11月1日 運命の人に出会うこと。一
十一月一日。
五時四十五分。
運命の人に出会うこと。
◆◆◆◆◆
小高い山を切り開いた通学路には、肌を冷やす秋の風が吹いている。
ゆるやかに曲がりくねった並木道。
右に行って坂を下れば校門、左に登れば険しい山道。
その別れ道に、天使が佇んでいた。
「……お待ちしておりました」
「え、え?」
初対面のはずだ。
初対面のはずなのに、待たれていた。
怖い、やだ、怖い。
ボクは思わず足を止めてしまった。
……いや。
本当は、彼女に声をかけられるよりも先に足を止めていた。
あまりにも。
彼女は、あまりにも美しかったのだ。
「え、あの、その」
「よかったら一緒に学校まで行っていただけませんか?」
「え、っと……それ、ボクに言ってますか?」
「はい、他には誰もいらっしゃいませんし」
それはそう。現在時刻は朝の六時前。
混んでいる電車が何より大嫌いなボクは、この非常識な時間に登校することにしている。始業までの三時間近くは、やたらと自然豊かな敷地内でトレーニングをしたり、図書館で二度寝したり、宿題を友人の冷徹女に写させてもらったりして過ごしている。
とにかく。
こんな時間に通学路を歩いている人間なんて、この一年間一度も出会ったことがない。
「ダメ、ですか?」
なぜかこんな時間に通学路にぼーっと突っ立っていた天使はこてんと首を傾げる。
可憐だ、超絶可憐だ。
その天界から舞い降りたような美少女がこちらに微笑みかけている状況に、ボクは死にそうになった。鼻血を吹いて死にそうになった。出血多量(概念)で死にそうになった。
こんなに綺麗な子が自分と同じ制服を着用していることに罪悪感すら感じる。
実際、なんらかの法律に反するのではないかとすら思ってしまう。
透き通る陶磁器の肌。
長い睫が縁取る大きな瞳は潤んでいて、わずかに翡翠の色を滲ませている。
ミルクティ色の髪は肩甲骨をふわりと覆い、天使の羽を隠しているみたい。
……あと、いい匂いがする。
近い、距離が近い。顔が目の前にある。
ああ、とボクは観念する。
これが、噂に聞くアレだ。
──そう、一目惚れ。
「あの、具合が悪いんですか?」
「へっ!? いや、違うよ、違います。大丈夫、です」
「私、月ヶ丘祈子です。今日から青蘭に転校してきました」
名前まで可憐な美少女、月ヶ丘祈子は深々と頭を下げた。
ボクは祈子が頭を上げるまでのわずかな間に、彼女を観察した。
ふくらはぎのなかばまでの長さがある濃紺のジャンパースカートのプリーツは、パリッとアイロンをかけられている。ブラウスもおろしたて特有の糊の利いた折り皺があった。
胸元のリボンタイは、深みのある赤だ。
私立青蘭女学院では学年ごとに固有の色を与えられている。
ボクのリボンも、彼女と同じ赤。
つまり。
──彼女は同学年の生徒だ。
「すみません、不躾に。恥ずかしながら、その、ものすごい方向音痴でして……左右どちらに行くべきか、わからなくなってしまいまして……」
いつから別れ道で立ち尽くしていたのか、月ヶ丘祈子はもじもじとはにかんでいる。
「オオカミ」
「え?」
「ボクの名前」
「オオカミ、さん?」
「そう。大神真琴。二年蘭組……です」
「まぁ!」
月ヶ丘祈子は、嬉しそうに顔の前で両手を合わせた。
そんなわざとらしいほどの可憐仕草が、死ぬほど似合ってる。
黒くて硬い髪を短く刈って、名前までオオカミのボクとは大違いだ。
「うれしい! 二年の蘭組でしたら、同じクラスです」
「そう、なんだ」
「お友達になってくださいね、オオカミさん」
「……」
祈子はそう言って、美しい手をさしのべてきた。握手を求めているのだ。
ボクはとっさにその手をとれなかった。
初対面での「お友達になってね」ほど信じられない口約束はない。
学校という場所で、たまたま同じ教室に放り込まれただけで友達になれる可能性は低い。この場合の「お友達になってね」というのは、はじめのチュートリアル期間中にお互いに「孤独なキャラじゃない」ことを証明するために仮のタッグを組もうという協定申し込み以上の意味はない。
一週間かひと月もすれば、「お友達になってね」なんて薄っぺらい言葉は破棄されて、おたがいの身分区分にふさわしいコミュニティで本当のお友達を作るわけだ。
ボクはそういうのが全部苦手だ。
ひとりが楽。
友達だって冷徹女以外にはいないし、いらないし。
目に見えない協定がいつも飛び交う女子校という場所は、ボクには少しだけ息苦しい。
だから、月ヶ丘祈子の申し出だって普段なら適当に断るはずだった。
友達になろう、だなんて。
こんな可憐で、綺麗で、まっしろな女の子と。
──ボクが、触れあうなんて。
「……? オオカミさん?」
ボクを不思議そうに見つめる祈子。
バツが悪い。
握手を断られることも、申し出を突っぱねられることも、少しも想定していない無垢な表情。
この手を払いのけて走り去ったら、彼女はどんな顔をするのだろうと少しだけ後ろ暗い想像をして──ボクは祈子の手を取った。
「よろしく、月ヶ丘さん」
「はい!」
本当に嬉しそうに。
秋の銀杏並木に、春の花が咲いたように。
月ヶ丘祈子は笑った。
「あの、私のことは祈子と呼んでください。月ヶ丘って、なんだか新興住宅地みたいじゃないですか」
「まぁ、たしかに。もとは芦沼とか泥川みたいな不吉な名前の湿地を埋め立てたニュータウンっぽいね」
「……あの、そこまでは言っていないのですが……」
「あ、ご、ごめっ」
やってしまった。
思ったことをそのまま言えば、ボクは嫌われてしまうのだ。
どうせ来月には祈子はクラスの上位カースト勢として、ボクから離れていく。それまでは、せめて円満に過ごしたい、平穏に交流したい、嫌われたくない!
はっ、とボクは息を呑む。
他人に嫌われたくない、なんて。
そんな気持ちを抱いたのは、いつぶりだろう?
どうやら、これは本格的にこの少女に一目惚れをしてしまったようだ。これはやっかいなことになったな、とボクは覚悟した。
慌てたと思ったら神妙に黙り込んだボクの様子に、祈子は慈愛に満ちた表情で微笑む。
「ふふ。行きましょう、オオカミさん……じゃなくて、マコトちゃん?」
「えっ!」
マコトちゃん。
いきなり、下の名前。
こういうのって、段階を踏むんじゃないの?
「私だけ祈子って呼んでもらっていたら不公平ですから……マコトちゃんって呼んでもいいでしょうか」
道案内と、握手と同じ。
ボクに祈子からの提案を断ることはできない。
「うれしい! いきなりお友達ができてしまいました!」
さっきから握手したままのボクの手を引っぱって、祈子は走り出す。
ミルクティ色の髪をなびかせて、紺色のスカートをなびかせて。
「……あの、祈、子?」
「はい! なんですか、マコトちゃん」
「そっち、山道なんだけど」
「はわっ!」
大赤面した天使は、すごすごと右の道へと引き返した。大変に可愛らしい。
方向音痴というのは得てして二択で負けるものだけれど、彼女もご多分に漏れないようだった。
「……さ、こっち」
ボクは祈子の手を引いて、我らが青蘭女学院の校門へと先導する。
祈子はボクの手をきゅっと握り返してくれて、ボクは切ないような、懐かしいような、むずがゆいような、叫び出したいような、そんな気持ちになってしまって。
一目惚れというのは、本当に厄介だなと思い知った。
──かくしてボクは、月ヶ丘祈子と出会った。