四話:翠玉色の獣
自分たちの頭上で吸血蝙蝠の群れが通り過ぎていくのを、マーティとミューリは引きつった顔で見送った。
暗がりに蝙蝠の姿が消えるのを確認して、ミューリが口を開こうとするのを、マーティはジェスチャーで押し留める。見えなくなっただけで、まだ近くを飛んでいるかもしれないからだ。
たっぷり時間を掛けて回りの気配を確認したマーティは、特に不審な物音が聞こえないので、安全になったと判断する。
それでも念には念を押して、小声で話す。
「もういいよ。いなくなったみたいだ」
「これで何回目かな。遭遇したの」
げっそりした声音のミューリに、こちらもやや辟易した様子でマーティが答える。
「気付かれて火で追い払ったのが三回。気付かれずにやり過ごせたのが二回かな」
先に気付けるかどうかは、単独探索で培われたマーティの聴覚をもってしても運に頼る部分が大きい。必然的に襲われる回数も増え、二人ともすでに何度か血を吸われている。
すぐに止血しているので大事に至ることはないが、それでも鬱陶しいものは鬱陶しい。
吸血蝙蝠だけではなく、普通にゴブリンとスライムもいるので、索敵するマーティの負担は大きいが、それでも味方がいるという事実だけで、普段よりかは和らいでいる。
実際にミューリは良くマーティのフォローをしている。不必要な動きは控えて無駄な音を立てるのを抑えているし、吸血蝙蝠が出れば指示されずとも前に出て松明で追い払っている。
その最中にゴブリンなどのほかのモンスターが現れれば手持ちの刺激玉を投げて撤退する機会を作るなど、対応が手馴れていた。
考えてみれば当然だ。ミューリは本来、もっと深層で探索していたのだから、吸血蝙蝠とはもう何度も戦っているはずだ。人数の違いから対応方法に違いが出るとはいえ、覚えてしまえばミューリは堅実にそれをこなした。
「刺激玉を買っておいて良かったでしょ?」
「そうだね。持ってなかったら危なかった」
得意そうな表情のミューリに、マーティは素直に頷く。
実際戦闘の最中に他の敵に襲われるのは、マーティがよく経験する必敗パターンだった。
一回使っただけで無くなってしまうので、今まで買うのを渋っていたマーティだったが、今度から余裕があれば買っておこうと決める。余裕がないからやっぱり買わないとほざく未来のマーティが目に見える決意だ。実際問題マーティの財力では刺激玉を買う余裕がないので、仕方がないところではあるが。
「それにしても、結構進んだね」
声を潜ませながらも、弾ませるのを押さえきれない様子で、マーティがミューリに話しかけた。
「結構って……まだ地下四階よ」
呆れた顔で振り向いたミューリは、たちまち落ち込むマーティの様子に、自分の失言に気付いた。
ミューリにとっては上層に過ぎなくても、マーティにとっては自己ベストなのだ。
「その、ごめんね?」
「いや、いいんだ。ぼくが進めなかったのが悪いんだし」
気にするなという意味をこめてマーティは苦笑する。
釣られたようにミューリも笑った。
「まあ、わたしも最後にソロで潜ったときは地下六階で倒れたから、人のこと言えないね」
当時のことを思い出したのか、ミューリの微笑みが苦味を帯びる。
不意にマーティが表情を改めた。
「っと、進行方向に無数の羽ばたき音。真っ直ぐこっちに近付いてきてる。喋ってて気付かれたかな、これは」
「どうせ私が音立ててるし、仕方ないわよ。松明を使うわ。マーティは刺激玉で新手を警戒してくれる?」
「分かった」
鞄から取り出した刺激玉をマーティに手渡し、ミューリは松明に火をつけて掲げる。
そう時間もかからず、暗がりの中から吸血蝙蝠の群れが姿を現した。
■ □ ■
迷宮を一組のパーティが探索している。
全員が男で、皆貴族の三男や四男といった、尊い血筋に生まれながらも爵位を継ぐことが出来ず、自らで身を立てなければならない者たちだ。
学園の中では中程度の実力を有するパーティで、EランクまたはDランクのメンバーで構成されている。
「やっぱり、この先に何かありそうだ」
行き止まりの通路を調べていた生徒が、壁を叩きながら仲間を振り返った。
「ここだけ壁を叩いた音が違う。きっと空洞になってる」
壁を調べている生徒の報告に、仲間の生徒たちが色めき立つ。
「ここに隠し通路があるなんて報告、今まで無かったぞ。新発見じゃないか」
「未踏破の通路が続いてる可能性が濃厚だな」
浮き足立つ生徒たちは、興奮を抑えきれない様子で、この先に何があるのか気になって仕方ないようだ。
リーダー格の生徒が、方針を決め、全員に指示を出す。
「隠し通路か。なら、壁を壊すぞ。皆、つるはしを持て。背後の警戒は怠るなよ」
そのパーティは、つるはしで通路を塞いでいた壁を壊した。
壊してしまった。
■ □ ■
いつもと同じように自分の縄張りを見回っていた彼女は、長らく行き止まりだった通路が通れるようになったことを、風の流れで知った。
風の流れは、同時に不快な人間の臭いを運んできた。
彼女は人間を嫌悪している。彼らは無遠慮に彼女の縄張りを踏み入り、荒らしていく。同族の中には、我が子を人間にかどわかされた者も多い。大人になればそうそう人間に遅れは取らないが、赤子はそうもいかない。人間は、弱い赤子をこそよく狙うことを、彼女は経験から知っていた。
今は彼女とて、愛すべき赤子がいる身である。同族に降りかかった不幸は他人事ではない。
守らなければならない。
走り出した彼女はたちまち風となった。迷宮に潜む同族の中でも、彼女の速さは群を抜いている。
四足で駆けた彼女は、すぐに現場にたどり着いた。彼女が見たものは、崩落した迷宮の壁の残骸だった。
崩れた壁の向こうでは、六匹の人間が突然現れた彼女を見て、間抜け顔で固まっていた。
固まっていた人間たちは、現れたのが彼女だけだということを確認すると、たちまち欲望に目をぎらつかせた。
「おい、何だあのモンスターは……。こんなの上層にいたか?」
「少なくとも俺は一度も見ていないな。希少種かもしれない」
「だとしたら、貴重な素材が手に入るかもな。希少種でも上層じゃ強さはたかが知れてるし、狩ってみるか」
「できれば殺す前に巣を見つけたいな。何か溜め込んでいるかもしれないし、赤子がいれば捕まえて高値で売れる」
「この先って、もしかしなくても未発見地域じゃないか?」
「マジか。だとしたら、俺たちで宝を全部見つければ、独り占めできるな」
勝手なことを。
不機嫌さを隠さず、彼女は低く唸り声を上げた。
自分たちよりも彼女を低く見ていても、油断とまでは行っていないのだろう。
好き勝手に囀っていた人間たちが、彼女の唸り声を聞くと、たちまち囀りを辞めて彼女の動向を伺う。
──この先には行かせない。
息を吸い込み、彼女は大音量の咆哮を上げた。
「しまった、ハウリングボイスだ! くそっ、なんで上層のモンスターがこんなスキルを使いやがる! おい、解除急げ!」
「やばいぞ! クレリックが固まっちまってる!」
「ならアイテムで解除しろ!」
「わざわざ買ってねーよそんなもん! こんなの想定外だ!」
「非常用のが一つだけあっただろ! それでクレリックだけ先に解除しろ!」
「早くしてくれよ! あいつ近付いてきてるぞ!」
悲鳴のような怒声が交錯する中、彼女はゆっくりと近付いて白い神官服に身を包んだ人間の目の前まで歩くと、後ろ足だけで立ち上がった。
「あ、ああ……」
目の前の人間が顔を歪め、震え始める。
彼女は力を篭めて、己の前足を人間の頭に振り下ろした。
石榴のように、人間の頭がはじけ飛ぶ。
血しぶきを浴びながら、彼女は二たび吼えた。
「嘘だろ……クレリックが……」
「これ本当に生きてるのか……? 頭が……」
「おかしいぞ、学園迷宮のモンスターのはずなのに、緊急転移が発動しなかった!」
「し、死にたくねぇ。俺は逃げるぞ!」
「あっ、待て! ……あいつ、自分に薬使って一人で逃げやがった!」
人間のうちの一匹が彼女の咆哮から逃れて逃げ出すのを、本能が追いかけたくなるのを堪え彼女は悠然と見送った。
すでに全員の臭いは覚えている。いくら逃げようとも、必ず追い詰められる自信が彼女にはあった。だからまずは、目の前の人間から始末するべきだろう。
殺戮が始まった。
■ □ ■
最後の一匹は、思っていたよりも呆気なく見つかった。
見つけた人間には、無数の吸血蝙蝠が集っていた。吸血蝙蝠が殺してくれるなら、彼女としてはそれでも良かったのだが、彼女が近付くと、吸血蝙蝠たちが驚いて人間から離れる。蝙蝠たちはそのまま彼女を恐れて飛び去ってしまった。
吸血蝙蝠の群れを見送った彼女は、思わず首を傾げた。
彼女が知るモンスターは、そう簡単に獲物を放って逃げたりしない。
獲物の横取りはもちろん迷宮のモンスターの間でも起こり得るが、今のように簡単に諦めたりはしないというのが、経験則から来る彼女の常識だった。
とはいえ、彼女のするべきことがそれで変わるわけでもない。
不思議に思いながらも、彼女はあっさりと残りの一匹を殺す。
人間を片付け追えた彼女は、しばし思案する。蝙蝠が飛び去った方向には、まだ二匹の人間の臭いがした。
だが今は、彼女が彼らを襲う理由はない。
巣で待っている我が子を人間から守る。それが彼女にとっての最優先事項だ。
自分の姿を見た人間は全員殺したし、縄張りからも少々離れすぎた。そろそろ頃合だ。巣に戻らなくてはならない。
死んだ六人の人間を、彼女は全て巣に持ち帰った。これでしばらくは食べ物に困らない。
巣で我が子を見守りながら、彼女は思った。
もしかしたら、あの崩れた壁の向こうからまた人間がやってくるかもしれない。となると、忙しくなりそうだ。
我が子との時間が取れなくなるのを、彼女は嘆いた。
■ □ ■
現れた吸血蝙蝠の群れは、マーティとミューリを無視してそのままどこかへ行ってしまった。
「……あれ? どういうこと?」
身構えていたミューリが、呆気に取られた顔で吸血蝙蝠たちが飛び去った方角を見つめる。
厳しい表情で、マーティは蝙蝠たちがやってきた暗がりを見つめている。
「ぼくたちを気にしていられないほどの何かが、この先にあったのかも。向こうから、なんだか凄く嫌な気配がする」
「ちょ、何よそれ。近付いてきてるの?」
不吉なマーティの言葉に、ミューリが慌てて盾を構え直した。
「いや、遠ざかってる」
「良かった。なら気付かれてないのね」
気付かれていない。本当にそうなのか。
安堵するミューリに対して、マーティは疑念を捨てきれないでいた。
モンスターは基本的に好戦的だ。探知能力も平均的に高く、探索者である人間を見つけると、積極的に襲ってくる。それは吸血蝙蝠も例外ではない。
好戦的であるはずのモンスターが、マーティとミューリを補足していたであろうにも関わらず、襲ってこなかったのはどういうことか。
「……先に進んでみよう。何か分かるかもしれない。ただし、くれぐれも気をつけて」
ミューリに目配せし、マーティは慎重に歩を進めた。
進んだ先には、異様な光景が広がっていた。
まるでペンキをぶちまけたかのように、迷宮の床に赤い液体が広がっている。
「何これ……。血の跡?」
確かめるまでもなく、赤い液体からは鉄錆のような臭いが漂ってくる。
臭いを嗅いで口元を押さえたミューリが、不快感を堪え呻いた。
「もしかして、ここで事故が起こったの?」
ミューリがいう事故というのは、いわゆる迷宮のモンスターによる、探索者の殺害行為のことである。
学園が管理しているこの迷宮に棲むモンスターは、基本的に人間を襲いはするが、殺害にまで至ることは少ない。迷宮を探索する生徒たちが戦闘不能になった時点で、モンスターに埋め込まれている緊急制御機能が働くからだ。
モンスターの攻撃衝動を抑えると同時に、緊急制御機能の発動を察知したエバーメント学園の学生証が、転移により生徒たちを学園に帰還させる。これにより死亡事故を防いでいる。
だが、稀にこの緊急転移が働かず、結果的に人間を死なせてしまうことがある。
原因はいくつもあって、単に学生証の携帯し忘れから、学生証自体の故障、該当モンスターの緊急制御装置の異常など、可能性を挙げればきりがない。
前例は過去にいくつか記録されている。確立は低いが、絶対にないともいえない。
万が一を考え、これ以上の探索は危険だと、マーティは判断した。
「探索は中止だ。地上に戻って、このことを学園に報告しよう」
「えっ? まだ地下四階じゃない わたし、こんなところで戻りたくないわ。モンスターたちから剥ぎ取った素材を全部売り払ったとしても、赤字になっちゃうもの」
いかにも商人の娘らしい発想で、ミューリが反対する。
「気持ちは分かるけど、想定外の危険が発生してる可能性がある。今無理して先に進む必要はないよ。生きて帰れれば、また潜れるんだから」
「でも、でも、上層なのに戻ったら、皆に陰で何て言われるか……」
帰った後の自分の立場の変化を気にしているのか、ミューリは撤退することに消極的だった。
気持ちはマーティにも分かる。
確かにここで引き返して、その後何も確認されなければ、マーティもミューリも臆病者の謗りを免れない。間抜けと呼ばれても仕方が無い。ただでさえ良いとはいえない成績も、さらに下がるだろう。
だがやはり、命あっての物種だ。
この迷宮の存在意義は、学園を通じて迷宮探索のノウハウを学び、実践することにある。本来の迷宮の危険度は、学園迷宮の比ではない。実際、卒業し立ての元生徒たちで構成されたパーティが、最初の迷宮探索で壊滅した、というのは毎年一度は聞くよくある話。
それでも、ミューリは先に進みたがっている。
「学園を卒業した後、ミューリはどうするつもりなの? 迷宮探索を続ける?」
「えっ?」
急にそんなことを尋ねられるとは、思ってもいなかったのだろう。びっくりした顔で、ミューリはマーティを見た。
実は、学園を卒業した生徒たちが、卒業後も全員迷宮探索者として迷宮に潜るわけではない。
在学中に挫折を経験し、全く別の職種を選ぶ人もいるし、そもそも比較的安全な学園の迷宮で稼ぎたいがためだけに入学した人だっているはずだ。女性なら、卒業後はさっさと結婚してしまう人もいる。千差万別だ。
「わたしは、迷宮に潜る冒険者の人を相手に商売をしたいと思ってる」
ミューリの返答を聞いて、マーティは納得してしまった。
彼女は、卒業後まで迷宮に潜り続けるつもりがないから、この状況下で先に進みたいなどと言えるのだ。
マーティは、彼女のように先に進みたいとは到底思えない。試験の時も、安易に先に進んで失敗した。平時ならともかく、今は異常事態だ。石橋を叩いて渡るくらい慎重でちょうどいい。
「そっか。でも、ぼくは卒業後も迷宮を探索するつもりなんだ。だから、危ない橋は渡れない。渡るべきではないと思ってる。もしミューリがそれでも先に進みたいっていうなら、ここでパーティは解散だ。お互い別の道を歩もう」
本気を声音から感じ取ったのか、ミューリはショックを受けて立ちすくんだ。
絞り出すかのような声音で、ミューリはマーティに懇願する。
「……絶対赤字になっちゃうから本当は使うつもり無かったけど、わたし、いざという時のために二つ転移石を持ってきてる。本当に危険だって分かったら使うから、お願い、一緒に来て。もちろん代金を請求したりはしないわ」
必死な様子のミューリに疑問を感じ、マーティは尋ねる。
「どうして、そんなに先に進みたいのさ」
「お父様は、わたしには商人になることよりも、良い条件で貴族と結婚することを期待してる。跡継ぎとしては、お兄様がいるからわたしは必要ないって。わたしは、お父様を見返してやりたい。だから、結果が欲しいの」
語っているミューリは真剣だった。だからこそ、マーティは悩んだ。進むべきか、引くべきか。考えた末で、マーティは決めた。
「分かった。先に進もう。転移石があるなら、ギリギリまで粘っても生きて帰れる、はず」
胸の内に渦巻く嫌な予感に、気付かない振りをしながら。
■ □ ■
進むうちに、マーティとミューリはいくつかの血だまりを見つけていた。
最初に見つけたものを含めると、全部で六つ。道を示すかのように、転々と地図では行き止まりの通路へと続いている。
血痕の量を考えると、相当な重症のはずだ。動けなくなっていてもおかしくない。
地面の岩肌には、ところどころに血と肉がこびりついていた。
まだ血が滴る挽肉を地肌に擦り付けたような状態のそれは、真っ直ぐ奥の暗がりへと消えている。
凄惨な光景に、マーティが顔を顰めた。
「……何かを引きずった跡がある」
「親切な誰かが、迷宮の外に運び出してくれたのよ、きっと」
ミューリの指摘に、マーティは唸った。
探索者であって、現場検証の専門家ではないから、マーティには真偽の判断がつけられない。
確かに生徒証の故障などで転移が発動しなくとも、学園迷宮のモンスターならば戦闘不能になっている生徒に対する攻撃衝動は自動的に抑えられるはずなので、回収するのは不可能ではない。
常識でいえば、それが最も自然で可能性が高い。
だが。
「迷宮の外に運び出すならこんな乱暴な運び方をするかな。それに引きずった先が、出口じゃなくて迷宮の奥なのはどうしてだろう。地図ではこの先は行き止まりのはずなのに」
マーティが懸念するのはそこだった。
地図はまだ、古い地図だから情報が古いだけということで納得できなくもないが、リタイアした生徒は生徒証の緊急転移が自動発動して帰還するはずだ。マーティ自身毎回お世話になっているので良く知っている。わざわざモンスターが外に運んでくれるなんて聞いたこともない。しかも行き先も違う。
カンテラで通路の奥を照らしたマーティは、血肉で出来た跡が、途中で散乱している瓦礫を乗り越えて続いているのに気がついた。
不自然に瓦礫が転がっているのは、、元々そこが壁だったためだろう。地面には、大きい瓦礫の他に、足で踏めば砕けてしまうような、細かい欠片も無数に落ちている。
鞄から地図を取り出して確認していたミューリが、顔を顰めながら片手で自分の髪をくしゃくしゃに引っ掻き回した。
「あー、ケチらないで最新の地図を買っておけば良かったかも。この先が踏破済みか未踏破か判断がつかないわ」
「ねえ、ミューリ。やっぱりいったん地上に戻った方がいいよ。不確定要素が多過ぎる」
いつもと違う事態に異常さを感じたマーティは再度ミューリを説得しようとするが、ミューリはうんざりしたかのように口をへの字に曲げて不満を露にする。
「話を蒸し返さないで。未踏破地域だったら誰も手をつけてないお宝がごろごろしてるかもしれないのに、戻るのはもったいないわ。転移石があるんだから、ぎりぎりまで探索するべきよ。マーティだって、さっきは納得したでしょ?」
「そうなんだけど……大丈夫なのかな、本当に」
どうしても気が進まないマーティだが、先ほど約束したのに早速破るわけにもいかず、しぶしぶ先に進むことに同意する。
「念のため、警戒は最大限にしておこう。ミューリ、転移石はいつでも起動できるようにしておいた方がいい。先に一つずつ持っておこう」
「いいけど。マーティは心配性ね」
少し呆れた顔で、ミューリはマーティに転移石を手渡した。
笑われたように思ったマーティは恥ずかしくなり、反論する。
「ぼくに言わせれば、ミューリが楽観的なんだと思うんだけど。正直、何が起こるか分からないっていうのは怖いよ」
「まだ上層なんだから、何かあったってたかが知れてるわよ。本格的に危なくなるのは地下十階からなのよ? 今まで一人で探索してたから仕方ないかもしれないけど、ちょっと警戒しすぎ」
マーティは言葉に詰まった。
痛いところを突かれたマーティは言い返せない。ミューリの言う通り、マーティの判断基準は、単独探索で地下四階まで降りた経験を基準にしている。常人よりも慎重な判断になるのは当然だ。
「経験者は語るってやつか……」
「そういうこと。じゃあ、行きましょう。前衛はわたしが張るから、後ろの警戒、お願いね?」
にっこりと笑ったミューリが、瓦礫を越えて一歩踏み出した。
その瞬間、マーティとミューリは怖気を感じて縮み上がった。
「何だこれ……空気が違う」
「迷宮内の見た感じは変わらないのに、別の迷宮にいるみたい……」
うめくマーティの横で、ミューリは小刻みに身体を震わせた。
「やっぱり何かがおかしい。聞き耳立ててみる」
精神を集中させて辺りの物音を探ったマーティは、遠くから近付いてくる足音を拾い上げた。
「マーティ、どうなの?」
不安になったのか、ミューリがマーティにちらちらと視線を送る。
「モンスターが一匹、凄い速度で近付いてきてる」
「吸血蝙蝠かしら?」
自分でも希望的観測なのを自覚しているのだろう。ミューリは自信がなさそうに言った。
「吸血蝙蝠なら群れてるはずだし、そもそも飛んでるんだから足音なんて立てない」
緊張の滲む硬質な声でマーティは指摘する。
二人が話している間に、足音はかなり近付いて来ていた。マーティが予想していたより、ずっと早い。重い鎧を着込んだミューリはもちろんのこと、身軽なマーティの全力疾走よりも早い。
「……いくらなんでも速すぎる。このままじゃ逃げ切れそうにないな。ミューリ、ぼくに刺激玉を分けてくれ」
「え? いいけど……」
ミューリが鞄から刺激玉を取り出し、いくつかマーティに手渡す。
「合図で同時に投げたら、一目散に逃げるよ。いいね?」
「え? 逃げるの? 戦うんじゃなくて?」
きょとんとした顔で聞き返すミューリに、マーティは早口で説明する。
「スライムでも吸血蝙蝠でもない。足がすごく速いから、ゴブリンも違う」
「じゃあ、突然変異で生まれたレアモンスターかしら?」
レアモンスターから取れる素材を思い浮かべたのか、ミューリの声が明るくなる。
迷宮で生まれるモンスターは、全て繁殖せず迷宮の機能によって生み出される。階層ごとに生まれるモンスターは決まっているが、迷宮もうっかり間違えることもあるのか、ごく稀に別の階層、特に下層のモンスターが本来生まれるはずのない階層で生まれることがある。
本来下層でしか生まれないモンスターなので、素材も貴重かつ強力なものが多く、その希少性と実入りの多さから、彼らはレアモンスターと呼ばれる。
迷宮探索者たちにとっては垂涎の的で、素材を持ち帰ることができればかなりの収穫になる。学園の授業で習う内容なので、マーティもミューリも知っていることだ。
同じ可能性を、マーティも真っ先に考えた。
「かもしれないけど、おそらくは、違う」
突然変異で発生したモンスターだろうが、この迷宮で生まれたならば相応のルールが適用される。
すなわち、極力人間を殺させない。
大怪我くらいは負わせるだろうが、とどめを刺される前に、迷宮のシステム側にリタイアしたと見なされて、生徒証に信号が送られ強制転移が発動するはずだ。
でも、万が一ということは有り得る。
「今だ!」
タイミングを計り、マーティは声を上げると同時に刺激玉を通路の曲がり角から飛び出てこようとしたモンスターに投げつけた。
反射的に、ミューリも数瞬遅れて刺激玉を投げる。
二つの刺激玉は過たず命中し、中の劇物をぶちまけた。
出てきたのは、エメラルドグリーンの毛皮が鮮やかな、大型の熊だった。もちろん、ただの熊であるわけがない。熊に似ているが、モンスターだ。マーティもミューリも、目にした事がないモンスターだった。
「怯んでるうちに、逃げるよ。ついてきて!」
マーティが叫ぶのと、熊型のモンスターが咆哮を上げるのは同時だった。
後ろを向いて走り出そうとした二人の動きが、つんのめるように不自然に止まる。
「動けない! 今の、ハウリングボイスだわ!」
よりモンスターに近い位置にいるミューリが悲鳴を上げた。
「くっ、くそ、こんな時に……!」
幸い数秒で効果は切れたが、同時に刺激玉の効果も切れてしまい、マーティとミューリは逃げる機会を失ってしまう。
「もう普通に逃げても追いつかれる! 転移石で逃げよう!」
「わ、分かったわ!」
前もって起動準備を済ませていたことが幸いした。
素早く二人は転移石を起動させる。
二人が消えた空間を、間一髪で突進した熊型モンスターが薙ぎ払った。
■ □ ■
突然目の前から姿を消した二人の人間に、彼女は戸惑いしばらく臭いを探った。本当に居なくなってしまったらしく、臭いすら完全に途切れている。
しばらく辺りを捜し回り、彼女はようやく己が獲物を逃がしてしまったことを認めた。
まずいことになったと彼女は嘆息する。
彼女の存在は人間たちに露見し、多くの人間が彼女を狩りに来るだろう。
だが、まだ赤子の存在まではばれていない。
あの人間たちの臭いは覚えた。次は逃がさない。
他の人間も、巣が見つかっていない今のうちにできるだけ減らしておくべきだ。
長らく暮らした巣を出て、彼女は縄張りを広げる決心をした。