練習曲
それからしばらく、『黒』達の存在も感染者の情報もなく、ただ日々が過ぎていった。ウイルスの調査は遅々として進まず、分かったことといえば遺伝子を持っていないために遺伝子操作で形質を変化できないことと、乳に混ぜるだけでチーズになり、それが物凄く美味しく、感染もしないということだけだった。
「研究部はなにをしているんだ」
「ほんと、なにをしているんでしょうね…狂ってでもなきゃ研究者なんぞやってられんとは聞きましたが度が過ぎています」
抗体もない。防ぎようもない。対策は遅々としてどころか何も進んでいないとは。瑠璃也は研究部との伝令役から言い渡される報告に頭を悩ませる。
「あ、でもそのチーズを食べた鼠の症状が落ちたとか」
「それを早く言えよ」
少しは進んでいたようだった。
「研究長、件のチーズを見に来たんだが」
「あぁ瑠璃也君か。結構美味しいよ」
「…もしかしてそれって」
「あぁ、これが君が見に来たチーズだよ。43秒前に作ったんだ。いるかい?」
「大丈夫なのか…?」
研究長と呼ばれた女は脚を組んで椅子に座り、コーヒー片手にチーズを食べていた。いくら冷静沈着な瑠璃也でもこれは流石に呆れた。こいつ、頭大丈夫なのか?とかこんな奴が研究長で大丈夫なのか?とか、色んな意味を含めた大丈夫なのか、という言葉が漏れてしまったのも無理はないだろう。
そのチーズは、赤かった。言うなればレッドチーズだろうか、ただただ赤かった。それ以外なにも特徴はない、匂いもチーズのそれだったが。
「例のウイルスを乳に入れてみたとき、爆発的にその数を増やしてな。乳も元は血液だ。ウイルスは感染する際、血液内で爆発的に数を増やすということが分かっていたから乳に入れてみたんだが…いやはや、不思議なものだな」
不思議なのはお前の脳だ。と瑠璃也は思う。なぜ血液内で爆発的に数を増やすということがわかったら乳に入れてみるんだ、と。だがその前に。
「そもそも血液内で爆発的に数を増やすということ自体初耳だぞ」
「あぁ、それはさっき知ったからな。ほんの半刻前か?」
いや前後関係おかしくね?と瑠璃也は久しぶりに、本当に久しぶりにとぼけた。瑠璃也が報告を聞いたのは1時間以上前だ。そしてこの研究長はウイルスが血液に触れたら爆発的に数を増やすことが分かったから乳に入れてみたと言った。おかしい。
「まぁそんなことはどうでも良い」
「どうでも良くはないが」
「私が言いたいのは、ウイルスが蔓延するなかで怪我をしていない、厳密に言えば少しでも流血しなければ感染はしないということだ」
「まさか」
瑠璃也は驚愕する。そう、もう自分はそうだと思っていたのだから。
「流石だ。そう、瑠璃也君。おそらく君はまだ感染していない。ついでに言うと感染しているかしていないかも一目で調べる方法を見つけた」
「それは?」
「このチーズをみてもらっても分かる通り、ウイルスは赤い。だから対象の静脈血を採ってみたときにその静脈血の色が黒が全くない赤だったら、その対象は感染している」
なるほど、と瑠璃也は考えた。察するに四聖獣の隊員達もだいたいが感染していないことになるだろう。その事に瑠璃也は安堵する。
「加えて、このウイルスは大気中に漂わない。紫外線で死滅もするため、土壌に残ったウイルスも1週間すれば全滅するだろう。だが、ウイルスも接触して広がっていく可能性があるということは言っておく。まぁ基本的な風邪予防でもある程度感染は防げると思うがな。石鹸で死ぬし」
何も進んでいないと言ったのは誰だ。瑠璃也は毒づく。ということは戦闘服を着ていればある程度以上の感染予防にはなるということだ。それにしても。
「なぜそれを伝令に伝えなかった?」
「大したことじゃないだろう?よくある話だったから伝えるまでもないということだ」
瑠璃也はそう、天才に常人の価値観は通用しないのだなとそれではっきりと分かったのだった。これからはこまめに通うことにしよう、と誓うのだった。
さて、と部屋に戻った瑠璃也は考える。まず真っ先にせねばならないこと。最優先はウイルスの予防。しかしこれは順位がかなり高かったが、今では低くなっている。ウイルスで作ったチーズを食べれば免疫がつくというし、基本的な風邪予防をすれば広がることもないという。チーズに関してはわざわざ発酵させる必要もないというから大量生産はすぐにでも出来るだろう。しかし、ウイルスが傷口から侵入すれば一瞬で感染し、ウイルスの本能から宿主の無意識下でウイルスを増やすための行動をさせるという。怪我をしないようにするのが最優先か。ということは。
「世界中を対象に、緊急行動タイプVを発令する、か。セバス」
「かしこまりました」
本当に、どこから出てくるのか不思議だ。
緊急行動タイプVというのは黒藤財閥の力を全力で行使することで為せるものだ。各地に点在している地下空間に何段にも重なったベッドが大量に敷き詰められ、ベッドの数だけヘッドフォンがある。さらにその空間は厳重な管理をされていて、室温湿度空調はもちろん、AIによるメディカルチェックも完備してあった。目的は、全人類の第二の世界。VR空間での防衛措置であった。特別な権限、役職を持つものは遠隔操作ができる金属でできた人形をVR空間から操ることで仕事を続行する。
その防衛施設自体に入るためには特殊な方法でしか入れない。
黒藤財閥当主が許可している時だけしか部屋のロック解除は出来ず、さらにそのロックも脳波認証という真似することのできない物を第一段階とし、静脈動脈瞳孔指紋声帯…ほぼ全身をキーとしていると言ってもいいくらいだ。それほどまでに厳重な防衛方法。それをとるということは、かなりの非常事態ということだった。
「セバス、お前も休め」
「かしこまりました。どうか、お気をつけ下さいませ瑠璃也お坊ちゃん」
では、とセバスは部屋を出る。お坊ちゃんと呼ばれたのはいつぶりだったか。もう、記憶に遠き過去なのは、間違いなかった。
△▼
太平洋海底深く。その報告を聞いてほくそ笑む『黒』達に。
「きたきた」
「やっぱり」
「タイプV」
「計画通り」
「計算通り」
「筋書き通り」
「これまで通り」
「邪魔なものを」
「排除できる」
「いらないものを」
「除去できる」
「害あるものを」
「駆除できる」
「いや五月蝿いよ」
突っ込みが入った。
「…」
「…」
「…」
「…」
「っていうかその妙な話し方やめない?鬱陶しいし聞きづらいし恥ずかしいんだけど。不愉快極まりない」
ダメージが入った。
「…」
「…」
「…」
「…」
「黙ってないで何か言ったらどうなの?」
追撃が入った。
「ご…」
「ご?」
「「「「ごめんにしゃい!!」」」」
「そこで噛まないでよどんくさい」
「「「「仰る通りです…」」」」
とどめが入った。
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