円舞曲
瑠璃也はいま、『黒』が事件を起こしたロシア東部のある村に来ている。回復した翠沙と二人だ。
村の様子はなんというか不気味なものだった。建物はそのままで争った形跡もなく、しかして屋内は血みどろで真っ赤だ。深夜寝静まった頃に奇襲され抵抗する間もなく『M』へとなったのだろう。
未だに生活感のある家屋は近いうちに燃やし尽くされる。菌やウイルスはまとめて消毒するに限る。
そんな村を瑠璃也と翠沙は超能力でコーティングされた透明な外殻を纏い、さらに持っているだけで空間を洗浄・消毒する携帯用空気洗浄機を持って歩いている。この携帯用空気洗浄機でウイルスが消毒され死滅するのはロシア東部で起こった事件から二日経ってから分かったものだった。
というのも、黒藤財閥がウイルス調査に全面的に協力したのが功を奏した。流石に緋音を拐われているのだ。黒藤財閥は『黒』の調査と、それに伴うウイルスの無力化に尽力している。いまこの時でも、瑠璃也と翠沙以外にも何万人も届くかというほどに動員された調査隊が『黒』とウイルスの調査に精を出しているだろう。
「…ひどいな」
「そうだね…」
まるで人が赤いペンキとなったようだ。そんな感想を懐くほど、争った形跡がなく生活感が溢れていた。
ここにこれ以上長居する必要はないと瑠璃也は感じた。『黒』は痕跡を何一つ残していないのだ。人々を『M』にする順番などの法則性などがあれば追いやすかったのだが、どうやら無差別に人々を『M』としているようで次の襲撃場所を特定することはおろか、大まかな大陸でさえ想定するのは困難だろう。
これは厄介だな、と瑠璃也は考えた。緋音がどういうわけで『黒』に拐われたのは分からない。緋音はあれでも黒藤家令嬢だ。そんな人物を拐うとなれば、相当な目的と覚悟がないとまず誘拐しようとさえ思わない。その目的が分かれば今よりは動きやすくなるが、なぜ緋音なのかそれを想像することさえ瑠璃也にはできなかった。
拐って人質にするには断然、次期当主となることが決まっていた、というかあの場でもうすでに当主の座へと座っていた瑠璃也の方が価値が高い。もちろん瑠璃也を拐うには相当な実力がないと返り討ちに遭うが、瑠璃也が感じるに『黒』の練度は並々ならない。あの奇襲では十分、瑠璃也を捕縛し手足の一本切り取って抵抗力を削げば無力化できただろう。それがなぜ、緋音なのか。
正直に言って緋音の価値はと言えば、黒藤財閥の令嬢、当主の妹という価値しかない。金目当てならば当主の瑠璃也を拐うほうが確実で、緋音は世界でも貴重な治癒能力者ではあるがその力も弱い。精々が全治数週間程度の軽症しか治せないはずで、ならば世界に数人いる欠損すらも治す超能力者、それこそ日本の四聖獣の青龍、生笠を拐ったほうが緋音を拐って黒藤財閥を敵に回すよりもローリスクハイリターン。黒藤財閥令嬢、当主の妹、そして微力な治癒能力者。緋音にはこれほどの価値しかない、あとは一般的な、普通の少女だったはずだ。
わざわざ緋音を拐った理由は?それも『M』とするわけでもなく。
『黒』の目的がいまいち分からなかった。考えても考えても分からないのなら、一旦保留だ。それが瑠璃也のスタンス。現実を、ありのままを受け止めとりあえず納得する。そして必要なピースが集まってきたらそれを一気に嵌め込み、答えを出す。起こった事象を、考えても分からない現実に答えを求めるなど、時間の無駄だ。数学や物理のように公式があるわけではないのだ。事象は事象のままに。そこに理由がつくのなら、それが現実だ。
「とりあえず、世界を見て回るか。どこかで『黒』の手がかりが見つかるかも知れない。もし拐った理由が緋音に危害を加えるようなものなら、あの場でわざわざ拐うまでもなく『M』にして洗脳してしまえばよかったんだからな」
「そうだね」
そうして瑠璃也達は寝室キッチントイレシャワールーム付きの大型キャンピングカーに乗り込んだ。黒藤財閥が全力を出した陸海空両用のもので、もちろん安全性は折り紙付き。たとえタカワシフクロウの群れに襲われたとしても無傷で耐えられるだろうという代物だ。今回の旅では丁度いいくらいだと、瑠璃也は考えている。
世界を見て回った。絶滅したと思われた野盗に襲われたりもしたが、襲い返した。食料や水には困らない。獲物は翠沙の弓で。燃料はそこらの菜肉を超能力で特殊な手順を踏んで圧縮して燃やせばガソリン並みのエネルギーが補充できる。菜肉というのは食料だけでなくエネルギー資源としても使えると最近分かったのだ。水は空気中の水分を濾過しながら凝縮して集める。キャンピングカーの三階は菜肉の栽培に使っていて、栄養には困っていない。キャンピングカーというよりも移動する小型の家のようなものだと最近思えてきた瑠璃也。
しかし流石に寝室を二部屋というわけにはいかなかった。キッチン・トイレ・シャワーは一階、寝室は二階、栽培は三回と使い分けているが、階を重ねただけで広さ的にはちょっとしたコンテナと同じくらいだ。まぁそれでも旅のお供にはこれ以上ないものだが、当然、寝室は翠沙と共用。つまり一緒のベッドで寝ている。はて、これは結婚生活と同等、夫婦のようなものではないかと瑠璃也は疑問に思ったが、今でも、そして今までも夫婦以上恋人未満のような関係に変わりはない。
そんな生活の中、一緒に寝ていて思うとこがある。瑠璃也の身が持たないのだ。別に生殖本能が働いて翠沙を襲いたくなるというわけでもなく、むしろ翠沙からは『生殖本能ないの?』とか言われた瑠璃也だが、生殖本能は少なくとも、生存本能はあるのだ。大いにある。いや、この旅の中で大きくなったというべきか。それはというと…
「――うはっ!!」
「うーん…」
翠沙の抱き癖である。小さい頃から寝ている間に抱きつかれるというのはよくあったのだが、中学生になって急激に胸部が大きくなった翠沙はそれが凶器だということを自覚していない。
瑠璃也は睡眠時に夢をあまり見ないタイプだが、この旅を始めてからはよく、生身で海に沈む夢を見る。翠沙は寝る時に寝苦しいからと下着を着けないタイプというのも顔が埋まって窒息する理由の大半だろう。流石に瑠璃也も男である。性欲を爆発させるという意味では全くない。力的に瑠璃也も寝ている時に無意識に翠沙を引き剥がせるはず…なのだが、翠沙は弓師。上半身の力が半端ない。瑠璃也が意識的に引き剥がす力よりも翠沙が無意識的に抱きつく力の方が強いというのは鍛え不足かと本気で悩んだりした。
そして悲しいことに翠沙は脚も絡ませてくる。そして翠沙は非情にも、よく走る。翠沙曰く、『固定砲台なんて真っ先に狙ってくれって言ってるようなもんでしょ?』とのことで、下半身も鍛えている。つまり、下からも逃げられない。
毎晩というほどでもないが、頻繁に死の危険を感じているのはこの睡眠時だけだった。しかも危険を感じているのは瑠璃也だけ。ひどい話だと瑠璃也自身も思っている。瑠璃也ができることと言ったら、なんとか呼吸できるように前面を圧迫する胸にさらに額を押し付けて顎を引き、口呼吸して翠沙が起きるのを待つだけだ。鼻呼吸は早々に諦めた。しかし口が乾いて仕方がなかった。そして酷いことに、翠沙は起きる時間になるまでほとんど起きない。耐えるしかないのが本当に非道い話だった。
一回恥も外聞もなく、翠沙を超能力で作った縄で結構きつめに本気で縛って寝かせたことがあった。翌朝にはどうやって縄をほどいたのか分からない翠沙で瑠璃也が縛られていた。しかも縄は翠沙と瑠璃也両方を固定していて、思うように体勢を変えられなかった。結果はといえば、本気で死ぬところだったという嫌な記憶が残っただけ。もう、下手なことはしないと決めた。
思えば数年前、緋音が一度窒息寸前の瀕死の状態で翠沙に運ばれてきたことを思い出す瑠璃也。あのときは緋音の文字通り必死の形相で『翠沙お姉ちゃんとはもう一緒に寝ないって言ったでしょ!』という言葉を面白半分に笑っていたが、もう笑えない。その災厄が自分へと降りかかってきているのだから。
しかしそんな、起きる時間になるまでほとんど起きない翠沙が、何時もより三十分早い時間にぱちりと目を覚ました。つまり、今日はその例外だと言うことだ。
「るーくん」
「ああ」
瑠璃也は素早く戦闘服に着替える。翠沙も瑠璃也の目を気にしないで自分の戦闘服に着替えた。瑠璃也が着るのは通気性伸縮性防刃性の高い薄いゴムのような素材の服だが、翠沙は瑠璃也が着るものと同じものの下に金属のように硬いブラのようなものを着ける。これが弓を射るための胸当てのような役割と、走るときに胸を固定する役割を担っている。重さ的には五キロとなかなかするが、翠沙は愛用しているのだ。実際心臓を現代の銃で撃たれても超能力で加速した人物が包丁で刺してきても傷つきもしない優れもの。まぁその性質上翠沙の成長に合わせて作り直さないといけないのが難点だが。
外を獣の群れが囲んでいた。その全ては自意識も本能の一部も奪われた哀れな操り人形、翠沙はこれを『月操獣』と呼んだ。世界を襲うウイルスの出所が月だというのがこの数ヶ月間で分かったことで、それにちなんだ命名だそうだ。
この旅路でたびたび月操獣に出くわし瑠璃也達を襲っていたが、この一帯は特に多い気がしている。なにか変化があればいいのだが…と、瑠璃也は期待を胸に、キャンピングカーの扉を開けた。




