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鏡の中の世界は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
色のない空。音のない風。遠くから微かに聞こえてくるのは、美羽自身の心臓の鼓動だけ。
――トクン、トクン。
そして、彼女の目の前に立っていたのは、もう一人の「桜庭美羽」だった。
白く透き通るような肌。整った制服。表情は微笑をたたえているが、その目だけが凍りついたように冷たい。
「やっと来てくれたね、本物のわたし」
“もう一人”の美羽がそう言った。
「返して、ここは……わたしの場所よ」
そう言う美羽に、鏡の中の彼女は首をかしげて見せた。
「でも……あなた、もう“影”を失ってる。ここはあなたの場所じゃない。あなたは――向こうの世界の“空洞”なの」
美羽は眉をひそめた。
「空洞……?」
「この世界は、あなたの記憶で出来てるの。でも、あなたの記憶は曖昧で、不確かで、抜け落ちてる。だから、ここには“かつてあったはずのもの”しか存在しない」
美羽は気づいた。
この世界には、ユキがいない。母も父もいない。あのカーテンの色も、家の扉も、校舎の掲示板も、少しずつ――抜け落ちている。
「わたしが……思い出せないから?」
鏡の美羽は微笑んだ。
「あなたが弱かったからよ。だから、わたしが代わりに出た。わたしは、あなたから“生まれた”の。苦しみも、迷いも、逃げたい気持ちも、ぜんぶ抱えて。“完璧なあなた”として」
「完璧……じゃない。あなたは、ただ“わたしを真似ている”だけ」
美羽は一歩、前に出た。
「それで世界を乗っ取って、わたしを消すつもりなの?」
「そう。だって、もう気づいてるでしょう? 向こうの世界の人たちは、わたしのことしか覚えていない。“あなた”はもういないの」
“もう一人”がにっこりと笑った。
その瞬間、教室のドアがガチャリと音を立てて開き、校舎の廊下から何体もの“人影”が流れ込んできた。
すべて、無表情のクラスメイトたち。
目だけが真っ黒に塗り潰され、無言のまま、美羽へと手を伸ばしてくる。
「彼らも“こちら側”に属してるの。彼らの記憶には、あなただけが欠けてる。あなたはもう、ここでも向こうでも“いない人”」
美羽は後ずさった。
そのとき、胸元に何かが触れた感触があった。制服のポケットに入れていた、小さな手鏡――朱音がくれたものだ。
ひび割れたその鏡の中に、一瞬、ユキの顔が映った。
《たすけて、美羽……まだわたしは、ここにいる》
その声は、確かに美羽の中に響いた。
「……ユキ……!」
“もう一人”の美羽の表情が、ぴくりと動く。
「ダメ……あの子は、消えた。わたしが“引きずり込んだ”の。記憶の底に沈めた。もう戻れない」
だが美羽は、震える体を無理やりに支えた。
「戻る。わたしは、わたしを取り戻す。あの子のことも。全部」
“もう一人”の美羽は、ふっと微笑んだ。そして、鏡の中の黒い教室がゆらりと歪んだ。
「だったら、証明して。あなたが“本物”だということを」
その瞬間、彼女の姿が溶け、**無数の“偽りの美羽”**が教室に現れた。
笑っている美羽、泣いている美羽、血まみれの美羽、影のない美羽。全部が「わたし」だった。
「――あなたに、この中の誰が“本当の自分”か、わかる?」
教室は狂気の迷宮と化した。
美羽は叫ぶ。
「本物のわたしは――“忘れていない”! 誰も!」
そのとき、手鏡が淡い光を放った。
光は美羽の中にあった“記憶の断片”を照らし出した。
ユキと笑った夏の日、母の作ってくれた夕食の味、曲作りに悩んで朱音と語り合った放課後。
それらが、今の“わたし”を形作っている。
「偽物に、わたしの記憶は作れない!」
そう叫ぶと同時に、美羽の背後に浮かび上がった一枚の“澄んだ鏡”。
“本当のわたし”だけを映す鏡。
そこにだけ、黒い影を携えた一人の美羽が映っていた。
「……それが、“本物”……」
“もう一人”がつぶやいた。
その顔には、恐怖とも悲しみともつかない表情が浮かんでいた。
「……いいなぁ。やっぱり、あなたは……強かった」
美羽が一歩近づくと、もう一人の美羽の姿は、ゆっくりと薄れていった。
「でも……わたしは消えない。だってあなたの中にいる。ずっと。弱さや迷いがある限り、わたしは“何度でも”生まれるのよ」
その声と共に、“もう一人”の美羽は光の中へと消えていった。
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――次の瞬間。
美羽は、生徒会室の和室で目を覚ました。
傍らには、朱音が心配そうに見つめていた。
「……戻ってきた、んだね?」
美羽は、ゆっくりと頷いた。
そして、そっと胸に手を当てた。
確かに、自分はここにいる。影も、鼓動もある。記憶も、自分のものだ。
鏡守の老婆が、美羽の前に静かに立った。
「……ようやく、“名”を取り戻したか。よくやったな」
「でも、あの子は……」
「うむ。おまえの中に残っている。だが、それでよい。光だけでは、ヒトの心は完成せぬ。闇があるからこそ、輪郭が浮かぶのだ」
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その日から、美羽は一枚の手鏡を持ち歩くようになった。
時々、その鏡を覗き込みながら、こう思う。
――“もう一人”のわたしは、今もどこかで笑っているのかもしれない。
でも、もう迷わない。
わたしは、わたしだ。
誰にも、奪わせない。