12
朝、目を覚ました瞬間、美羽は空虚な焦燥感に襲われた。
泣いていた。夢を見たのだ。
でも、どんな夢だったか――思い出せない。
枕が濡れている。胸の奥に、何かが“ぽっかり”と抜けていた。
(……何かを、忘れてる?)
立ち上がり、制服に着替え、いつものように通学路を歩く。
だが、通学途中の交差点で――“声”がした。
「ミウ……」
誰もいない。
振り返っても、何もない。
ただ風が吹き抜け、街路樹の葉が揺れる音が残っただけ。
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学校では、どこか空気が違っていた。
いや、正確には、“美羽の感覚”が変わっていたのかもしれない。
友人の麻理が、教室で言った。
「今日、グループ決めるよね? 3人組でやるんだって」
美羽は無意識に返す。
「じゃあ、朱音と――」
言いかけて、言葉が止まる。
麻理が、怪訝な顔で聞き返す。
「え? 誰? “朱音”? ……そんな子、いた?」
(……え?)
机を見る。名簿を見る。思い出そうとする。
確かに隣の席にいた。髪の毛が少し長くて、声が少し低めで――
……名前が、思い出せない。
朱音、だったはず。いや、違った? そもそも、そんな子いなかった?
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昼休み、美羽は一人で旧図書室へ向かった。
まるで、引かれるように。
古びた書棚の隙間。黒革の名簿ファイルを手に取る。
最終ページに、空欄がある。
【在籍抹消:-----】
【記録:鏡面破壊により消去】
【備考:残響の兆候アリ】
そのページに触れた瞬間、美羽の視界がぐにゃりと揺らいだ。
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《夢》が、開いた。
場所は不明。音も色も薄く、時間の感覚もない。
ただ、一人の少女が、鏡のない部屋で立っていた。
朱音だった――と、確信した。
彼女は美羽に向かって口を開いた。声はない。音もない。
だが、脳に直接“願い”が届いた。
『ミウ……呼んで……わたしの名前……もういちど……』
目が合った瞬間、朱音の顔が“別のもの”に変わりかけた。
輪郭がぶれ、皮膚が裂け、目が幾重にも増え始めた。
叫びそうになった瞬間――
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美羽は、図書室で気を失っていた。
床に倒れていた自分のすぐそばに、一枚の鏡の破片が落ちていた。
それは、割れた学習机の一部だったが、断面には文字が彫られていた。
【朱音】
【わたしの 名前 呼んで】
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放課後。
鏡の間の老婆が、美羽に語った。
「“鏡に映らなくなった者”は、時間と共に“世界の底”へ沈む」
「ただし、唯一の例外がある。呼び戻す者が、その“名前”を世界に返すことじゃ」
「それは呪いでもあり、契約でもある」
「“鏡守”の本質は――“存在の保証人”になることじゃ」
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夜。自室で、ノートを開いた美羽は、自分の字でこう記した。
【佐々木朱音】
わたしの親友。
少し背が高くて、音楽が好きで、いつも冷静だった。
怖い夢を見ても、平気な顔して「大丈夫」って笑ってた。
――わたしは、朱音を忘れない。
すると、ノートのインクが滲み、朱音の名前だけが“赤く発光”し始めた。
部屋の鏡が、静かに、揺れた。
そこに、“誰か”が映り込んだ。
朱音? ――違う。
そこに映っていたのは、“美羽自身”。
だが――もう一人の自分。目に光がない、美羽。
その鏡の中の“彼女”が、口元を動かした。
「朱音なんて……最初からいなかったじゃない」
「ほんとうに、いたのは――“わたし”だけ」