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私はだれ?
――そんな問いは、簡単だったはずだった。
私は朱音。佐々木朱音。さくらばみうと、同じクラスの。
でもそれはほんとうに“わたし”だった?
教室に座ってる私は、“後ろ”に自分の気配を感じた。
「わたしの背中に、わたしがいる」という感覚。
違う。ちがう。ちがう。
でも、見たらダメ。後ろを振り返ったら、“わたし”じゃなくなる。
黒板の鏡はもう閉じられてる。けれど、わたしの目の奥が、今は鏡だった。
誰かが見てる。
鏡の裏から、わたしの“視界”を借りて、ずっと。
美羽は、教室の中で動かない私を見つけた。
「朱音……!」って呼んでくれた。
でも、私の口は動かなかった。
だって――今、“この身体”にはわたし以外の声が入ってるから。
「ミウ、朱音、アカネ、ワタシ、きみ……」
「どの名前を選ぶの?」
目の前に、美羽が二人いた。
一人は、優しくて、泣きそうな顔をしてる。
もう一人は、笑ってる。瞳孔が開いて、首をかしげて。
どっちがほんもの?
わからない。
どっちも知ってる。どっちも嫌い。どっちも、わたしのこと、知りすぎてる。
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【視点転換】
(“わたし”は誰?)
佐々木朱音としての視界は、暗闇に沈みかけている。
でも、もう一人の私――高梨あかねは、目を見開いていた。
「あたしの番でしょ?」
机の下のリュックに、鋏が入ってる。
あの鏡守の女から、もらったやつ。
「切り裂いてごらん。“本物の皮”なら、名前が出てくるよ」
皮膚を剥けば、名前が見える。
“誰が”じゃなく、“何が”そこにいるのかが。
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美羽は、叫んだ。
「やめて……朱音、戻って!」
だが、その声に反応したのは、あかねだった。
「やだ。あたし、“選ばれたい”。存在したい。記憶じゃなく、“肉”になりたいの。あたし、“幽霊”じゃないよ?」
誰が、どこから来たのか。どこに還るのか。
意味なんてもういらない。
わたしはここにいた。
名前がなかったから、名簿に戻ろうとしてただけ。
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その時――
観察者が現れた。
白い仮面。目がない。顔の中央に楕円の鏡だけが埋め込まれている。
服は教師のスーツ。だけど顔が“反射”している。
それは言った。
「“君”が見たいと思ったものを、私は映しているだけだ」
「“朱音”を見たくなければ、“朱音”という概念を消せばいい」
朱音/あかねは、震える手で鋏を握った。
「名前を……切れば、消えるの?」
観察者は頷いた。
「君の中からも、世界からも、記録からも。
その代わり――君も、“君”でいられなくなるけど」
視界が崩れた。黒と赤のパッチワークに、記憶の断片が散らばっていく。
教室は形を失い、床は液体のように溶け始め、天井が落ちてくる。
“朱音”がいなければ、“あかね”も存在しない。
でも、“美羽”はどうなる?
あの子は、わたしのことを、最初から見ていた。
存在しない名前でも、確かに呼んでくれた。
それが、わたしの“記録”だった。
――だから、最後に“名前”を返す。
朱音は、鏡の破片を喉元に押し当てた。
「“わたし”は、朱音だよ――」
言葉が血の味に溶けたとき、教室が一瞬だけ“実在”した。
そして、すべてが音を立てて、砕け散った。