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九話:生か死か

 走りながら、ベアトリスは涙交じりの嗚咽を漏らす。


「血がっ、血が止まりません! このままじゃ、ミューリが……!」


 肩を貸しているミューリの顔色は、青を通り越して白くなっている。

 押さえる腕の傷口からは未だに血が流れ出ていて、ボタボタと地面に滴り落ちて点々と赤い模様を作っている。

 いくら迷宮の不思議な力を取り込み、その恩恵を受けている迷宮探索者でも、不死身というわけではない。血を流しすぎれば死ぬし、肉体に著しい損傷を受ければ、もちろん生きてはいられない。常人より、致命的になる度合いが少ないだけだ。

 そして一人前でなく卵であるならば、程度の差こそあるがその身体はまだ常人に近いわけで。

 血を流し過ぎているせいかミューリの身体は力が抜けていて、踏み出す足もおぼつかずマーティが肩を貸さないと今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


「分かってる! だけど、まだストームベアと近過ぎる! もっと距離を取らないと!」


 聞き耳を使っているマーティには、ストームベアがあの場所から動いていないことが分かっている。だが、最初に見せたストームベアの突進はあまりにも早過ぎた。

 マーティの常識を鼻で笑うかのような非常識な速度だった。ミューリに庇われていなければマーティは死んでいただろう。重装備のミューリだからこそ、腕一本で済んでいるのだ。


「距離を取ってるうちに手遅れになったらどうするんですか! 姿が見えなくなってもう随分立つんですから、ここでいいでしょう!」


 ストームベアの非常識さが分からないベアトリスは、ヒステリックに金切り声を上げた。

 ベアトリスは、今にもミューリから命の灯火が消えてしまうのではないかと恐怖していた。

 もちろんエバーメント学園に入学した以上、迷宮で誰かが死ぬということを、ベアトリスが考えたことがないわけではない。学園迷宮は他の迷宮よりも比較的安全とはいえ、それでも迷宮なのだ。学園の授業で学ぶ座学では、まず初めに迷宮の恐ろしさを教えられる。

 それでも知らず知らずのうちに、自分たちの尺度で甘く見ていたことを、否定できない。外部迷宮のモンスターがあれほどまでに強いなどとは、ベアトリスは思ってもいなかった。

 戦いが常に死と隣り合わせなどと、まだ入学したばかりのベアトリスが、どうして想像できただろうか。見通しが甘かっことを、ベアトリスは恥じている。だからベアトリスは、ミューリを一刻も早く助けたい。そのためには治療が必要だ。そして治療は、走りながらでは出来ない。

 背後からベアトリスの非難の視線を浴びながら、マーティは歯噛みする。


(ここで学園迷宮のモンスターと遭遇すれば、ミューリの転移が発動するかもしれない。けど、絶対にそうなる保障もない。第一、ストームベアが追いつく方が早い)


 ストームベアの殺気に反応してか、それともミューリが流す血の臭いに引き寄せられているのか、聞き耳で捉えたストームベア以外のほとんど全てのモンスターが、全てゆっくりとマーティたちへ向かっている。

 その速度は、先ほど襲い掛かってきたストームベアに比べればまるで地面を這う芋虫のようだ。それでも、ミューリを支えて走るマーティよりも、圧倒的に遅いわけではない。回り込んでくる可能性もある。戦いは避けられないだろう。挟み撃ちだけは、避けなければならない。


(……くそ。ここまでか)


 気付けば激しかったミューリの呼吸が、少しずつか細いものに変わっていた。血を流し過ぎたことと、度重なる激痛で、ミューリの体力は尽きかけていた。

 確かにベアトリスの懸念は最もだ。これ以上ミューリの応急処置を先延ばしにするのは命に関わる。

 もう少し距離を稼ぎたかったが、マーティは決断する。


「分かった。ベアトリス、ミューリを床に下ろそう」


 あまり時間をかけてもいられない。

 聞き耳は、ストームベアだけでなく、ミューリが流す血の匂いに引かれて集まる有象無象のモンスターたちも捉え続けている。遅いとはいっても、それはストームベアと比べた場合の相対的な話であって、決して鈍間なわけではない。手早く済ませなければ囲まれてしまうだろう。

 魔法の鞄から回復薬を取り出して布巾にたっぷりと染み込ませ、千切れかけたミューリの腕を固定する。

 もう一枚の布で三角巾のように吊り下げると、マーティはもう一本回復薬を取り出してベアトリスに手渡した。


「これをミューリに飲ませて。血を流して体力が落ちてるから回復させないと。水魔法も使えば大分良くなるはず」


「分かりました。ミューリ、飲めますか?」


 回復薬を受け取ったベアトリスは震える手で回復薬の栓を開けてミューリに飲ませようとする。

 いつもの姿からは想像もつかない弱弱しい姿で、ミューリは回復薬を飲み干した。

 焦点が合っていない茫洋とした瞳で、ミューリがマーティとベアトリスを見た。


「ごめん。足手まといだね、わたし……。二人だけでも」


「そんなわけありますか。馬鹿なこと言ったらはったおしますよ」


 言外に足手まといの自分を置いていけと言おうとするミューリの台詞を、ベアトリスは最後まで言わせなかった。

 涙混じりの刺々しい口調でミューリを罵倒すると、ベアトリスは魔法を詠唱する。


「『ヒール』」


 発動した水属性の治癒魔法がミューリの出血を止めていく。

 出血は止まったが、それだけだ。

 ミューリは今もなお痛みを堪えて小さなうめき声を上げているし、千切れかけた腕は元に戻らない。

 状態は一向に良くなっていないことを確認して、マーティは舌打ちした。


「さすがにこれだけ症状が酷いと、低レベルのヒールじゃ気休めにしかならないか」


 自分が責められているように感じて、ベアトリスが顔を伏せた。


「すみません、力不足で」


「いや、でも、血が止まっただけでも十分だよ」


 微笑んだマーティはベアトリスを労う。

 実際、ベアトリスは良くやっている。本来ベアトリスは魔法使いであって、僧侶ではない。魔法使いの身で、低レベルであろうとヒールを使える方が珍しいのだ。

 治療の間も聞き耳を立て続けていたマーティは、血の匂いに惹かれて集まりつつあるモンスターの雑多な音の向こうで、ストームベアがついに動き出したのを足音で察した。

 マーティの心臓が凍る。動き出した以上、あと数秒でここまで追いついてくるだろう。すぐに動かなければ、三人とも死ぬ。三人で逃げてもおそらく、追いつかれて死ぬ。

 逃げ切れない以上、対策を練らなければどう動こうと結末は同じだ。


(足止めしなきゃならない。罠はどうだ。誰も罠なんて持ってきてないし、即興で作る知識もない。現実的じゃない。じゃあ、刺激玉をありったけ投げるのは? さっきやったばっかりだ。さすがに警戒してるはず。不意をつけるとは思えない)


 浮かんだ考えを、マーティはすぐに排除した。

 小細工に頼り過ぎるのは危険だ。思い通りになればいいが、失敗した時のリスクが大き過ぎる。

 一番の理想は、このまま逃げて輝石騎士団と合流し、彼らの助けを借りることだ。団長のカイオスを初め、いけ好かない人物が多いが、それでも実力は本物だ。何よりあの『小剣姫』がいる。彼らなら、必ずやストームベアを打倒してくれる。

 だがそのためには、覚悟を決めて自分にとって恐ろしい決断をする必要があった。それをマーティは回避したくて、別の方法を探すものの、全く思いつかなかった。

 歯を噛み締め、マーティは唸る。


(駄目だ。考えれば考えるほど、逃げ切るためには、ここに残って一秒でも長く、誰かが奴を足止めするしかない。そしてそれに一番適しているのは、ぼくだ)


 目の前が真っ暗になるのを、マーティは感じた。

 二人を生かすためには、誰か一人が残ってストームベアを足止めしなければならない。

 ベアトリスは無理だ。魔法使いの彼女では何をする間もなく相対した時点で殺される。

 怪我人であるミューリを置いていくわけにもいかない。置いていきたくないからここまで逃げてきたのだ。自分みたいな落ち零れとパーティを組んでくれたミューリを置いていく気など、マーティにはさらさら無い。


(……本当に、ぼくだけであんな化け物と戦えるのか。二人が逃げられるだけの時間を稼げるのか)


 死にたくないと思う弱い気持ちが、マーティの心の中で暴れている。

 理解しているのだ。マーティ一人ではどう頑張ってもストームベアに敵わないことを。

 才能はない。金もない。自信もない。マーティは何も持っていないのだ。あるのはお粗末なお手製の木製装備と、不安定な呼吸術だけ。

 それでも、今この場でストームベアと戦って、他の二人を救える可能性が僅かでもあるのは、マーティだけだ。


(ひるむな。恐れるな。男だろ。仲間を守れないで、何が男だ)


 なけなしの勇気を、搾り出すように奮い立たせる。

 時間がないことによる、背水の陣の境地。自分なんかと組んでくれた仲間に恩返しをしたいという思い。結局それが、恐れるマーティを突き動かした。

 立ち上がり、心配そうにミューリを見つめるベアトリスに背中を向ける。


「……ストームベアが動き出した。ミューリを連れて先に行ってくれ。ぼくもすぐに追いつく」


「わ、私も戦います。マーティ一人で何ができるっていうんですか」


 震える手で杖を手に取ったベアトリスからは、マーティの表情は見えない。

 見せなくていいとマーティは思った。

 一人であのモンスターと戦わなきゃいけないことに、怯えている顔など。


「ミューリを頼むよ。輝石騎士団のところに連れて行ってくれ。早く本格的に治療しなきゃ手遅れになる。それに、ぼく一人なら逃げ切れるかもしれない。逃げ足の速さには自信があるんだ。何しろ、今までそればっかり鍛えてきたから」


 自嘲気味に、マーティは呟いた。

 そうだ。いつだって一人だった。見た目からして田舎者で、迷宮のいろはのいの字も知らなかったマーティは、学生たちに敬遠されて、今まで一度だってパーティを組んで貰えたことが無かった。

 でも、だからこそ、積み重ねることが出来た経験だってあるのだ。危機的状況で生き足掻くことについては、マーティは誰よりも詳しい知識を披露できる自信があった。

 命を張ろうとマーティが決意していることと、この状況では、自分たちが足手まといにしかならないことを察したベアトリスは、きつい目でマーティを睨んだ。


「死んだら許しませんよ」


「うん。ぼくも死にたくないから、頑張るよ」


 そのやり取りを最後に、マーティとベアトリスは別れた。二人とも振り返らない。ただ自分のするべきことを果たすために走り出した。

 マーティは死地へ。

 ベアトリスはミューリを背負って輝石騎士団のもとへ。



■ □ ■



 こういうとき火魔法は本当に便利だと、ベアトリスはこんな状況だというのに場違いな感想を抱いた。

 本来の自分の体力では、とてもではないが女性とはいえ重武装の人間一人を担いでなんて走れない。それを、火魔法で無理やり体の熱エネルギーを引き出すことで補っている。もちろん通常の方法ではない。火魔法に筋力を上げる魔法はあるが、まだベアトリスには使えないので、こんな非効率な方法に頼らざるを得ないのだ。

 つまり、ベアトリスは火事場の馬鹿力を発揮し続けている。

 途切れ途切れに、背負われたミューリがベアトリスに話しかける。


「ごめんね、わたし、重いでしょ……? 置いていっていいから、今からでもマーティを助けに行ってあげて」


 ミューリの声は、普段の声量が嘘のように力が無かった。掠れた言葉はほとんど音にならず、密着しているベアトリスでなければ、聞き逃してしまうほど小さい。


「いいえ、軽いです。羽を背負ってるみたいです。ですから、黙ってください! 少しでも、体力を温存するんです! 勝手にくたばったら許しませんからね!」


 強がりを口にしたベアトリスに、ミューリは泣きそうになって顔を歪め、黙り込む。足手まといになっている事実が辛い。こんな時こそ、戦士であるミューリは、殿を務めなければならないのに。

 たった一撃で戦闘不能になってしまった。三人の中で一番ランクが高いとはいっても、結局は自分などその程度の実力しかないのだと、ミューリは自嘲した。


(嫌だな、わたし。置いていけって言ってるくせに、置いていかれなくてホッとしてる)


 結局は、ミューリだって怖いのだ。あんな化け物相手に、マーティといえどもいかほどの時間を稼げるというのか。留まれば死ぬと思ってしまうからこそ、取り残されることに恐怖している。

 遠目に道を塞ぐゴブリンの群れを確認し、ベアトリスが詠唱を始めた。

 このまま駆け抜けられることを期待していたのだが、やはりそう上手くはいかないらしい。

 ベアトリスの身体にしがみ付くミューリの身体に僅かに力が篭る。

 こんな状況でも、ミューリは自らベアトリスの背から飛び降りるという選択肢が取れなかった。

 やはり、口で何と言おうと、死ぬのは恐ろしい。


(……ごめんなさい)


「『フレイムボール』!」


 魔法を発動させるベアトリスは、これで全滅させられるなどと思っていない。

 それでも、遠慮なしに全力で唱えた炎魔法は、多くのゴブリンたちを巻き込み、隙間を作り出した。

 できた隙間を、全力で駆け抜ける。

 未だ残る火魔法の熱気が肌を炙り、髪を焦がす。

 すれ違いざまに一匹のゴブリンに腕を棍棒で叩かれたが、ベアトリスは唇を噛んで痛みを堪えた。

 意地でも抱える腕は崩さない。

 この程度、ミューリが受けたストームベアの一撃に比べれば軽すぎる。

 もう一度振り返らずにフレイムボールを背後に炸裂させ、爆風に煽られる形で距離を稼ぎながら、ベアトリスは先を急ぐ。

 敵はまだまだ現れる。


「……吸血蝙蝠」


 天井近くを飛んでいる蝙蝠の群れを睨んだミューリは、すばやく詠唱に入った。


「ディレイ。『ファイアアロー』『ファイアアロー』」


 詠唱スキルの効果で完成した魔法を待機させ、次の魔法と同時に発動させる。普段の量の二倍もの炎の矢が、多くの吸血蝙蝠を地に縫い止めた。

 まだ何匹か残っているが、それくらいなら問題ない。

 追い縋る吸血蝙蝠に少なくない血を吸われながらも、ベアトリスは意地でも自分の体を盾にしてミューリの血は吸わせなかった。

 満身創痍になりながら、ベアトリスは輝石騎士団のキャンプ場へたどり着いた。

 いかにも金がかかっていそうな豪華な天幕がいくつも並んでいる。

 ベアトリスは血走った目で、見覚えのあるベティの姿を捜した。


「ミス・ヴァレイスティールはいませんか!?」


 鬼気迫った表情のベアトリスに、外で見張りをしていた輝石騎士団の一部がぎょっとする。

 騒ぎを聞きつけて、テントの一つから僧服姿の少女が顔を出した。


「ベティなら今哨戒に出ちゃってるけど……。って、あなたたち、酷い怪我じゃない! こっちに来なさい!」


 ベアトリスとミューリが血だらけであることに気付いて、少女が慌てて飛び出してくる。

 重傷のミューリを引き渡しつつ、ベアトリスは自分の治療を辞退した。


「その前に、報告を。ストームベアと遭遇しました。助けてください。今、マーティが私達を逃がすために、戦っているはずなんです」


「……その話、詳しく聞かせてもらおうか」


 背後からかけられた声に驚いたベアトリスが振り向くと、不機嫌そうな表情でカイオスが立っていた。


「後にしてちょうだいカイオス。治療が先よ」


 冷たい声音でピシャリと言い放つ僧服姿の少女に、カイオスの額に青筋が浮かんだ。


「平民など放っておけ。今はストームベアの行方の方が重要だ。万が一にもあの出来損ないに倒せるとは思わんが、ストームベアに逃げられたら厄介だからな」


 暗にミューリやマーティを見捨てる趣旨の発言をされ、ベアトリスは激昂した。


「ストームベアのことしか頭にないのですか!? 彼女の怪我を見ても、何も感じないと!?」


 カイオスはミューリの頭からつま先まで舐めるように見回すと、ふんと鼻を鳴らしベアトリスに向けて薄笑いを浮かべる。


「当たり前だろう。取るに足らん平民の命とストームベアの行方など、比べるまでもない。貧乏男爵家の三女でしかない分際で吼えるな」


「っ、あなたみたいな貴族がいるから……!」


 激昂して手を振り上げたベアトリスを、僧服姿の少女が制止する。


「そこまでにしておきなさい。それ以上は冗談では済まされないわ」


 身分違い。ベアトリスの前に横たわる壁がそれの名前だ。

 同じ貴族であっても男爵家のベアトリスと公爵家のカイオスでは天と地ほどの差がある。特にベアトリスのヴィーチェ家は過去に目立った功績もなく、力の弱い貧乏男爵家だ。

 逆とは違い、下が無礼を働けば問題になるのは、水が上から下に流れ落ちるのと同じくらい当然のことだった。

 歯を食いしばって憤りの感情を飲み込むベアトリスに嘲りの言葉をかけようとするカイオスにも、僧服姿の少女は鋭く否定の声を上げた。


「あなたもよ、カイオス。平時ならともかく、怪我人を前にして私たちクレリックに身分の差なんて関係ない。唯一区別することがあるとすれば、重症か、軽症か、それだけよ。分かったら向こうへ行って。これ以上治療の邪魔するなら、教会を通して正式に抗議するわよ」


 僧服姿の少女の恫喝に、カイオスは明らかに怯んだ。

 公爵家の人間といえど、教会に睨まれればただでは済まない。万が一破門などされようものなら、それは没落を意味する。

 そして僧服姿の少女は、現教皇の娘であり、医術と水魔法に秀でた聖女の再来と名高い医術士だ。教会に対する影響力は公爵家を凌ぐ。


「……分かった。エルザがそこまでいうのなら、待とう。だが、ヴィーゼから話を聞くくらいは治療しながらでもできるだろう。聞かせてもらうぞ」


「そうしなさい」


 しぶしぶベアトリスに向き直るカイオスを他所に、エルザと呼ばれた僧服姿の少女はミューリの治療を始めた。

 ミューリの治療をするエルザは、半ば強制的にベアトリスにも治療を受けさせた。

 傷口を確かめ、消毒をし、包帯を巻くその手つきはよどみなく、確かな経験に裏打ちされた自信を感じさせる。


「魔法は使わないのですか?」


 医療技術である医術で治療を行うエルザに、カイオスに事情を説明していたベアトリスは、疑問を感じて問いかけた。


「この程度なら、必要ないわ。だけど、少し血を失い過ぎているみたいだから、あなたはこれを飲んで。造血薬よ」


 赤黒い丸薬をベアトリスに手渡しながら、エルザはもう片方の手をミューリに翳している。

 高位の水魔法で腕の治療を行っているのだ。

 水魔法1しか持たないベアトリスでは血を止めるのが精一杯だったミューリの腕が、エルザの水魔法で繋ぎ合わされていく。呼吸も正常になり、痛みを堪えて歪んでいたミューリの表情が、穏やかなものになっていく。

 治療が終わった頃には、ミューリの腕はぐちゃぐちゃに千切れかけた事実が嘘のように元の形を取り戻していた。


「動かしてみて。神経も繋がっているはずよ」


 傷が治ったことを確認して大きく深呼吸したミューリは、恐る恐る、左腕に力を込める。


「本当だ……凄い! 動く!」


 ゆっくりと腕を動かしたミューリは、完治したことに喜色満面の笑みを浮かべてエルザに向き直る。


「ありがとうございました。治療代は必ず支払わせていただきます」


 畏まるミューリに、僧服姿の少女は気さくに笑った。


「治療代は別に必要ないけれど、恩義を感じてくれるなら教会へ寄付してくれると嬉しいわ」


 いたずらっぽく微笑むエルザと恐縮するミューリに、ベアトリスから話を聞き終わったカイオスが辟易した様子で割り込む。


「事情は理解した。僕は奴が死のうが一向に構わんが、急ぐことには賛成だ。エルザ、お前は風魔法でベティと連絡を取って呼び戻せ。僕はその間に出発準備を整えておく。ベティが戻ってきたと同時に出発するぞ」


 頷いたエルザが駆け出し、輝石騎士団の面々がカイオスの命令を受けて慌しく準備を始める。

 それから輝石騎士団が出発したのは、僅か二分後のことだった。



■ □ ■



 視界が目まぐるしく動く中、マーティはストームベアの爪が自分目掛けて走るのを見た。

 もう何度目か数えるのも馬鹿らしくなる、当たれば即死の一撃。


「『猫の呼吸』!」


 呼吸術を発動させ、空中に身を躍らせる。

 さながら猫のように器用に身を捻り、確実に自分の命を刈り取るであろう一撃を飛び越える。

 マーティの位置はちょうどストームベアの頭上にある。完全に死角だ。

 しかもストームベアは腕を振り切っていて、反応するのに時間が掛かる。


(一撃……入れられる!)


 両手でショートソードを振りかぶり、落下速度を乗せ手加減無しに全力で脳天に叩きつけた。

 ストームベアが飛び回る蝿を追い払うかのように両手を振り回すのを、マーティは寸前でストームベアの頭部を蹴ってとんぼ返りをすることでかわす。

 着地と同時に呼吸が乱れ、呼吸術が切れる。

 思い出したように息を整えながら、マーティは歯噛みする思いでストームベアを睨んだ。

 これ以上ないほどの攻撃が全く効いていない。

 死角から会心ともいえる一撃を喰らわせても、目の前のモンスターは堪える様子もなくピンピンしている。


(やっぱり、猫の呼吸じゃ軽すぎるのか……?)


 以前から薄々感じてはいたことだった。

 今のマーティが唯一使える呼吸術である『猫の呼吸』は、身軽さに優れ敏捷さや器用さ、気配察知力を大いに引き上げてくれるが、反面破壊力と持久力には欠ける。今までの迷宮探索で散々使っているというのに、すぐ疲れて何かの拍子に呼吸が乱れ、呼吸術が解けてしまうのも問題だ。

 ソロ探索の時はモンスターと戦うことは、探索失敗のフラグ同然だったから、『猫の呼吸』の非力さは問題にならなかったが、ここにきて弱点が露呈した。

 一撃喰らえばマーティはほぼ終わりだというのに、ストームベアに何発当てようがまるでダメージになっていない。

 素の腕力に差があり過ぎる。

 かといって素の速さでも圧倒的にストームベアが勝り、『猫の呼吸』で辛うじて拮抗状態に持っていけているので、不利を悟っても逃げるに逃げられない。

 刺激玉で仕切りなおそうにも、散々使ったせいで、段々ストームベアも刺激玉の対処に慣れてきたらしく、不意をついて投げても咄嗟に避けられるようになってしまった。

 そもそもの問題として、ストームベアに攻撃を通すには、マーティには腕力も武器の重さも足りない。特に攻撃力に補正が掛からない『猫の呼吸』では、文字通り時間稼ぎが精一杯だった。

 ただ、『猫の呼吸』であるからこその利点がマーティを薄氷の上で踊らせ続けている。

 相対してから今まで、ストームベアには使えば必殺に繋がるハウリングボイスを一度も使わせていない。

 ハウリングボイスを発動させるためには二呼吸ほどの間だが溜めが要る。効かないとはいえ、『猫の呼吸』使用時の攻撃は、ダメージにはならずとも、集中を殺いでその溜めを解除するという意味では十分に効果をもたらしている。ハウリングボイスの溜めに気付いてからでも、『猫の呼吸』なら発動の妨害に間に合うのだ。

 とはいえ、このままではジリ貧であるのも事実。決め手に欠ける『猫の呼吸』では膠着させるのが精一杯。逃げるのも不可能。状況を動かすには別の呼吸が必要だった。

 当てはある。何しろマーティの目の前に理想的な呼吸のお手本がいるのだ。ストームベアはモンスターだが、同時に熊でもある。つまり、ストームベアの呼吸を真似することは、熊の呼吸を真似することと同じ。

 だが真似をするといっても、それは簡単なことではない。『猫の呼吸』ですら、四六時中暇をみては愛猫の呼吸を観察することで、やっとの思いで習得したのだ。相対してから今まで、攻撃を予測するという意味でもストームベアの呼吸を注視し続けているとはいえ、『熊の呼吸』の習得は相応の難度が予想される。

 仮に『熊の呼吸』をマーティが発動させることに成功しても、それがストームベアの防御を貫けるかどうかは未知数だ。何しろマーティの獲物は破壊力よりも小回りの良さを重視したショートソードで、しかも木製だ。材料は金属ですらなく、威力が高い武器とは到底いえない。

 呼吸術で武器の能力が上がるわけではない以上、武器を破壊力重視のものに変える必要がある。重量があって、遠心力を乗せられるものが理想だ。

 だが、都合良くそんなものが転がっているはずもない。

 マーティは、一か八か『熊の呼吸』に命を賭けることもできず、終わりが見えない戦闘を続行することしかできなかった。

 体感で、どれほど孤独な戦いを続けていたことだろう。

 どれほど気を張っていようと、人間である以上必ず限界は訪れる。

 長かった戦闘は、一つのミスで呆気なく終わりを迎えようとしていた。

 『猫の呼吸』を使わなければ身動きの取れない空中で、呼吸が乱れて『猫の呼吸』の効果が解けてしまった。

 途端に重くなったマーティの身体はろくに動かず、無防備なわき腹をストームベアの眼前に晒している。

 ストームベアが腕を振り上げるのを、マーティは刹那に引き伸ばされた感覚で見つめた。

 もどかしいほどの遅さで、ストームベアの鉤爪がマーティのわき腹に走る。

 肉が裂け、腹から零れた自分の臓物が地面にぶちまけられる一瞬先の光景を、マーティは幻視した。


(ああ。これ、死ぬな)


 呼吸を整えて回避しようにも、実際のストームベアの一撃は疾風同然だ。間に合わない。回避できない。終わる。終わってしまう。ここがマーティの死に場所になる。もうミューリにも、ベアトリスにも会えない。一人で寂しく、骸になる。

 恐らくはマーティも、今までの被害者と同じように巣に持ち去られ、喰われるのだろう。死んだ後で、マーティは身体の残骸だけでも、見つけてもらえるのだろうか。


(これで終わりなのか。落ち零れのまま、何もできずに、こんなところで)


 もうどうしようもなく、どこか他人事のようにそんな感想すら抱いてしまう。

 だって、こんな状況でどうしろというのだ。

 危機的状況で感覚が増大しているからこんなに長く物事を考えられるのであって、実際には刹那の時間で全てが決まってしまう。呼吸を整えようと肺に空気を送り込んだところで体感は元に戻り、マーティははらわたをぶちまける。

 それは、マーティ一人で戦っている以上、確定された未来だった。決まりきった未来が覆されるというのなら、それは奇跡に他ならない。

 例えば、そう。間一髪で、助けが間に合ったとか。

 マーティの目には、銀光が閃いたとしか、見えなかった。もちろんそうではない。銀光の正体は、余りにも速い剣戟だ。

 振りぬかれたベアクローは、交差する二本の小剣によって弾かれた。

 目を見開くマーティの前で、長い髪が翻る。

 鉤爪と小剣が打ち合った余韻が甲高い音として響く中、美しい女性が、そこにいた。

 凛とした眼差しは、真っ直ぐ油断なくストームベアを見つめている。

 さりげなく満身創痍のマーティを庇うような立ち位置なのは、どういう気遣いの表れか。

 異性を感じさせるプロポーションでありながら、張り詰めた弓のように筋肉が詰まった肉体は、間違いなく戦闘を生業とする者の身体に違いないのに、それでいて可憐だった。

 ストームベアが、後ろ足で立ち上がり、両手で爪撃を乱打した。

 迎撃するは、可憐な少女双剣使い。だが、見た目とは裏腹に彼女が繰り出す剣戟は苛烈だ。

 相対する美しいかんばせが歪み、歯が食い縛られる。足は根を張ったかのように大地を踏み締め、太ももに太い筋肉の筋が浮かび上がる。

 一歩も引かない双剣士の腕の筋肉が盛り上がる。重い打撃音と共に、二振りの双剣が、連続で繰り出される爪撃を真正面から次々と迎撃する。

 取り立てて恵まれた体格には見えないのにも関わらず、彼女が持つ二振りの小剣は、確かにストームベアの攻撃を打ち落とし、いなした。双剣を支える筋力、変幻自在に扱う技術、その足運び、身のこなしさえもが、明らかに他とは隔絶している証拠だった。

 迷宮に漂う不思議な力の恩恵。彼女を超人足らしめる、常識外の力だ。

 驚愕とするマーティの口から、その名が自然と漏れる。


「ベティグランデ・ヴァレイスティール……」


 憧れの存在である少女が、マーティの絶体絶命の危機を救い、ストームベアの前に立ち塞がっていた。

 それだけではない。

 槍使いの戦士が、大斧を担いだ戦士が、あのいけ好かないカイオスでさえ、それが当たり前であるかのようにベティに倣い、マーティを追い越して前に出た。

 輝石騎士団が到着したのだ。

 後に続く僧服姿のエルザは他のメンバーに倣わず、マーティの元に向かう。

 ざっとマーティの状態を診察したエルザは、驚きに目を見張った。


「擦り傷、切り傷、打撲過多。されど、全て命に別状なし。……Fランクの子がストームベアと戦ってこの程度で済むなんて。奇跡だわ」


 マーティはあちこち体中に生傷を拵えていたが、その全てが身体の重要箇所を外れており、命に別状はないといって良かった。

 手早く傷口を洗浄して消毒を行うと、エルザは立ち上がる。

 事情を理解しきれないマーティに、続いてやってきたミューリとベアトリスが飛びついた。


「生きてる! マーティが生きてる!」


「……良かった、本当に良かった」


 ミューリもベアトリスも泣いていた。

 羽交い絞めにするミューリの力は加減が出来ていなくてちょっと強すぎるし、抱きついてくるベアトリスの腕は何故かマーティの首に食い込んだが、その痛みが返ってマーティに生き延びたことを強く意識させた。


「それでは私も騎士団の皆の加勢に入ります」


 僧服姿のエルザもストームベアの戦闘に加わる。

 ストームベアと戦う輝石騎士団と、自分に抱きついている二人の少女を代わる代わる見つめるマーティは、ようやく状況を飲み込み、助けが来たのだと気がついた。

 ふらつく身体を叱咤して立ち上がる。最後の一瞬で抱いた恐怖が残っているのか、足が少し震えた。

 本調子ではないことを見抜いたミューリとベアトリスが反応する。


「駄目だよ、無理しちゃ」


「休んででください。マーティはもう十分頑張ったんですから」


 押し留めようとするミューリとベアトリスを無意識に『猫の呼吸』を使いつつするりとかわし、歩き出す。


「寝てなんかいられないよ。あんな次元の違う戦い、二度と見られるかどうか分からないんだから」


 真剣な表情で戦場を見つめるマーティに触発され、探索者としての血が騒いだのか、誘われるようにミューリとベアトリスがマーティの両隣に並び立つ。

 眼前では、輝石騎士団の面々とストームベアが激闘を繰り広げようとしていた。


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