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翌朝、朱音の部屋の机の上に、“覚えのない手帳”が置かれていた。
表紙は黒い皮革。留め具のボタンは血のような赤。
それだけでも十分不気味だったが、中を開いて朱音は息を呑んだ。
そこには、「朱音の日記」と記されていた。だが――
書かれている内容は、自分が経験していない日々の記録だった。
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〈3月5日〉
「美羽があたしを疑ってる。だって仕方ないじゃない。
“あたし”の方が、美羽よりずっと美羽のこと、知ってるんだから」
〈3月9日〉
「次のターゲットは、古川先生。彼が“消された名簿”の鍵を握ってる。
見つかる前に処分しなきゃ」
〈3月11日〉
「“もう一人”の朱音が邪魔してくる。
わたしは“わたし”なのに。なぜ誰も、気づかないの?」
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震える指でページをめくっていくと、自分が見たことのない文章なのに、“自分が書いた”ような気がしてくる。
手帳の字も、筆跡も、まぎれもなく自分のものだった。
頭がガンガン鳴る。
こめかみの奥で、誰かが笑っているような音がする。
「わたしは……わたしは、わたしでしょ……?」
声に出した瞬間、部屋の鏡がバチッと音を立てた。
見るな――そう思った。
だが、朱音の目は自然に鏡を捉えた。
鏡の中の自分が、笑っていた。
顔は自分なのに、まるで別人のようだった。
その自分は、口元に血のような口紅を塗り、黒目がちに笑っていた。
そして唇がこう動いた。
「――入れ替わろうよ」
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同時刻。
学校の図書室では、美羽が“影の名簿”と呼ばれるリストを発見していた。
そこには、「存在を失った生徒」の名前が並んでいた。
美羽はページをめくる。
名前、顔写真、生徒番号――
そして最後のページには、こう記されていた。
【第74期・鏡守候補生:佐々木朱音(偽)/高梨あかね(真)】
【統合度:82.4%】
【分離進行中:自己崩壊まで約16日】
「偽……? “朱音”が……?」
美羽の心に、深く鋭い氷の棘が刺さった。
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一方その頃、朱音は夜の学校にいた。
全身に冷たい汗をかきながら、鏡守の間――あの和室に向かっていた。
そこに、“鏡の中の朱音”が待っている気がした。
扉を開ける。
蝋燭がひとつだけ灯った室内。
鏡の前に、制服姿の少女が立っていた。朱音と同じ顔。同じ声。同じ匂い。
「ようやく来たね」
その“彼女”は笑っていた。
「“わたし”の代わりに外に出てくれて、ありがとう」
朱音は言葉が出なかった。心臓が痛い。膝が震える。
「でもね――もう、戻ってくれる?」
鏡の中の朱音が、手を差し出してくる。
「ここは“わたしの”席だから」
その瞬間、頭の中で何かが爆ぜた。
記憶が反転する。
日記が、逆さまに読まれるように。
過去が、歪んだまま貼り直されるように。
そして――朱音の“視界”が、二重にぶれた。
鏡の外の自分と、鏡の中の自分が、同時に“自分”として存在している。
どちらが本物?
どちらが先に“朱音”だった?
どちらが「嘘」なのか――もう、わからない。
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蝋燭が一瞬消えた。
そして次の瞬間、鏡の中の朱音がいなかった。
部屋には、朱音が二人いた。
同じ顔。だが、どちらかがわずかに目を逸らしている。
「美羽……呼んできて。わたしを信じてる、美羽ならきっと……」
「ダメよ。呼んだらダメ。美羽は“もうわたしの方”を信じてるから」
二人の朱音が、にじり寄ってくる。
「わたしが本物よ」
「ちがう、わたしが朱音よ」
「じゃあ――切り裂いて証明しようか」
どちらかが、懐からハサミを取り出した。
古びた裁縫用の鋏だった。鏡の金属枠に似た模様が、刃の根本に刻まれている。
「中身を見せてよ、“本物”なら怖くないはず」
朱音の視界が赤く染まった。
誰かが、誰かを刺したのだ。
悲鳴はなかった。ただ、鏡の奥で「よかったね、戻れたね」という声だけが、虚ろに響いていた。