こんなの小説じゃない
「違うんだ! こんなの小説じゃない!」
男はそう言うと、四畳一間の中で簡素なちゃぶ台を叩いた。それはぐらぐらと揺れて、バタリと倒れた。散乱する用紙は、まるで波のようにうねって畳に落ちた。
こぼれたインクが、男の足の甲にべったりとついてしまった。頭をぼりぼりかいてふけをまき散らす男。彼は小説家を目指し、ひたすら紙とインクを消費し続けている。
しかし、これといった成果は出ずに、イラつきが積もるばかりであった。
「俺が書きたいのは、もっとこう……夢とロマンがあふれている、普遍的な……あぁ、頭の中ではこんなにも鮮明に映っているのに、どうして書けないんだ!」
男の悩みはいたって初歩的で、まだ一つも作品を完成させたこともない。
そのうえ、ここ最近は週に一度ほどしか外に出ていない。
他人の本を読むこともしない。
学ぼうとしないのである。
「畜生。感性は俺の方がすごいはずだ。例えば、ロボット同士の恋愛とか、話せる人形が主人公を異世界へと誘うとか。他の奴には思いつかない名作になるはずなのに……」
これまたベタな展開で、ありきたりな内容だと思うだろう。
しかし、男はこれが斬新な物語だと信じていた。
その想いだけで、形にならない文字の羅列を繰り返し、放り投げては、インクで足を汚す日々を送っていた。
――そんな日がもう少し続き。
男の髪に、白癬菌が湧いた。不潔にしていたから当然だろうが、さすがにショックだったのか、男は久々に風呂に入ることにした。
「ひでぇ……」
風呂場の鏡を見て、男はそう呟き、学生だった頃の自分の姿を思い浮かべた。
その頃の彼は、細身で髪も茶色く染めていた。流行り事が大好きで、ピアスも勇気を出して開けたりしていた。
念入りに髪を洗い、丸い白癬菌をこすり落とす男。目には涙がたまっていた。
(こんなはずじゃなかったのにな)
男が小説家を目指したきっかけは、学生時代に、ある文学少女に恋をしたからである。その子は暗く、影の薄い存在だったが、面白い小説を書く子だった。
「私。小説家になりたいの」
「へぇーじゃあ、俺もなろっかな」
「そんなに簡単になれるものではないと思うのだけれど」
「妄想を書きゃいいんだろ。楽勝じゃん。お前の満足いく作品を書いてやるから待ってろよ! ペンネームは、“白樺ナイト”だ」
このときの約束を、男は今も果たそうとしていたのだ。
それが、このざまである。
湯舟には垢と油がびっしり溜まっていた。心地よさなんてない入浴に、彼は心底嫌気がさした。もう諦めてやろうか。だとしても、待っているのは就職活動という絶望的な立場。
風呂場から出た男は、きつくなった服を無理やり着て、風量の弱いドライヤーで髪を乾かした。まだゴワゴワしていたが、白癬菌は洗い流せたようだ。
――コンコン
ノックの音がした。
訪問販売か何かだろうと思った男は、憂さ晴らしのために扉を開けて犬のように「出てけ、この野郎!」と吠えた。
しかし、目の前にいたのは、細身で髪の長い、眉の下がった幸薄そうな女性だった。手には洗剤を持っている。近くで工事をするからと、挨拶回りをしていたそうだった。
「……執筆作業。捗っていますか?」
「え。どうして」
「だって、毎夜“夢とロマンあふれる小説が書けない!”って嘆いていましたから」
「……」
男の声は、筒抜けだったそうだ。
手を口元にあてて笑う女性を見て赤面する男。
「俺。近所迷惑っすか」
「いいえ。ただちょっと怖いだけ」
「やっぱり……」
気まずそうに頭をポリポリかく男。まだ残っていたふけが、粉雪のように彼の周りをちらちらと舞っている。
「この歳になってまで、夢を追いかけるのも変な話ですよね」
「いえ。夢は、叶う可能性があるからこそ、輝いているんです」
「なかなか知ったようなこと言いますね」
「まぁ、小説家が私の夢でしたから」
「え」
そう言うと女性は、名前も言わずにお辞儀をしてその場を去っていった。手にした洗剤を眺めて男は思う。彼女は果たして夢をかなえたのか。それとも諦めたのかと。
その時、男のなかに、ある物語が降りてきた。
「そうだ。“夢のままでは終わらせない。叶う可能性を信じる限り、夢は無くならない”そう思い続けている女性が主人公の物語を書こう!」
同時に男は外の世界に創作のヒントがあることを知った。
彼は、今までの紙くずをすべて捨てて、部屋を隅々まで掃除した。気分が良くなった男は、久しぶりに実家に帰ろうと、外に出た。
鳥のさえずりや穏やかな風に身をゆだね、男は故郷に帰る。
彼は知らないだろう。
昔に恋をした女性が洗剤を届けにやって来た女性であることを。
女性は知らないだろう。
昔に約束した男が今も尚、夢を追って涼やかな秋風を浴びていることを。
こんな出会い、小説にするには、あまりにもベタ過ぎて、使えないだろう。
すべてを知るは秋に吹く風のみ。