16
朱音は完璧だった。
成績も運動も平均以上。誰にでも好かれる。人間関係に波風もなく、軽音部でも中心的な存在。
朝は早く起きて髪を整え、常に笑顔を忘れず、周囲との距離を程よく保つ。
――それが、朱音の日常。
かつて“桜庭美羽”だった者は、完全に世界から消えていた。
けれど。
夜、ひとりで鏡の前に立ったときだけ、その完璧さが、薄皮のように剥がれる。
「……誰?」
無意識に、鏡に問いかける。
目の奥で揺れる違和感。自分の顔なのに、知らない気がする。
声の響きが、少しだけ他人のものに聞こえる。
寝室の全身鏡。バスルームの曇りガラス。スマートフォンの画面。
あらゆる“反射する面”に、もうひとりの自分の気配が差し込んでくる。
最初は気のせいだと思っていた。だが――
ある晩。バスルームの鏡が“勝手に”曇り、その曇りの中に、メッセージが浮かび上がった。
わたしを わすれないで
文字はたちまち消えた。
だが、その後、鏡の中から、聞こえたのだ。
「朱音……じゃないでしょ?」
「あなたの本当の名前、覚えてる?」
「“わたし”のこと――思い出して」
その声は、震えていた。
怖れているのは、美羽のほうだった。朱音ではない。
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翌日、教室でふとした拍子に、自分の名前を書こうとして、手が止まった。
【佐々木……】の後に、指が動かない。
ノートに書いたはずの“朱音”という文字が、にじんで消えていく。
「……わたしの、名前って……?」
脳裏に断片的な記憶がよみがえる。
キーボードを叩く指の感触。
校舎の踊り場の鏡。
“朱音”の名前を呼びながら、叫んだ少女の声。
その声は、誰だった?
思い出せない。いや、思い出してはいけないと、脳が拒絶している。
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その夜、再びレッドムーンが昇った。
年に一度の血の満月。
赤い光が世界をなぞるように歪める夜。
朱音は、ふらりと鏡守の間を訪ねた。
老婆は静かに言った。
「君は、“誰”を忘れようとした?」
「そして、“誰”を取り戻そうとした?」
「……わかりません」
朱音の答えに、老婆は頷いた。
「ならば、もう一度鏡を見なさい」
「そこに映るものこそ、君が捨てたはずの名じゃ」
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自室に戻り、鏡の前に立つ。
その瞬間、鏡がこちらを見返した。
もう一人の“わたし”がいた。
泣いていた。
目を潤ませ、声なき声で必死に訴えていた。
「わたしの名前は……さくらば、みう」
「朱音じゃない……わたし、あなたを救いたかった」
「でも――わたしが消えて、あなたが生きたの」
「それで、よかったの……?」
朱音の頬を涙が伝う。
「……ちがう」
「わたし、誰かを犠牲にしてまで、ここに立ちたくなかった」
「わたしが、わたしであるために――“あなた”を、思い出す……!」
朱音は、震える声で鏡に向かって名を呼んだ。
「――桜庭、美羽!」
「あなたを、忘れたりなんて、しない!」
その瞬間、鏡が砕け、無数の光の粒が空中に舞った。
そして、鏡の中から、“彼女”が現れた。
顔は、涙に濡れていた。
それでも、美しく、強く、どこか誇らしげな瞳で――
美羽は微笑んだ。
「ただいま」