがない。

 理由が見つかって、動機と目的が合致する。


「僕が、やるべきことなんだ」


 刑務所を出ても、何をすればいいのかわからなかった。

 ただ漠然と、漫然と、死ぬまで生きる。あてもなくふらふらと。

 詩絵がいなければそうなっていただろう。自分のやらなければいけないことも知らず、日銭を稼いでその日の飯を食い糞に変えるだけの肉塊。

 何もしないニートだった頃と大差ないまま。



「ありがとう、詩絵」


 彼女は僕の道を教えてくれた。

 正しい道へ導いてくれる、僕の天使。復讐の天使。


「僕に、君たちの手助けを……違うな。僕を手伝ってほしい」

「はい、司綿」


 詩絵と正面から向かい合う。

 六畳間で間近に。

 いつもなら緊張で痙攣する僕の喉だけれど、もうそんなことはなかった。本当の安らぎを見つけたみたいに。


 僕は正しい。僕の道は正しいのだから、無用に怯えることはない。


「この男を殺す。他の、僕が復讐しなければならない相手にも報いを」

「はい」

「これからも僕を助けてほしい」



 返事の代わりに詩絵の顔が近づいた。

 昨日はその彼女から逃げた僕だけれど、今日はもう違う。


 これは、正しいことだろうか。

 舞彩と婚姻届けを出した日に、その姉と。



「司綿」

「詩絵」


 これは約束だから、悪いことじゃない。

 舞彩が脱衣所から出てくるまで、僕の唇から冷たく柔らかな感触が離れなかった。



  ◆   ◇   ◆


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