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輪廻巡る月夜の果てに  作者: 中沢文人
フーガ
35/131

遁走曲

◯◎●

「あ、緋音…緋音!逃げるぞ!緋音!」


呆然とした意識からはっと戻ってきた瑠璃也は、反射的にそう叫ぶ。だが、それに異論をとなえるものがいた。それはもちろん、といってもいいのか分からないが、翠沙だった。


「んっ…はぁ…はぁ……るーくん、落ち着いて…どうやって、逃げるって、っはぁ…いう、の?」


全身に激痛が奔る。意識も朦朧として、体がぐちゃぐちゃに分解されていくよう。

それは肉体だけの問題ではなく、精神も同様にバラバラにされていく感覚。懐かしい、感覚。

緋音ちゃんも苦しんでいる。代行していた役割を引き継ぐんだ。あとは、肉体を滅ぼすだけ。緋音ちゃんの場合、一度(・・)死ぬだけでいい。なら、るーくんには悪いけど、この茶番は……。


「っはぁ…はぁ……私が、この木を倒す……木の上から、逃げよう」


全高947メートルのこの木を倒すだけで、かなりの数を減らせる。倒れた時の高さは幹の太さ。幹は56メートルあるから、かなりの高さになる。獣達も登るのに時間がかかるだろう。気休め程度にしかならないけど。


「ローネンさんは、緋音ちゃんを」

「かしこまりましたぁ」

「セバスさんは――」

「私めは、殿を務めましょう」

「……よろしく、お願いします」


セバスさんの決死の覚悟…いや、死ぬ気だ。何度も見てきた、この表情。彼を模した機械には、何度も何度も助けられてきた。それなのにまた、こんな役割をさせてしまう。それを私には、救うことができない。それどころか、壊す側につくことになる。壊してしまうことになる。これは、そのための儀式。緋音ちゃんには伝えた。反応は返ってこなかったけど、複雑な想いだということだけは察しがつく。

自分勝手だ。嫌になってくる。覚悟を決められなくて。選択を迫られた時に妹だからとその瞬間に覚悟を決められた緋音ちゃんに背負わせて。いざ決まったとなったら独りよがりに。だから、これは贖罪でもなんでもない。ただ逃れてきたツケが、押し付けてきたツケが回ってきただけなんだ。やらなければ、ならない。

ローネンさんが緋音ちゃんを背負う。獣達の怒涛ともいえる波状体当たりで、この巨大樹もだいぶ傷んでいる。

横穴に移動する。巨大樹を倒した時に、横穴が縦穴になるように倒す。るーくんに支えられる。だけど、その体はひどく弱々しかった。

私は全力で、痛む体と傷む心で超能力を使う。バキバキバキと音を発てて倒れ行く巨大樹。何億年と鍛えてきた超能力。それでも前を行く、るーくんの実力。だけど、今は――――黒藤瑠璃也にさえ、負けない。

ズシンと衝撃が森全体に渡り、周囲の獣達が一掃される。だがそれは一時的なもので、すぐにまた埋め尽くされるということは確信できる。

幹の上を走る。安定しない足場でるーくんに支えられ、一歩一歩なんとか進んでいく。ギャーギャー、グルルルと鳴く獣達。それでも遠くへ。何としてでも遠くへ。足を引きずってでも、遠くへ。この絶好の機会を、逃すわけにはいかない。

カツ、カツと幹で爪を打つ音がした。背後を振り替えれば、それは巨大な影。闇夜に紛れる、絶滅したはずの、狼。異常に進化した、狼。それを目視した瞬間、一迅の風がたなびいた。


「皆様、先にお逃げください!必ずや、後から追い付いて見せますゆえ」

「セバス!!……セバス。その言葉、自分で言ったからには守れよ!」

「…はい、必ずや護ってみせましょう。瑠璃也お坊ちゃんのためにも!!」


それは、セバスさんがおこした風だった。るーくんは背後も見ずに、そう声をかけ歩き出す。背後では硬質なものと硬質なものがぶつかり合う音が鳴り響く。五十メートル、百メートル、二百メートルと離れていったとき、硬く鋭利なものが柔らかい肉を裂く音と、何かが倒れる音。そしてドボドボと流れ落ちる液体の音が聞こえた。

それでも後ろを省みない。前を緋音ちゃんを背負ったローネンさんが走っている。

――不意に、腕が伸びた。一瞬のことだった。るーくんが声を上げる暇もなかった。

それは骨だった。肩から先のない腕。それががっしりと、ローネンさんの足を、緋音ちゃんを背負っているローネンさんの脚を掴んでいた。


――カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。


嵐のような煩さとともに迫るそれは、おびただしいほどの骨だった。骸骨だった。動く骸骨。もちろん血液などない。が、それは確実に『月の使者』だった。

――逃げられない。それを察した緋音ちゃんは、


「翠沙お姉ちゃん…――――――――。またね」


と言い残し、せめてでも、と私たちに来ないように倒れ伏す。るーくんが立ち止まる。私は全身に激痛が奔りながらもるーくんを引っ張るけど力が出ず、跪くるーくんを引っ張れない。


「緋音…緋音……緋音!!緋音ぇぇぇぇぇぇぇえええ!!!――あぁ…うぅぁ……ああああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁああぁ!!!!」


緋音ちゃんが最後に残した言葉。私は怨嗟を込めた言葉を向けられると思っていた。だけど。

――ずっと待ってたよ、と。その意志と覚悟とを並べられるのだとしたら、こんなところで止まってはいられない。るーくんを、緋音ちゃんを、悲しみの連鎖から。死の連鎖から抜け出させるために、立ち止まってはいられない。

全身に力を込める。強い激痛が全身を襲う…けど、こんな痛み、何億年殺し殺され続けてきた私からしたら、どうってことはない!!


「るーくん、立って、歩いて、逃げて!!」

「で、でも!緋音が、緋音が!!」


私はるーくんのその姿を見て、安心した。今のるーくんはちゃんと、緋音ちゃんにも愛を向けている。いつかの、狂ったように私にだけ愛を向けていたるーくんの面影はなかった。

――きちんと、緋音ちゃんを、妹としてではなく一人の女の子として、好きだという気持ちが見えた。

だから私は安心できる。あとはるーくんが力を着ける――力を引き出す力を着けるだけ。私だけが助けられては救われない。緋音ちゃんだけが助けられては救われない。私と、緋音ちゃんが救われないと侵略は、捕食は防げない。


「緋音ちゃんの気持ちを、行動を無駄にしないように逃げて立って!!」

「っ!!」


るーくんが立つ。一歩、一歩と踏み出す。ガラガラと骨が崩れる音が聞こえる。るーくんは後ろを振り返らない。前を向いて、一歩、一歩と踏みしめている。だけど私は一瞬、後ろを振り返った。

そこには、緋音ちゃんの姿も、ローネンさんの姿もなく。また大量の骸骨の姿も無かった。そして、爛々と耀く炎が獣達を焼いていた。巨大樹を折り倒したときに、根に近い方に火をつけておいたからだ。

ウイルスは熱に弱い。生物の体温がギリギリ生存できるラインだから、五十度も越えれば完全に死滅する。そして凄まじい速度で増殖するには、安定してなければならない。心臓の脈動だけでもその速度では増殖できず、ましてや血液が巡る衝撃では一体も増やせない。だから宿主が死に、硬化が始まった時に凄まじい速度で増殖し、宿主を生き返らせ、記憶はそのままに操る。

本当に、人間のことをよくわかっている星だ。

●◎◯


瑠璃也は、遁走する。箱庭の中のネズミは、逃げたところで箱庭のなかだというのに。生きる努力をしなければ、生き残る意志がなければ、箱庭からは出られない――




「はぁ…はぁ…動けるか、翠沙」

「んぁ…痛い、痛いよるーくん……。体が、熱い……っんはぁ……」


交わる体。同時に吐息も交わる。それはどこか官能的だが……

状況は、全くと言っていいほどその類いはない。原子レベルで体を引き裂かれるような痛みを感じている翠沙は、もはや感覚もない。瑠璃也も成熟した女性一人を、超能力を使えない身で担ぎ、何キロメートルも走っていたのだ。

その先に1つ、小屋が見えたために、そこで休んでいるのが今の状況だ。

追手はない。だが、いまもなお月は8つに別れ、地球全体をどこから食べようかと吟味している。

しかし、追手は獣。それも、ウイルスに支配された。瑠璃也が死に物狂いで走った何キロメートルも、大した距離ではないだろう。もっと遠くへ逃げなければならない。だがまずは、翠沙の熱を少しでも下げ、気休めでも鎮痛するのが先だ。

そう決断し、通りがけに見かけた薬草をとりに行くべく翠沙を楽な体勢で寝かし、瑠璃也は小屋をでた。それが運命の分かれ道だったということを知らずに――ただ、それでも結果は変わらなかっただろう。それに立ち合えたか立ち合えなかったかの違いでしかなかったのだから。今後、瑠璃也が記憶を保持し次へ進むという未来は来ない。翠沙が、させない。


思いの外薬草をとるのに手間取った瑠璃也が帰ったのは、小一時間してからだった。だが、小屋に入り、すぐに異変に気がついた。

それもそうだろう。座るのも、寝ているのも。もっと言えば生きるのもままならないほどの容態だった翠沙が、消えているのだから。

瑠璃也は小屋を飛び出る。外は珍しく日光がかかり、夕陽が空を照らしていた。現代技術を享受できなかった長閑(のどか)な田舎だったのか、はたまた人がいなくなって久しい村だったのか。外は川が流れ、夕陽を背景に大きめの石橋がかかっている。

石橋は小屋の裏にあったために帰ったときは気付かなかったが、そこにそれは、立っていた。綺麗に優雅に、そして狂おしく。天使のように悪魔のように、女神のように邪神のように、佇んでいた。

その白髪は毛先に近づくにつれ黒く変色している。髪が風に揺れる。たなびく髪を抑え、それは振り返る。


「最近じゃ珍しいね、るーくん。夕陽がこんなにも、綺麗だ」


名前の通りに沙爛と透き通る声で、それは言った。翠の瞳が瑠璃也を映す。煌と夕陽が、照らしている。

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