其の参
一八六三年五月二日。この事件は発生した。
会津藩家老襲撃および壬生浪士組局長副長暗殺未遂事件。
あの事件の日、わいを含めた以下の七人は屯所近くの壬生寺で稽古を行っていた。
尾形俊太郎(副長助勤・隊長)
浅野薫 (副長助勤・伍長)
林信太郎 (伍長)
神田弘幸
石岡橋太郎
木村俊介
新藤進
この当時、すなわち文久三年時点の壬生浪士組の職制は以下の通りだった。
局長(三名)ー副長(二名)ー副長助勤(十三名)ー平隊士(凡そ三十名)。
入隊した者は仮同心(今で言う試用期間)の後、各副長助勤の下に、配属される。
そして、平常時は副長助勤とその助勤直属の平隊士を一隊とし、副長助勤の名前で纏められていた。
すなわち、尾形俊太郎とその配下の隊士は【尾形隊】、原田左之助とその配下の隊士は【原田隊】となる。
例外は浅野薫である。奴は副長助勤であるが隊を率いるのではなく、尾形俊太郎の補佐という形で尾形隊に属していた。
それを受け、尾形さんは【伍長】という形で浅野とわいに隊士を纏めさせていた。
一八六三年五月二日 正午。
壬生寺。
律宗大本山の寺院であり、本尊は地蔵菩薩。中世に再興した円覚上人による「大念仏狂言」(壬生狂言)を伝える寺として有名である。また、壬生浪士組の屯所から近いところにあるため、兵法調練場としての役割があった。
だたし、ここにきて稽古するのは、わい達か副長助勤職の幹部連中ぐらいだが・・・。現在、この壬生寺にいるのはわい達だけ。
稽古する隊士の姿はなし。稽古も仕事の一つだろ。仕事しろと言いたい。
尾形さんは、俺たちの稽古の様子を確認しつつ、副官である浅野薫と市中巡察の打ち合わせを行っていた。
わいは、他の四人の稽古をつけていた。
四人は四人とも入隊した時よりも、格段に強くなっている。
ただし、石岡橋太郎は方天戟、木村俊介は鎖大鎌、神田弘幸は体術、新藤進は剣。
ちなみに、わいこと林信太郎が使うのは爆弾および銃。
浅野薫が使うのは「斬剛糸」と呼ばれる糸状の刃。
そしてわい達の頭である尾形俊太郎は小太刀二刀流。
(尾形はんを含め、全員が武器が特殊だからなあ・・・)
壬生浪士組の考え方としては「武士ならば刀で戦え」である。
わい達尾形隊は、それに見事に異を唱える集団となってしまった。
稽古は乱取りすなわち実践形式が主だ。
その時だった。
「あれ?原田先生」
新藤の言葉に、全員がそちらへと目を移した。
のそりのそりと、お色気満載の色男がこちらを見ると、軽く手を上げやってきたからだ。
この男こそ、原田左之助である。
あだ名は【死にぞこねぇの左之】。
一見すると色男で、笑う顔がかわいいと遊郭のお姉様がたにも評判であるが、この男、気が短い。
若い頃、中間として仕事をしていたが、その時の上官に「腹の斬り方も知らない下衆」と言われ、この男、腹を切った。
これが【死にぞこねぇの左之】のあだ名の由来である。
幸い、傷が浅く命拾いしたが、脱藩。流れ流れで江戸の天然理心流に入門。
現在は壬生浪士組の副長助勤。
すなわち、尾形はんや浅野と同格で、わいよりも役職上はおえらいさん。一応、稽古を止めた。尾形はんや浅野も、原田先生に視線をやる。
「悪いが、お前たちを監視することになった。」
それを聞いたわいは思った。
ーーーやはり原田は馬鹿だった。
一八六四年(元治元年)七月一日・八木邸。
俺は二人をジト目で睨みながら言った。
「一応、副長助勤の俺を、賭けの対象するお前達の根性を、俺は褒めてやりたいよ。鬼副長が聞いたら、マジで怒るぞ。」
「左之の性格から考えて、隠し事は不可能だと思ってはいた。じゃあ、どうするか。正面突破だろ?で、俺は林に、隊士達に「左之が監視がつくぞ」と伝えておけと言っておいた。」
「せや。奴らに「左之先生が監視につくことになるぞ」といったら、何故か賭けになってな。あの当時、娯楽少ないからまあ良いかと思っていたんや。賭けの内容も現金や無く春画だし。」