10
“朱音”は登校した。
廊下を歩きながら、ふと気づいた。
――視線が、すり抜けていく。
クラスメイトも、担任も、すれ違う生徒も――誰も声をかけてこない。
(……無視されてる?)
そう思って自分の席に向かったとき、足が止まった。
自分の机がない。
隅から隅まで見回しても、教室の中に「朱音」の席はなかった。
“あったはず”なのだ。昨日まで、毎日ここに座っていた。
なのに、机の並びにその空間は存在しない。まるで、最初からなかったかのように。
朱音は、唇を震わせた。
「わたし……ここにいたのに……」
教壇の横に貼り出されたクラス名簿に、駆け寄って確認する。
“佐々木朱音”の名前は、なかった。
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同じ頃、美羽は旧校舎で“記録の鏡守”を探していた。
その存在は、鏡守の間の老婆が言っていた――
「記録の鏡守は、物事の“欠落”を知っておる。忘れられた者、消された名前、そのすべてを記録している」
校舎の最上階、閉鎖された理科準備室に、誰も入っていないはずなのに灯りが点っていた。
扉を開けると、誰かがいた。
白衣を着た男。顔は鏡で覆われていた。
まるで自分の顔がずっとこちらを覗き込んでくるような、反射の仮面。
「君は……“もう一人の彼女”を見たね?」
鏡守は、静かに言った。
「自分が“ひとりだけではない”と知る者は、必ず崩れる。
記憶とは、他者との接点でしか保てない。名前も、人格も。
だが君たちは、今それを削られている。自我の芯を、少しずつ削られてるんだ」
美羽は問いかけた。
「朱音は……どこにいったの?」
鏡守は、引き出しから一冊の名簿を出した。
その最後のページに、黒字でこう書かれていた。
【佐々木朱音:記録抹消済】
【備考:同一個体の重複/記憶干渉による統合失敗】
「彼女は今、“存在の中間”にいる」
「中間……?」
「どちらでもない。どちらにもなれない。鏡の向こうでもなく、こちら側でもなく、“名前のない教室”に閉じ込められてる」
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朱音は、いつの間にか知らない教室にいた。
机は古く、窓ガラスには薄く埃が積もっている。
だが――その教室には、鏡が一枚も存在しなかった。
掲示板も、手洗い場も、反射するものすべてが外されていた。
「……ここは?」
教室の中には他にも生徒たちがいた。
が、誰も声を発しない。皆、無表情でじっと前を見ていた。
朱音が声をかけると、ある女子生徒が振り返った。
その顔には、目も口もなかった。
いや、最初は見えていたはずなのに、“見てはいけない”と感じた瞬間から形が曖昧になっていく。
“彼女”は言った。
「ねえ……あなた、まだ名前あるんでしょ。いいなあ」
「え?」
「わたしたちは、名前を剥がされちゃったから。
でも、だいじょうぶ。いずれ、“その名前”も、こっちにくるから」
その言葉に、朱音は背筋が凍った。
誰かが、教室の黒板に文字を書いていた。
【佐々木朱音 → 高梨あかね → 空欄】
名前が、順番に“消されていく”のだ。
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その瞬間、美羽が教室に入ってきた。
「朱音っ!」
朱音が振り返る。だが、その顔に戸惑いが浮かんだ。
美羽の目にも、ほんの一瞬、“朱音の顔が二重に重なって”見えた。
「あなた……どっち?」
朱音は笑った。
「わたしは朱音……でも、あの子も朱音。
もうすぐ、ぜんぶ混ざるよ。ねえ、美羽……」
そのとき、鏡のないはずの黒板の中に、“微かに反射する面”が浮かび上がった。
そこには、美羽自身の顔が映っていた。
だが、その顔は――口元に深い裂け目のある、“別の何か”だった。