依怙
トントンと階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
今日は仕事は休みで、もう昼前だが僕は自分の部屋から出ることなく過ごしていた。休みの日はいつもそうだ。
母さんは、「まぁ、ちゃんと仕事には行ってるんだからねぇ」と、だらけた休日を過ごす僕に何か小言を言うこともなかった。
いや。
以前は、「休みだからってグダグダしてないで、亜美ちゃん誘ってどっか出掛けてきなさいよ」なんてよく言われていたはずだ。
そんなに昔のことじゃない。三年前だ。
「わかってるよ。ちょうどさっき亜美にメールしてドライブに誘ったんだって」
「デートならもっと前もって誘ってあげなさいよ。当日にメールきても亜美ちゃんだって都合ってもんがあるでしょう」
「都合が悪かったらまた今度にしたらいいだけだろ?」
……三年前まではそんな会話が普通だった。
母さんは僕の彼女のことを結構気に入っていたし、僕もそんな状況が嫌じゃなかった。
今では、母さんは僕を腫れ物にさわるように扱う。普通に接しようと気にしすぎてなんだかぎこちなくなっているようだ。僕も母さんもそれに気付きながら、そのままで微妙な均衡を保っていた。
部屋のドアをノックする音がすぐに聞こえた。
「なに?」
僕は短く応える。母さんはドアを開けて中に入ってきた。手には一枚のハガキ。それを無言で僕に渡す。
反射的に受け取って差出人を見て……、どきりとした。
亜美の母親の名前だった。丁寧な控えめなその字は亜美のものに似ている気もする。
そして文面を目で追う。書かれている事実は理解できたが、なかなか心に届いてこなかった。
「これって……」
ようやくそれだけ呟いた。
僕が読み終わるのを静かに待っていたのであろう母さんは、少し涙ぐんでいるようだった。
「ええ。亡くなられたみたいね。亜美ちゃんのお父様」
そう。このハガキは亜美の父の死を報せるものだった。亡くなったのはもう一ヶ月も前のことらしい。病気だったようだ。
「あちらのお母様も、うちに知らせるかどうか迷われたんじゃないかしら」
「……ああ」
そうかもしれない。亜美の母が僕のことを良く思っているわけはないだろうし。
ハガキを見つめたままで顔を上げようとしない僕に、「確かに渡したからね」と言うと、母さんは部屋を出ていった。
階段を下りていく母さんの足音を聞きながら、亜美の家に行こう、と僕は決心していた。
亜美が死んでしまったのは僕とのドライブの途中だった。
居眠り運転の車が突っ込んできた。
僕は事故の時には気を失ったし怪我もしたけれど、結局はおめおめと生き長らえている。
僕が悪かったわけじゃない。相手の過失だ。そのことはさんざん母さんや事故の事を知った友人達にも言われた。だがそれでも亜美をドライブに誘ったのは僕で、車を運転していたのも僕だ。
病院に駆けつけてきた亜美の両親に対面した時、もう僕は亜美が死んだことを知っていた。
彼女の両親も亜美が亡くなったことを知って青ざめた顔だった。
何度か会ったこともあって、「おじさん」「おばさん」と親しく呼んでいた相手とはまったく別人のように見えた。それは相手から僕を見ても同じように感じたかもしれない。
生気もなく感情も麻痺して、亜美の両親に何か言わないといけないと思ったがそれもできなかった。
おじさんは僕を見てただ一言、「君を恨むよ」と言った。
それはそうだ。僕は顔を上げることができなかった。
僕はその時にはすぐ後から死のうと思っていた。亜美のいない世界には未練なんてなかった。
何となく母さんには悟られたくなくて、会社に行くいつも通りの時間に家を出て、少し時間を潰しつつ僕は亜美の家に向かった。
彼女が死んで以来、僕は葬式にも参列しなかったので、彼女の家に来るのははじめてだ。
家の前で深く息を吸ってインターホンを押した。
すぐに応答があって、僕が名乗ると亜美の母が顔を出す。
帰ってくれと言われるかもしれない罵られるかもしれない、と思う前に亜美に似ているおばさんの顔を見るなり僕はその場から逃げ出したい気持ちにかられた。
もちろんそんなことはしない。
「ご無沙汰してます」
頭を下げると、
「よく来てくれたわねぇ」
と、予想に反して笑顔で僕を家の中に入れてくれた。
亜美の死後、僕はもう生きててもしかたがない、と思っていた。
なのにどうやって死んだらいいかもわからないし、何事もなかったかのように月日は過ぎていく。
ただ仕事に行って家に帰る。たまに同僚達と飲みに行く。
上っ面だけの生活は以前と何も変わらなかった。
変わったことと言えば、いつも行き帰りに通る大きな歩道橋を歩いている時に橋の下を通りすぎる車を見て、今ここから飛び降りれば死ねるだろうか、と常に考えるようになったことだろうか。
そのたびに、おじさんの言葉が頭をよぎる。
「君を恨むよ」
僕はあの人に恨まれなければいけない。
恨む対象の僕がいなくなってしまったら、娘を追っておじさんも死んでしまうかもしれない。
病院で見た彼の顔は、そう思わせるようなものだった。
僕が死なないのは、おじさんのためなのかもしれない。
僕は亜美とおじさんの仏前に手を合わせる。
おばさんはそれを黙って見ていたが、ふいに口を開いた。
「うちの人ね、いつもあなたのことを気にかけてたのよ」
ああ。なじられるのかな、と思った。
「亜美が死んだ時に病院で会ったでしょう?」
そうだ。それ以来僕は挨拶にも来ていない。
「あの時、あなた、すぐにでも死んでしまうんじゃないかって思うような顔だったのよ」
娘を亡くした自分たちより、原因を作った僕が悲劇の主役みたいな顔をしてたらいい気はしないだろう。だから、おじさんは僕にあの言葉をかけたに違いない。
「うちの人があなたを恨むって言ったの覚えてる?」
忘れたことはない。頷く。
「うちの人ねぇ、よく言ってたわ。ああ言わなきゃあなたが死んじゃうような気がしたんだ、って」
……え?
「俺があいつを恨んでなきゃあいつ死んじゃうんじゃないか、なんて。おかしなこと言うでしょう? でもそう思うことでうちの人もなんだか生きる意欲を保ってたみたい」
僕のことを恨んでいると思っていたおばさんは、朗らかにそんな話を僕に聞かせた。
僕はどう反応したらいいのか分からなかったが、しばらく話をして、ただ、頭を下げてありがとうございましたと彼女の家を後にした。
おばさんは、「今日は来てくれてありがとう」と最後に言った。
僕は恨まれなければいけない、と思っていた。
それが僕と外の世界を結びつける一番強い理由だったと思う。
おじさんが死んでしまったことでその絆がなくなった。
いや。もともとそんな理由は存在しなかった。
帰り道。いつもの歩道橋の階段を上がる。
無性に涙が込み上げてきた。
僕がしなくちゃいけないのは、ここから飛び降りることじゃない。
亜美が死んだ。おじさんが死んだ。
そのことを背負って、生きなくちゃいけない。足掻いていかなくちゃいけない。
亜美の死をおじさんと共有することで甘えていた自分がいたのかもしれない。
橋の上から飛び降りようという気持ちはなくなっていたが、その変わりにもっと重いものを突きつけられた気持ちで、重圧に潰されないよう、ただ僕は泣いた。