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 桜庭美羽は、足早に旧校舎を後にしながら、封筒の中に入っていた記録の最後のページをもう一度読み返した。


《“観察者の鏡”に映る者は、“自我の境界が曖昧”であることが多い。》

《そうした対象は、自己と他者の区別を失い、記憶が混在し、やがて“誰でもなくなる”。》

《それを防ぐのが、“四方の鏡守”――》




 ――四方の鏡守。まだ、三人がどこかにいる。


 朱音の言葉も、思い出していた。


「この学校、絶対おかしいよ。“わたしが書いたはずの文章”を別人が読んでたって……。このままだと、“あたし”じゃなくなる気がしてる」




 美羽はスマホを取り出し、朱音にメッセージを送った。


 だが、既読はつかなかった。


 通話も、繋がらない。


 不安の波が胸に広がる。朱音に何かが起きている――そう直感した。




 一方その頃、朱音は夢のような、しかしやけに鮮明な“記憶の海”を漂っていた。


 教室。運動場。音楽室。そこには、彼女の記憶と、“別の誰かの記憶”が交互に流れていく。


 ある瞬間には、自分が「佐々木朱音」だったはずなのに、次の瞬間には「高梨あかね」と呼ばれている。


 教師も、友人も、その名前で彼女を呼ぶ。


 鏡を見ると、顔は変わらないのに、制服のネームプレートだけが書き換えられていた。


《Takanashi Akane》


 朱音は、喉の奥から悲鳴が出そうになるのを必死で抑えた。


(わたしは……朱音……! 佐々木朱音……!)


 そのとき、廊下の向こうから“観察者の鏡”が現れた。


 黒衣の人物。顔を仮面で覆っており、持っているのは銀色の楕円鏡。

 それを向けられた瞬間、朱音の体から、黒い煙のような“記憶の影”が引き抜かれていく。


「ダメ……やめて……わたしを忘れさせないで……!」


 観察者は、無言のまま鏡を近づける。


 その時――


「朱音っ!」


 誰かが叫んだ。


 瞬間、世界が砕け、夢の中の風景が一瞬で消えた。




 朱音は、旧校舎の裏の倉庫室で目を覚ました。

 膝を抱えて座り込んでいたその目の前に、美羽がいた。


「……よかった……見つけた……!」


 朱音はまだ、記憶の波から完全には抜け出せていなかった。


「“観察者”が来た……名前を変えようとしてた……“あたし”じゃなくなりかけた……」


 美羽は朱音の手を強く握った。


「でも、あなたはちゃんと戻ってきた。わたしが覚えてる。だから大丈夫」


 その言葉に、朱音の目に涙がにじんだ。


「……ありがとう、美羽……」




 その夜、美羽と朱音は、生徒会室の和室――“鏡守の間”を再び訪れた。


 そこには、以前と同じように老婆が座っていた。


 だが、老婆の背後には新たな鏡が出現していた。


 丸い縁、月のように淡く光る枠。


 老婆は静かに語った。


「“観察者の鏡”が目覚めた。鏡守の封印が緩んでおる。おぬしらは、“選ばれた者”じゃ」


「わたしたちが、“鏡守”に……?」


 老婆は頷いた。


「四方の鏡には、それぞれの役目がある。“映す鏡” “写す鏡” “奪う鏡” そして“観る鏡”。」


 そして、老婆は二人の少女の手に、同じ形の“銀の鍵”を握らせた。


「次に会う“鏡守”は、封鎖された図書室の奥にいる。彼は“記録の鏡守”――おそらく、おぬしたちの記憶にも影響しておるはずじゃ」




 美羽は、図書室の奥の鏡を思い出した。


 “自分の姿が、ほんのわずかに違って見えた”あの鏡。


 今度こそ、向き合わなければならない。


 “自分ではない自分”に。

 “記憶をすり替える者”に。

 そして、失われた「誰か」たちの声に。


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