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朱音は完璧だった。
成績も運動も平均以上。誰にでも好かれる。人間関係に波風もなく、軽音部でも中心的な存在。
朝は早く起きて髪を整え、常に笑顔を忘れず、周囲との距離を程よく保つ。
――それが、朱音の日常。かつて“桜庭美羽”だった者は、完全に世界から消えていた。けれど――。
夜、ひとりで鏡の前に立ったときだけ、その完璧さが、薄皮のように剥がれる。
「……誰?」
無意識に、鏡に問いかける。
目の奥で揺れる違和感。自分の顔なのに、知らない気がする。
声の響きが、少しだけ他人のものに聞こえる。
寝室の全身鏡。バスルームの曇りガラス。スマートフォンの画面。
あらゆる“反射する面”に、もうひとりの自分の気配が差し込んでくる。
最初は気のせいだと思っていた。だが――
ある晩。
バスルームの鏡が“勝手に”曇り、その曇りの中に、メッセージが浮かび上がった。
――わたしを わすれないで――
文字はたちまち消えた。
だが、その後、鏡の中から、聞こえたのだ。
「朱音……じゃないでしょ?」
「あなたの本当の名前、覚えてる?」
「“わたし”のこと――思い出して」
その声は、震えていた。
怖れているのは、美羽のほうだった。朱音ではない。
翌日、教室でふとした拍子に、自分の名前を書こうとして、手が止まった。
【佐々木……】の後に、指が動かない。
ノートに書いたはずの“朱音”という文字が、にじんで消えていく。
「……わたしの、名前って……?」
脳裏に断片的な記憶がよみがえる。
キーボードを叩く指の感触。
校舎の踊り場の鏡。
“朱音”の名前を呼びながら、叫んだ少女の声。
その声は、誰だった?
思い出せない。いや、思い出してはいけないと、脳が拒絶している。
その夜、再びレッドムーンが昇った。
年に一度の血の満月。
赤い光が世界をなぞるように歪める夜。
朱音は、ふらりと鏡守の間を訪ねた。
老婆は静かに言った。
「君は、“誰”を忘れようとした?」
「そして、“誰”を取り戻そうとした?」
「……わかりません」
朱音の答えに、老婆は頷いた。
「ならば、もう一度鏡を見なさい」
「そこに映るものこそ、君が捨てたはずの名じゃ」
自室に戻り、鏡の前に立つ。
その瞬間、鏡がこちらを見返した。
もう一人の“わたし”がいた。
泣いていた。
目を潤ませ、声なき声で必死に訴えていた。
「わたしの名前は……さくらば、みう」
「朱音じゃない……わたし、あなたを救いたかった」
「でも――わたしが消えて、あなたが生きたの」
「それで、よかったの……?」
朱音の頬を涙が伝う。
「……ちがう」
「わたし、誰かを犠牲にしてまで、ここに立ちたくなかった」
「わたしが、わたしであるために――“あなた”を、思い出す……!」
朱音は、震える声で鏡に向かって名を呼んだ。
「――桜庭、美羽!」
「あなたを、忘れたりなんて、しない!」
その瞬間、鏡が砕け、無数の光の粒が空中に舞った。
そして、鏡の中から、“彼女”が現れた。
顔は、涙に濡れていた。
それでも、美しく、強く、どこか誇らしげな瞳で――
美羽は微笑んだ。
「ただいま」




