8
朱音は、夢の中で自分の名前を忘れていた。
周囲は暗闇。誰かに呼ばれているような声が聞こえる。だが、名指しではない。
「……きみ……、そこの、女の子……」
“自分”という存在に、名前がないことが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
口を開こうにも、名乗る言葉が喉元で溶ける。
自分が誰かも、どこにいるのかもわからない。
ただ一つ確かなのは――“ここには戻ってきたくない”という、焼けつくような本能的な嫌悪だった。
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午前4時15分。
朱音は汗びっしょりで目を覚ました。
息が荒い。布団の中から腕を出すと、手が震えていた。
だが、それよりも恐ろしいのは、隣室の母親の名前が思い出せなかったことだった。
(……え? ……まって、うちの母って……なんて名前?)
わかるはずのものが、ぽっかりと抜け落ちている。
そして次の瞬間、朱音は異変に気づいた。
スマートフォンのロック画面に表示された自分のフルネーム――
佐々木 朱音
その名前に、違和感を覚えたのだ。
まるでそれが、“与えられた名前”のように感じた。
(これ……本当に、わたしの名前だったっけ……?)
部屋の中に飾られた卒業証書。引き出しの学生証。教科書の名前欄。
どれもが「佐々木朱音」と記されている。
だが、彼女の脳内には“もう一つの署名”が、淡く重なっていた。
高梨あかね――それは、先日見た“幻の文集”の中に記されていた名前だった。
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翌日、学校の昼休み。
朱音は、旧図書室の扉の前に立っていた。
図書委員の鍵を借りて、数年ぶりに開かれるその扉を、手で押し開ける。
ギィ……という音が、背筋を刺す。
部屋の中は、空気が凍っていた。カーテンは閉ざされ、時間の感覚すら失われていくようだった。
朱音は、部屋の隅にある“古書”の山の中から、黒い背表紙のファイルを見つけた。
表紙には文字がなかった。
中を開くと、そこには校内の“旧在籍者”の資料コピーが綴られていた。
彼女の目が止まったのは、“ある名簿”。
高梨あかね 在籍期間:72期生 桜庭美羽と同学年
その名と共に貼られていた小さな証明写真――それは、まぎれもなく朱音自身の顔だった。
「……うそ……でしょ?」
写真を凝視する。
確かに朱音自身である。だが、表情が――何か、異なる。
冷たい目。笑っていない口元。なにより、左耳にピアスの痕跡がある。
朱音はピアスなんて開けていない。
(じゃあこれは……“わたし”じゃない?)
手が震え、資料を落としたとき、足元にもう一枚の鏡が置かれていることに気づいた。
丸く、縁の欠けた手鏡。
表面には、何も映っていなかった。だが、朱音がそれを手に取ると――
鏡に、彼女自身の“背中”が映っていた。
部屋の奥で、誰かが立っていた。
背後に、誰かがいる。
朱音が振り返った。
だがそこには――誰もいなかった。
「ッ……!!」
鏡を見ると、今度は“美羽”が映っていた。だがその美羽は、目の奥に何かが宿っていた。
“あのとき鏡の中にいた”もう一人の美羽だった。
「まだ……あなたも、変わってないね」
唇が動いた。だが、声は出ていなかった。
口だけが、まるでテープの逆再生のように、音を持たずに動いている。
その瞬間、図書室の奥の書架がガタリと揺れた。
床に黒い染みが広がる。誰かが這い出てくるような音が、背後で聞こえた。
朱音は逃げるようにしてその場を離れた。
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夜、美羽と再会した朱音は、震えながら話した。
「……“わたし”の名前が……変えられてる。今はまだ、わたしだけど……きっと、もうすぐじゃなくなる」
美羽は真剣な表情で頷いた。
「記憶だけじゃない。名前や存在そのものを、少しずつ“誰か”が書き換えてる。私たちは、“書き換えられない自分”を、証明しなきゃいけない」
朱音は口元を噛みしめた。
「でもどうやって……?」
美羽は懐から、鏡守の鍵を取り出した。
「“記録の鏡守”に会うの。彼が、誰が“消された存在”なのかを知ってる。
……そしてたぶん、朱音、あなたも“もう一人いる”」
朱音は黙った。
彼女の目には、涙がにじんでいた。
だが、その涙の理由が――“本当の自分が、消えかけている”という恐怖からなのか、
あるいは――“もう一人の自分”が、今もこの世界にいることへの嫉妬なのか。
自分でも、わからなかった。