プロローグ
黄昏が落ちて星が輝いていた。
夜空には赤銅色の満月が大きくそして静かに、妖艶の光の衣を纏いながら輝いていた。
太陽と地球、月が一直線に並び、月が地球の影に完全に重なりことで、地球の影で月面がすべて覆われる現象を皆既月食と呼ばれていた。
地球を覆う大気が巨大なレンズのような役割を果たし、地球よりも太陽の方が何百倍も大きいために、月へ届く太陽光を完全に遮断することができない。
そのため、プラズマの屈折散乱などでオレンジや赤茶色の光を反射し太陽光が屈折して月面に当たることで、日食のように完全に黒くならず、赤銅色に見えるのだ。
それをブラッドムーン(血の月)と呼ばれている赤銅色の月のことである。
桜庭美羽は軽音部の練習で高校の校舎に残っていた。
鍵盤とボーカルを担当している美羽は独りで遅くまで練習していたのだ。
今日の練習に区切りをつけて帰り支度をし、校舎の階段を下りていった。
階段の踊り場に全身を映せる大きな鏡があり、美羽はそこで制服リボンのアジャスターを少しきつく締めて制服の身なりを整えた。
「曲作りってなかなか地味で疲れたから早く家に帰りたい」
美羽は鏡面に映し出されている自分の姿を見ながら独り言を呟いた。
すると鏡面に映し出されている自分の姿と今自分が動いた動作が違うことに気がついたのだ。
「うそ……」
美羽の声が震えた。
この学校の七不思議の怪談で、校舎の階段踊り場の鏡に幽霊が出るという噂があることを思い出した。
鏡面の中の美羽自身が鏡の壁に両手をついて、こちらをじっと見詰めているのだ。
現実なのか、疲れていて幻覚を見ているのか分からない状況である。
美羽は恐る恐る鏡面へと近づいてみた。
突然、鏡面が水鏡のように波紋を表した。
そして、鏡面の中から二本の腕が姿を現し、美羽の腕を掴んで凄い力で鏡の中へ引きずり込もうとしているのだ。
「何!? 何なの!?」
悲鳴に近い声が廊下に響いた。
鏡の中へ引きずり込まれないように必死で抵抗したが、信じられない怪力で美羽は鏡の中へと呑み込まれていった。
そして、すれ違い様に美羽本人と同じ姿をした人物が、先程美羽が居た鏡の向こう側へを抜け出して行ったのだった。
自分も元の場所へ戻ろうとしたが、鏡の壁がそれを阻んだ。
「ちょっと! どうなっているのよ! わたしをここから出しなさいよ!」
美羽は鏡の向こう側の自分の姿をした人物へ向けて叫んだ。
鏡の向こうの人物は何か言葉を発しているが、美羽には何も聞こえない。
きっと自分の声も向こう側に届いていないのかもしれないと、漠然とであるがそう思った。
そして、鏡面は通常の鏡としての役割を思い出したように、再び美羽の姿をありのままに映し出したのだった。
「これから、どうすればいいのよ……」
美羽は途方に暮れた。
今起こった出来事は、実際に起こったことなのかさえ認識できないほど混乱していたのだ。
自分の周りを見渡すと、見慣れた校舎内であった。
階段から担任の先生が降りて来た。
「桜庭さん、まだ帰ってなかったのか!? もう遅いから早く下校しなさい」
担任の平野はそう言った。
「先生…… ここって、一高ですよね?」
「ん!? 桜庭さん、大丈夫か? ここは第一高等学校で間違いない。さあ、早く帰りなさい」
「そうですよね。先生、さようなら」
美羽はさっきの出来事は錯覚か何かで、本当は何も変わったことはなかったのではないかという考えが芽生え始めていた。
学校の校舎から出て、通いなれた道を歩きバス停まで向かった。
「バスも同じだし、時刻表も同じ。さっきのはやっぱり何でもなかったのかも」
美羽はそう自分に言い聞かせて、動揺を感じないようにストレッサーを感じないように回避していた。
バスに乗って移動し、自宅近くの停留所で下車した。
「定期も使えたし、やっぱり考え過ぎだよね」
いつもと変わらないことを確認するように自分に言い聞かせて納得させていた。
十分ほど徒歩で歩き自宅の玄関の前まで辿り着いた。
「鍵が合わないとか、お母さんがわたしのこと知らないとか言ったらどうしよう……」
不安だけが美羽の中で無限に肥大化していった。
鍵穴に鍵を差し込んで回してみると施錠されていたいたものは解錠された。
心臓が口から飛び出るのではないかというくらいに激しく鼓動していた。
「た、ただいま。お母さん居る?」
美羽は玄関の内扉を開けて、居間まで向かうと姿の見えない母親に声をかけた。
「あら、お帰りなさい。今日は遅かったのね。制服きちんとハンガーにかけて頂戴ね」
母親はそう言うと、台所へ戻り夕食の準備を再開した。
いつもどおりの母親の対応に美羽はやっと安心することができた。
やはり、先程の鏡の中へ引きずり込まれたのは何かの錯覚や思い込みだったのだと思うことができたのだ。
美羽は二階の自分の部屋へと向かって、制服を脱ぎ捨て家着に着替えた。
「部屋の中もいつもと変わらないし、やっぱり何もなかったんだわ」
いままでずっと不安に苛まれていた自分が滑稽に思えるほど、全てが解決したことに安堵したのだった。