14
レッドムーンが、再び昇った。
赤銅色の満月。
地球の影が月面を覆い、光の屈折によって浮かび上がる“血の月”。
その月が昇る夜には、“存在の揺らぎ”が世界に満ちると、鏡守の老婆は語っていた。
「名を失いし者たちが、影から這い出てくる夜じゃ……」
「レッドムーンは、“鏡の封”が緩む時」
「そして、“観察者”は、再構成を開始する……」
その晩、美羽は夢を見なかった。
夢を見ている感覚すらなかった。
ただ――朱音の名前だけが、脳内で脈打つように浮かび続けていた。
朱音、朱音、朱音。
でも、顔が思い出せない。
目の形は? 髪の長さは? 声はどんなだった?
どこかで見た“わたし”と、すり替わっていくような――。
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翌朝、世界は静かに変わっていた。
クラスの出席名簿に、再び【佐々木朱音】の名前が記されていた。
だが、そこに記された情報は、美羽の記憶と違っていた。
・転校してきたのは中学2年
・軽音部ではベース担当(以前は鍵盤のはずだった)
・朱音の誕生日は、美羽とまったく同じだった
(……そんなはず、ない)
でも、誰に聞いても、「ずっとそうだったじゃん?」と、当然のように言う。
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放課後、美羽は鏡守の間を訪ねた。
老婆は、美羽の顔を見て、こう言った。
「“君の記録”が侵食され始めておるな」
「朱音を取り戻そうとした代償で、“君の名前”に裂け目が生じたんじゃ」
「レッドムーンが昇る夜――“もう一人”が、現れるぞ」
「もう一人……?」
「鏡の向こうの君は、“君”の代わりになる準備をしている」
「君が“自分”を疑った瞬間、その座を譲ることになる」
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夜。
再び鏡が割れた。
そこから、“朱音”が現れた。
いや、それは朱音の姿をした、美羽だった。
左右対称のように、完璧な顔立ち。だが、感情がない。
「ミウ、名前ちょうだい」
彼女は言った。
「あなたが“わたし”だったことにすれば、わたしは生きていける。
あなたの中にいた記憶を、“わたしのもの”にしていいでしょ?」
その時、窓の外の空に、赤銅色の満月――レッドムーンが浮かび上がった。
地平線すれすれに燃えるような血の光。
それは、美羽の視界に“本来見えないはずの輪郭”を照らした。
鏡の中。教室の中。通学路。スマートフォンの画面。
すべての鏡が、反射をやめていた。
その代わりに映っていたのは――
“朱音の顔”をした“美羽”、
“美羽の顔”をした“朱音”、
そして、名もなき誰かの“のっぺらぼう”の顔。
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すべてが歪んでいく。
名前が音になる前に、記憶が書き換えられていく。
美羽は鏡に向かって、自分の名前を唱えた。
「さくらば……みう……わたしは……」
だけど――声が、続かない。
鏡の中の彼女が、代わりに名乗った。
「佐々木朱音、ここに在り」
その瞬間、美羽の背中に、鋭い痛みが走った。
まるで、自分という“器”が、内側から引き裂かれるような感覚。
(わたしの名前が……消される……)
レッドムーンの光が、鏡の破片を貫いた。
そして――
二人の“美羽”が、同時に言った。
「わたしが、“ほんとうの”わたし」