2
その夜、美羽は眠れなかった。
母親だという女性も、父親を名乗る男も、確かに「家族」として自然に振る舞っていた。しかし彼らの言葉の端々、そして家の中の“微細な違和感”が、美羽の神経をひたすら削った。
部屋のレイアウト、カーテンの柄、机の引き出しの中身、ベッドの硬さ。どれも似てはいるが、記憶と一致しない。
スマホの中身を確認すると、LINEの履歴やアプリの配置も別物だった。
そして、カメラロールには、覚えのない美羽の笑顔が、無数に並んでいた。
その中の一枚。
文化祭の写真。美羽が舞台でキーボードを弾いている。
しかし、そこに写るはずの軽音部の友人・小椋ユキの姿が、なかった。
「ユキ……は?」
焦ってクラスLINEを開くと、メンバーの中にユキの名前がない。過去のやり取りも一切残っていない。
“いなかった”ことになっている。
「……そんなはず、ない……」
冷や汗が首筋を伝った。
この世界では、誰かが欠けている。そして、美羽自身が“入れ替わっている”。
“あの鏡”が境界線だった。
---
翌日、美羽は学校へ向かった。
校舎の雰囲気は、変わらないように見えた。しかし、通学路の風景も、すれ違う生徒たちの顔も、妙に“平板”だった。
音が薄い。空気が軽い。人々の目が、奥行きなく虚ろに感じられる。
そして――
美羽が教室に入ると、生徒たちが一斉に振り返った。
「おはよう、美羽」
それは、満場一致の笑顔だった。ぎこちない、機械のような挨拶。
ざわ……と、背筋を冷たいものが走る。
「……お、おはよう……」
席に着くと、斜め前の女子・中川朱音が小さく話しかけてきた。
「ねぇ、美羽……最近、鏡に何か見えたりしてない?」
美羽は反射的に顔を上げた。
「えっ……?」
朱音は顔を引きつらせたまま、ノートにペンを走らせるような動きをしながら、唇だけで言葉を紡ぐ。
「あなた、違うよね?」
鼓動が高鳴った。
その瞬間、担任が教室に入ってきた。
「はーい、席につけ。出席をとるぞ」
美羽は思わず朱音を見るが、彼女はもう何事もなかったように前を向いていた。
まるで、さっきのやり取りなど存在しなかったかのように。
---
放課後、美羽はもう一度、あの鏡へ向かった。
階段の踊り場の鏡は、昨日と同じように静かにそこに立っていた。だが、よく見ると、わずかにヒビが走っている。昨日のあの瞬間の名残。
そして、美羽が鏡に近づこうとしたそのとき――背後から声がした。
「――あんた、やっぱり“入れ替わった”んだね」
振り返ると、そこには中川朱音が立っていた。瞳は真剣そのもので、口元はわずかに震えていた。
「ユキのこと、覚えてる?」
「え……?」
「この世界には、あの子はいない。美羽、あんたとユキが鏡の前で“あれ”を見てから、全部狂い出したの。あたしだけは見てた。引きずり込まれて、そっくりな“何か”が出てきた瞬間を……!」
朱音の手が震えていた。ポケットから古びた手鏡を取り出し、美羽に突きつけた。
「本物は、もう一人いる。鏡の中で……ずっと助けを求めてる。“こっち”にいるのは、あんたじゃない」
その言葉に、美羽の心の中で何かが“断ち切られる”音がした。
――わたしは、誰?
鏡の前に立つ美羽の背後で、朱音が言う。
「戻る方法を知ってる人がいる。『鏡守』って呼ばれてる人。都市伝説みたいな存在だけど、本当にいる。校内に……隠れてる」
「校内に……?」
「でも気をつけて。『向こう側』の存在は、こっちに完全に入れ替わるために、邪魔者を“消す”の」
――そのとき。
踊り場の上階から、制服姿の生徒が一人、ゆっくりと降りてきた。
暗がりに沈んだ顔。その顔には、どこかで見た覚えがあった。
朱音が一歩、後ずさった。
「……ユキ……?」
だがその“ユキ”は、ぎこちない笑みを浮かべたまま、ゆっくりと手に持ったカッターを突き出した。
「――ここは、“あたしたち”の世界だから」
その目は、真っ赤に染まっていた。