カルテ22 前世の自分に誇れるもの
「ここね……! ララ、しっかり掴まっていて!」
「了解であります!」
乳腺に向かう血流に乗り換え、毛細血管へと侵入する。
ここまで来れば流れは穏やかだ。
このまままっすぐ乳腺まで向かい、ジルの症状の原因を突き止めれば良い。
――ンギ。ンギギギ……。
「え? 何か言った? ララ」
「ほぇ? いえ、私は何も……」
私の胸に抱きついたままのララを見下ろす。
確かに声は下から聞こえてきた気がしたのだが――。
「きっと空耳ですよぅ。ここまで戦闘続きでしたから、ミレイ様はお疲れなのですよ」
「うん……。確かにちょっと疲れたかも。麻酔魔法の効果もそろそろ切れるし、早く脱出してきちんと治療しないと」
鈍く痛むわき腹を軽く押さえ、苦笑いでそう答える。
傷口から雑菌が入る、ということは理論上あり得ないのだが、きちんとした治療は必要だ。
回復魔法が存在しない世界では、少しの傷でも命に関わる危険が潜んでいるのだから。
早く乳腺付近の状態を確かめ脱出したほうが良い。
私は足早に毛細血管の中を進む。
しばらく進むと、乳腺のうちのひとつに辿り着いた。
乳腺とは汗腺が変化したもので、約十五個ほどの乳腺葉が存在する。
ここで乳汁が分泌され、乳管を経て外部へと運ばれるのだ。
「どうですかぁ、ミレイ様ぁ? ジルさんの胸の張りの原因は判明しましたかぁ?」
私の胸から飛び降りたララは興味深そうに私の診断行動を眺めている。
ジルは妊娠数週間を経過した妊婦だ。
胸の張りと痛みを訴えているということは、女性ホルモンの影響により乳腺が刺激され、周囲の血管組織が膨張している可能性が高い。
もしくは乳腺症か乳腺炎か――。
――ンギギ……。ギリギリギリ……。
「あ! 今度は私にも聞こえましたぁ! あっちの方からです!」
音がした方角を指差すララ。
だが私は彼女が指差す場所とはまったく違う方向に視線を向けている。
音がする場所は一か所ではない。
上からも下からも右からも左からも。
周囲のあらゆる場所から不気味な音は鳴り続けている。
「……解析魔法を唱えるわ。……嫌な予感がするの」
地面に掌を当てた私は、焦る気持ちを押さえ薬師魔法を詠唱する。
人型の幻獣であるアルキメテスが召喚され、空間に計算式を描き出した。
その間にも、私は考える。
ジルは生理不順を訴えていた患者だ。
痛みがある、ということは血管肥大か炎症かのどちらかだ。
なのに私はモンスターを識別するための解析魔法を唱えている――。
描き出された幾何学模様の真円から光が漏れる。
解析を終えたアルキメテスは異界へと戻り、入れ替わるように一枚の魔法書がヒラヒラと宙を舞った。
私は震える手でそれを拾い上げ、記載事項に目を通す。
「なんて書いてあるのですかぁ?」
ララの声が遠くから聞こえてきた気がした。
私は彼女の質問には答えず、解析結果をただ眺めているしか出来なかった。
「そんな……ことって……」
ショックのあまり現状を理解できない。
ジルの症状は妊娠の影響でもなければ、乳腺症でも乳腺炎でもない――。
――ギギギギ。ギギギギギギギ……!
「み、ミレイ様……! 地面が……地面が盛り上がってきて……!?」
ボコ、ボコ、と音を立てながら周囲の組織が変化していく。
周囲だけではない。
視野に映る範囲全てのものが、異形の者へと変化していく。
私は魔法書を握り締め、唇を強く噛んだ。
口内に血の味が広がったが、それにより意識を集中させることが出来た。
現実逃避をしている場合ではない。
私がジルを助けなければ、他に助けられる者など存在しない。
「に、逃げましょうミレイ様ぁ! これは、あの化物じゃないですかぁ!」
涙目で私の白衣の裾を引っ張るララ。
私達の周囲にはすでに何十という数の異形の者が取り囲んでいる。
「いいえ、駄目よ。今すぐこいつらを全て殲滅しないと、ジルの命が危ないの」
「そ、そんなこと言われても……。この数は無理ですよぅ! しかもどんどん増殖しているじゃないですかぁ!」
ララは半狂乱になり騒いでいる。
きっと彼女の判断は正しい。
間違えているのは自分だとすぐに分かる。
――ジルの症状は『進行性の乳がん』だ。
私達が立っている乳腺やその周囲の組織が、全てガン化している。
恐らくステージはⅢ、もしくはそれ以上かもしれない。
目と鼻の先に血管があることから、血流に乗りすでに全身に転移している可能性が非常に高い。
ここに到着するまでに、奴らに出会わなかったのが不思議なくらいだ。
全身に転移した全てのガン細胞を死滅させることは不可能に近い。
しかも今までに行ってきた治療で、私が死滅させことのあるガンはステージⅠまでだ。
それら全ての条件が重荷となって私に語り掛けてくる。
――『ジルはもう、助からない』。
「ララは逃げて。ここから先は私一人で戦うから」
騎士剣を抜き、増殖を続ける異常繁殖型モンスターを睨みつけた。
それを見たララはぎょっとした表情で私を見上げている。
「ミレイ様ひとり残して脱出なんて、出来るわけないじゃないですかぁ! 私だってミレイ様の立派な助手なのです! こうなったら私も腹を括って……!」
ララの言葉に気持ちが揺らぎそうになったが、それを封じる。
彼女までここで命尽きてしまえば、誰が街の人々の病気の治療を継続してくれるのか。
私は静かに首を横に振り、彼女に聞こえないように魔法の詠唱を始める。
「……ごめん、ララ」
異界から幻獣のユースティアが召喚され、天秤と剣を両の手で掲げた。
「それは、送還魔法……!」
光に包まれたララはそれだけ言い残し、強制的に外へと送還された。
役目を終えたユースティアは異界へと戻っていく。
きっと、ララは私を許してくれないだろう。
でもこれで良い。
私の勝手な信念に、彼女まで巻き込むわけにはいかないのだ。
前世の記憶――。
私は悪性腫瘍により全てを奪われ、この世を去った。
また私はこの病に苦しむのか。
今度は親友を病魔に奪われるのか。
何故、こんなにも残酷なことが起こるのだろう。
街の皆に祝福され、これから幸せな日々が待ち構えていたというのに。
ここから脱出したとして、ジルになんて伝えれば良いのか。
――私には出来ない。
1%でも治療できる可能性があるのであれば、それに賭けたい。
たとえこの命が尽きることになったとしても。
『ギギギ……! ギシャシャシャ……!』
異常繁殖型モンスターの集団が不気味に笑った。
これは、私自身の戦いでもある。
この異世界に薬師として転生したことに、意味があるのだとしたら。
前世の私に今の私を誇れるのだとしたら――。
「――それを今、証明してみせるわ」
心を殺し、私は大きく地面を蹴った。




