この学校の鯉は登竜門を昇り、やがて龍になる
小説を書くようになってから、酒もなにも覚えなくてもいいものを知らなかった頃の風景が横からフッと差し込まれてくるようになりました。これも、急に、黄色した背景と一緒に草木の一本一本が現れてきて、そこを探り探りして出てきたものです。
うるさいほどの緑の繫茂と誰も降りてこない静寂、その頃を俯瞰するように読んでいただければ幸いです。
その学校は、中庭を囲むように配された造りになっていた。
最近の回廊風といった大きな広場でなく、昔の町屋によくある採光を考えての造りで、庭も真ん中に大きな池があることを除けば緑地としか呼べないような風景で、世間が思うような伝統校に似つかわしい意匠は何も配してはいなかった。
学生や時たま教員が昼休みや放課後のぼんやり時間を過ごす散策のほか、人気は見かけない。ひとりばかりの散策では、当たり前だが話すものは皆無で、静けさだけはいつも満ちていた。
かといって、この景色に陰気な影はない。ぐるりの校舎に配した全ての部屋の窓に直に接してるから、四階の窓からこうしてもたれかかっている女子学生のほかにも、塵芥のような時間と割り切った人たちのその先を見つめようとする視線のあちこちが斑に注がれている。
退屈だが怠惰になれない人たちの正直な視線が池の水面に注がれている。
ざぶーん さぁー しゅるしゅるー
池の中の鯉が水面を尾っぽで跳ねる音がした。四階でこちらを見ている女子学生の顎がわずかにこちらに動いたので、そこまで届いているらしい。飽きずにじっと見ていれば、3匹いる錦鯉か、その他の野鯉ななのか分かるだろうが、音がしてから覗くようでは三重丸四重丸に広がる輪っかよりほか見つけられない。それでも鯉が跳ねたあとの見えない魚影を追いかけると、運が良ければもう一度跳ねる姿を拝めることだってある。
白に黒の斑が見えた。かすかに朱の斑点も見えてるようなので、一番小さなシロだ。3匹いる錦鯉は大きい順に、あかね、くも、シロ。
あかねは、池の底から上がってくれば、白地に朱の鮮やかな身体がうねるのですぐに分かる。くもは、ぼんやりした黒模様が寒々した積乱雲のような手形で張り付いていて、水面に上がってくるまでは、一番小さくて黒の斑のほかに汚れのような朱が付着しているシロと判別がつかない。
元気に水面を跳ねる音を聞いて安心する。今日も元気でいてくれたのだと安心する。
春先のこの時期、池に腹を浮かべる鯉が一番多くなる。たくさんいる野鯉よりも錦鯉がその白い腹を浮かべるほうが多い。この学校に何らかの縁のある篤志家が、出荷後の秋口に、寄贈という冠を付けて毎年五匹の鯉を水に詰めた袋仕立てで送ってくる。
旅の途中で死んだ鯉が混じることはなかったが、売れ残りの鯉たちはそれを知ってるのだろう、半分は海岸部でも冬の厳しいこの地で冬を越せずに淘汰される。
「鯉に名前まで付けない方が、いいと思いますがね」
鯉の名を口にした覚えはないのに、はじめっからそれを言い出されてので、怯んでしまった。
「ほかの先生方は皆さんそれなりに忙しそうにしてるのに、この春やってきたばかりの先生がこんな所で・・・・いいんですか」と、ちょっとからかってみただけ腹にはなにも抱えていませんゼのバンザイした顔が笑っている。身なりや様子か「用務員さん」などと呼ばれる類のおじいさんが、距離を詰めすぐ隣に近づいてくる。
「この冬は寒かったからねぇ。野鯉3匹に錦鯉は5匹、そのうちあのお大尽から送られたばかりのやつは3匹がすぐだった。ほれ、先生方が一番に可愛がっているシロいのはその生き残りさ」
今日は喋り足りないから、もう少し付き合ってくれって顔だ。
「死んでしまった鯉は、どうするんです」
「燃えるゴミ」と云って、こちらを振り返る。「そういうわけにもいかないんで埋めてやりますよ、この辺りにね」と、わざとこちらの足元を見つめる。
「そんな、ちゃんと足の当たらない所を選んでますよ」
雲間から日が差してきた。そこだけがちょうど日の当たる盛り土になって、そのひとは、半分を開けて腰を下ろす。わたしも並んで腰を下ろした。さっきまでの冷たく湿った感覚はない。さっきからずっと座って一緒に話し込んでいたように続いていく。
「あそこのね、美術準備室、20年も此処にいた前の美術の先生も授業のないときはあの部屋の窓か此処にいましたね。先生のくせに先生も生徒も苦手で、先生と一緒でうちの鯉に名前を付けていましたよ、錦鯉ばかりでなく、野鯉までね」
「いったい、何匹の鯉がいるんですか、この池に」
「さぁー、数えたことはないですね。何しろ動き回るし。底に潜り込むで、本当にこの池だけで暮らしてるんだか、それさえ怪しいもんですよ」
「どこかで繋がってる、とか」
排水用に切った細い径に沿って池の水は押し流されてるから、代わりにどこかから水が配られていると思った。
「この辺りは、もともとが砂丘地で、この池も水が湧き出してる場所をくり抜いて作った池なんですよ。はじめは浅かったんだが、齢をとるごとに深く沈んでいって、いまではどこから湧いてるのかさえ分からんでしょう。けれど、野鯉といったって、わいて出てくるわけにもいかないから、まぁーどこぞの川が地面の下と繋がってここまで運んでくるんでしょうな」などとうそぶいてる。
「誰かが、放してるとばかり思ってました」と、そのトンチンカンをまともにかえしても、「わざわざ野鯉を捕まえて、こんな池まで運んでくるなんて奇特な御仁がいますか」と、こちらの非常識にあきれているような真顔だ。
「なんで学校に池なんか造って、鯉を泳がしているか分かりますか」
話は切り替わったらしい。そのひとは、こちらを待たずに話を続ける。
「なんでも、鯉は滝を昇って龍になるんだそうです。この学校で励み、培い、その成果がこれからの立身出世に繋がっていくのだと。いかにも昔の官立学校が好きそうな故事ですがね。でも、こいつらが龍になりますかね。将棋の歩が金になるよりおめでたい気がしますがね。こうして下足番みたいなナリして、この学校にいる人間の顔と名前と足下をずーと見ていると、見えてくるのは本当のことばっかりで」
「それにしても、えらくこの学校に詳しいですね」
「ええ、この学校一の古株で。ここを卒業して以来、この途一筋ですから」
まじめな顔して、そう話す。そんな、冗談ばっかり。あなたがこの学校を卒業したなんて、いまも県下一の進学校で伝統校のここを卒業して、そのまま「小遣い」で雇われだしたなんて・・・・・・そんな冗談を・・・・・・
いつ吹き出してくれるのかと待っていたが、相変わらず硬い真顔のままだ。私は、軽口を零しっぱなしの顔をひっこめた。
「そんな気があったのかどうか別にして。先人は偉かったと思いますよ」
話は、また切り替わる・
「昔の官立学校だなんて威張っていたって、それを聞いてくれる人間がこんなに減ってしまっちゃ、どうしようもありませんよ。目の色も髪も言葉だって別々の子どもたちの方が多くなってしまったんですから。お上の方だって、もっと困ってる連中だってたくさんいるんだ、エリートなんだろ、自分の身のことは自分でしろと、何も手伝ってなんかくれませんよ」
腐っても鯛ってことで、周辺の抜け落ちに較べたら、この辺りの没落はゆっくりですから、まだまだ買い手はいるみたいで。校庭を毎年切り売りしていっては糊口をしのいでますよ。
校舎と中庭だけ残っていたら、学校の体裁なんてどうにかこうにか成り立っていきますからね。周りをきっちり高い建物で固められたって、中庭からの穏やかな採光さえああれば、押し込められた息苦しさは感じずに済みますから」
校庭がなくなったって体育館がなくなったって、新しいビルディングの中にはジムもあればホールもある。インストラクターもいれば啓発セミナーだってやっている。学生だって教師だって学校ばかりべったりでなくたっていいのだから。
登竜門の鯉はどこに行くのか。野鯉の数を数えられないのは、ここでない別の門を潜っている鯉が増えたからかもしれない。