11月1日 運命の人に出会うこと。四
さて、ボクが祈子を教室に案内しなかったのには、山を拓いて建てられている青蘭女学院の校舎がやたらめったら広いこと以外にも理由がある。
ボクは保健室登校なのだ。
2年蘭組に所属してはいるけれど、一日の半分以上は保健室で過ごしている。
教室でしか受けられない授業もあるし、教室に行くこともあるけれど、特に必要のないとき──たとえば朝のホームルームの時間とか、あの地獄の如き昼休みとか、学級会のときとか。
そういうときには、保健室で過ごしている。
月ヶ丘祈子と出会う前のボクは、そうやって過ごしていた。
彼女と出会って、教室で過ごす時間がわずかに増えた。
そして、祈子が記憶を失って検査入院のために学校を休んでいる間に元のボクに戻った。
巡り巡って元通り、というわけだ。
ボクは迷いに迷って、迷いまくって。
やっぱり今朝も保健室にいた。
月ヶ丘祈子が転入生として挨拶をする現場に居合わせるのが、怖くなってしまった。
彼女だって心細いはずで、ボクは彼女を守らなくちゃいけないのに。
最低の恋人だ。
一目惚れってやつは、人を愚かにする。
祈子の前で、弱いところを見せられないと思った。
理事長によって小芝居を命じられた顔も声も覚えられないクラスメイトたちが、祈子に「はじめまして」とかぎこちなく挨拶をする空気を吸いたくなかった。
「今日の朝のお散歩は長かったから、今日こそ、ここには来ないと思ってたのに」
北海道名物サケトバを囓りながら言ったのは、黒木沢先生。
高等部の校舎に勤める保険医で、ボクの数少ない話し相手だ。かなりの酒飲みらしく、勤務中には酒を飲むわけにはいかないため(当然だ)、こうしてサケトバを囓って気持ちを紛らわせているらしい。化粧っけがみじんもなく、櫛を通すのを面倒がっているらしい髪は無造作にお団子にまとめられている。アイロンのかかっていない白衣には皺も寄っている。正直、だらしない大人を絵に描いたような人だ。
それなのに、黒木沢先生には清潔感がある。
生徒のご機嫌取りのために猫なで声を出さないとか、保健室にやってくる生徒に妙な決めつけをしないとか、生徒に大切な話をするときに言葉を無駄な偽りで飾らないとか、そういうところに根ざした清潔感。ボクは黒木沢先生のことが嫌いではなかった。だからこそ、世界のどこにも馴染めないボクは、かろうじて保健室登校ができていたのだ。
「……昼休み。そこが、ボクが祈子に近づけるチャンスなので」
「チャンスって、そんな規則正しく流れてくる音ゲーのアイコンみたいなもんだっけ? フィールドに急に湧いてくるエネミーアイコンみたいなものじゃない?」
「もう少し大人らしい例えってないんですか……?」
「オトナに何を求めてるんだか知らないけど、要するに凝り固まるな若者よってこと」
サケトバを囓る黒木沢先生は、窓際にあるデスクに座ってラップトップに目を落とした。
ボクが彼女を信用しているのは、そのデスクによるものも大きい。
デスクの上は整然としていて、無駄なものはひとつもないのだ。
生徒にも教師にもやたらとプリント配布が多い学校内において、彼女は自前のハンディスキャナーを駆使して徹底した整理整頓をしている。見た目のだらしなさとは裏腹に、彼女の職業意識は高い。黒木沢先生の白衣には皺は寄っていても、汚れやシミはひとつとして見当たらないのだ。
だからこそ、黒木沢先生の中間を無視はできないのだけれど。
「……ホームルームで無様を晒すボクを最初に見られてしまうのは、ちょっとキツいです」
「無様を晒しあうのが恋人なんじゃないの?」
「まだ、ボクらは違うから」
「記憶がなくなると、絆も消えるの? 君は少なくとも、祈子ちゃんを恋人だって認識しているわけでしょう」
「それは──」
キン、と冷たい金属を擦るような耳鳴りがした。
頭が痛む。どうして急に。
思わず、ボクは座っていたパイプ椅子を軋ませて身を縮こまらせた。
黒木沢先生がひどく焦ったようにボクの名を呼んだ。
「大神さん!」
「……っ、いって」
「大丈夫? 今のは私が悪かったわ、申し訳ない」
頭痛はすぐに治まったので、ちょっとバツが悪かった。
「こちらこそ、すみません。別にたいしたことじゃ」
「もし体調がおかしければ、すぐに私に言って。ここは一応、保健室なんだから」
「一応って……。大丈夫です。大袈裟ですよ、そんな」
ボクが何度も大丈夫だと繰り返すと、黒木沢先生はようやく納得してくれた。
焦って床に落としたサケトバを名残惜しそうに見つめて、残念ながら捨てることにしたらしい。拾って食べる選択肢が彼女の中に少しはあったらしい。
とにもかくにも、昼休みだ。
ボクは今日の昼休み、月ヶ丘祈子に接触する。
祈子と「前に」交流を深めたときも、そうだった。
誰からも好かれる天使みたいな彼女は、昼休みには空に一番近い場所を探して、屋上に侵入してお弁当を食べる。昼休みで混み合う保健室を逃げ出したボクは、そこで祈子とお昼ごはんを食べるようになった。雨が降れば屋上の入り口の小さな日よけで肩を寄せ合えるから、嬉しかった。
今日は、晴れている。
彼女と初めて出会った日と同じだ。あの日も秋で、晴れていた。
昼休みになるまでは、保健室の硬いベッドで眠ろうか。あんな頭痛がするなんて、たぶん疲れているのだ。
──けれど。
今回は、そうならなかった。
「マコトちゃん!」
ミルクティ色の髪を靡かせて。
真新しい制服のプリーツを翻して。
祈子は、保健室に駆け込んできたのだ。
「え、あ、祈子……!? 今、朝のホームルームの時間じゃ……」
「うん、先生と一緒に教室に行ったらね、マコトちゃんがいらっしゃらなかったの」
祈子は当然のような顔で、ボクの前に立っていた。
「それで、私びっくりしてしまって。さっき、『またあとでね』って別れたのに、保健室にいるって聞いて、それで心配になって……来ちゃった」
「来ちゃった、んだ」
「はい、来ちゃいました」
「そ、っか……そうか」
十一月の晩秋とはいえ、日が昇れば若者にとってはまだ汗ばむこともある季節。
山の紅葉に彩られた窓は換気のために開けられていた。
窓から、祈子が開け放った保健室の引き戸へと、風が吹き抜けていく。
パイプ椅子で背中を丸めていたボクは、ふわふわの髪を風に遊ばせている祈子を見上げていた。祈子は、ボクに手をさしのべていた。まるで、本当の天使様みたいに。
記憶を失って、ボクのことを恋人だと覚えていない彼女は──それでも、ボクを探しにきてくれた。見つけてくれた。
「……ありがとう」
これは、ボクと祈子が出会ってから、一月以上経ってから起きていたことの再演。
今日、この日に、起きるはずはなかったこと。
心臓が痛い。
だって、祈子は記憶がなくても、ボクを迎えに来てくれた。
ボクは自分を深く恥じた。
だって、「以前と同じようにやればいい」「しくじらないように、上手くやればいい」という気持ちがどこかにあったのだ。
今の祈子と向き合おうとしていなかった。
「行ってらっしゃい、大神さん」
いつの間にか立ち上がっていたボクに、黒木沢先生が咥えサケトバのままコートと学生鞄を差し出してくれた。
ボクは鎧と砲弾を抱えるみたいにそいつらを身につけて、改めて祈子の手を取った。
「いってきます」
ボクは祈子と歩き出す。