3
階段の踊り場に、重たい沈黙が落ちた。
“ユキ”の姿をした何者かは、カッターを手にじりじりと二人に近づいてくる。
その目は、もはや人間のものではなかった。真紅に染まった瞳孔が、蛇のように縦に裂けていた。
「走って!」
朱音の叫び声と同時に、美羽は反射的に踊り場から駆け下りた。朱音も続いて階段を一気に飛び降りる。
校舎の薄暗い廊下を抜け、誰もいない図書室へと飛び込んだ。鍵をかけ、棚の隅に身を潜める。
「ハァ、ハァ……今の、ユキじゃないよね……」
美羽の呼吸は乱れ、手は震えていた。
朱音は頷いた。
「あれは“すり替わられた”ユキ。つまり、向こう側から来た者。完全に入り込んでる……魂を乗っ取られたのよ」
「じゃあ……わたしも、同じ……?」
「……まだ完全じゃない。あんたには“記憶”がある。だから探せる。“鏡守”を」
朱音は震える手で、図書室の古い資料棚を開き始めた。
「……この学校には、鏡に関わる記録がいくつも残ってるの。大昔から『鏡は境界』って信じられてた。とくに皆既月食の夜、赤い月の夜は……境界が緩むの」
「だから、“すり替わり”が起きたんだね……」
朱音は一冊の古いファイルを取り出し、美羽に差し出した。
《私立第一高等学校 創立百周年記念誌》
その中に、ひときわ異質な一文があった。
> 『昭和48年、音楽室前の鏡で生徒が失踪。同年、別の生徒が「自分の中に他人がいる」と錯乱し入院。以来、その鏡は封印された。以来、夜間の使用は禁止とされた。』
さらに小さな紙片が、別ページからひらりと落ちた。
そこには鉛筆で、こう走り書きされていた。
《鏡守は、生徒会書庫の奥。尋ねる時は、「反射しない者を訪ねたい」と言え》
「……生徒会書庫?」
「生徒会室の奥にある、関係者以外立入禁止の部屋。でも、最近は生徒会活動も停滞してて、誰も入ってないって噂」
「行ってみるしかないね」
二人は図書室を抜け出し、警戒しながら廊下を進んだ。
不気味な静寂が校舎を包む。
窓に映る赤銅色の月が、今も空を見下ろしていた。
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生徒会室の前にたどり着いたのは、夜9時を回った頃だった。鍵は意外にも開いていた。
部屋の奥、古びた扉には“関係者以外立入禁止”の札がぶら下がっている。
朱音が小声で呟いた。
「……反射しない者を訪ねたい」
すると――
ギィィィ……
誰も触れていないのに、扉がゆっくりと開いた。
二人は顔を見合わせ、静かにその部屋の中へ足を踏み入れた。
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そこは、古い和室のような空間だった。
畳が敷かれ、正面の壁には無数の鏡が立て掛けられている。どれも大小さまざまだが、共通して“こちらを映さない”。
空っぽの鏡。
そして、部屋の中央に座っていたのは、一人の老婆だった。
着物を着たその老婆は、目を閉じて座している。白髪は綺麗にまとめられ、周囲の空気がひんやりと澄んでいた。
「あなたが……“鏡守”?」
老婆は目をゆっくりと開き、言った。
「ようやく来たね、“すり替えられた者”。そして、気づいてしまった子」
美羽の喉がごくりと鳴った。
「あなたは……この学校に……ずっと?」
老婆はうなずいた。
「“こちら”と“向こう”の世界。その境界が歪むとき、この場所を守るのがわたしの役目。だが――もう手遅れかもしれぬな」
「手遅れって……!」
「“鏡の世界”は、こちらの世界を模倣することで生きている。すり替わった者は、元の存在を喰らい、完全に置き換わろうとする。おまえが引きずり込まれたとき、もう片方は“出て”しまった」
美羽は震えながら訊いた。
「……戻れますか? わたし、元の場所に……」
老婆は静かに首を横に振った。
「可能性は、ある。ただし代償は――命だ」
部屋の中央の鏡が、青白い光を放ち始めた。
「“向こう”にいる“おまえ”を倒し、魂を奪い返す。鏡の中に入るには、“自分の影”を差し出さねばならぬ。影を失えば、ここには戻れぬかもしれん。それでも――行くか?」
朱音がすぐに口を開いた。
「そんなのおかしい! 本人が入れ替えられて苦しんでるのに、命まで……!」
だが、美羽は頷いた。
「行きます。戻らなきゃいけない。“わたし”を……取り戻すために」
老婆は静かに立ち上がり、鏡の前へと導いた。
「ならば、“影よ、我が身を捧げよ”。それを唱えるのじゃ」
美羽は深呼吸し、鏡を見つめた。そこには、自分とまったく同じ顔をした“あの子”が、不敵に微笑んでいた。
「……影よ、我が身を捧げよ」
次の瞬間、鏡が波紋のように揺れ、美羽の影が床から剥がれ、鏡の中へと引き込まれていった。
そして、美羽自身の身体も――音もなく、鏡の中へと消えた。
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鏡の世界。
そこは静寂に満ちた、色彩の薄い空間だった。
誰もいない教室、色褪せた廊下、止まった時計、喋らぬ人影。
美羽は、鏡の中の世界に降り立った。
そして、そこで待っていたのは、彼女と瓜二つの存在――
“もう一人の桜庭美羽”だった。
その唇が、にたりと笑う。
「やっと、来てくれたね。“本物”のわたし」