8. 正体は
ぎょっとしたあきが声のしたほうを振り向くと、そこには忘れもしない顔があった。
「あ、・・・」
「久しぶり。とでも言ったほうがいいかな?」
あきよりも大分背の高いその男はあきの腕をつかんだまま、ゆったりと微笑んだ。
木頭貴弘だ。
あきの頭の中が木頭を認識したとたん、パニックになった。
な、なんとかして逃げなくちゃ。
あきの頭の中にはそればかりぐるぐる回る。
改めてみれば目の前の男が自分と違う世界の人間なんて一目瞭然だ。
「あの、あの・・・どちらさまですか」
逃げたい一身でついあきは他人の振りをよそおった。
木頭は一瞬不思議そうな顔になったが、すぐに笑みを浮かべた。
「忘れるはずがない。狭山あきさんでしょう?」
「…っつ!!」
あきは驚いて目を瞠った。
名前まで知ってる!
きっと山本が教えたに違いない。
もう次の派遣のヘルプは受けないからっ!
心の中で山本に罵倒をしているあきの腕を木頭がやさしくつかみなおした。
「さ、行こうか?」
「え?…ええ?!」
行こうかってどこに?
つれられるままに数歩歩いた目の前には立派な黒の車が!
これはロールスロイスとか、ベンツとか言われるものじゃないの?
しかも後部座席はスモーク貼り!
車に疎いあきでもこれが日常使いできるような安いものじゃないくらいのことは想像できた。
しかも車の脇には部下のような男が立っていて、近づくとすっと後部座席のドアを開けた。
「さ、どうぞ」
「え?…いえっ!!そ、そんなお断りします!」
あきの頭の中は混乱して真っ白な状態で妙な返答をしていることにも気づいていない。
「大丈夫だよ。取って食うわけじゃないし」
いやいや!そんなことはしそうにないでしょうけども。
もしかしてこの間のことを口止めしに来たんじゃ…
あきははっとした。
えらい人だし、あんなことがあったのが洩れるのはまずいよね。
べつに、誰かに言うつもりもなかったが、あきはちょっと悲しくなった。
「どうしたの?」
おとなしくなったあきに木頭が声をかけてくる。
「あの!…あのこないだのことでしたら、誰にも言いません!だから…だから…」
あきの頭の中は考えることを放棄していたが、とりあえず必死に言葉を紡いだ。
あまりにも現実離れした出来事だったが、それを目の前のこの人に悪い思い出と思ってもらいたくない。
その一身だった。
ほんの一瞬前は他人の振りをして会ったことを否定していたのに、今度は自分が口止めに来たとでも思っているのか?
木頭はあきのなんともわかりやすい反応に、笑みがもれた。
顔を赤らめて詰まりながらも言葉を紡ぐあきを見ているとその裏表のないところが妙に好ましかった。
見た目は普段なら目を留めることもなかったかもしれない。
しかし、今の木頭はもう少し彼女を見ていたい気持ちに駆られた。
「何もしないから。さ、乗って。周りに見られてるよ」
はっとしてあきが周囲をうかがうと行きかう通行人がちらちらとこちらを見ているのがわかった。
駅にも近く、ビルが林立しているこんなところでいかにもな高級車を前にして突っ立ってたら目立つことこの上ない。
あきはそれでも一瞬躊躇したが、再度促されおずおずと車に乗り込んだ。
誰も見てないわよね?
スモーク貼りで外からは誰が乗っているのかなんてわからないのに、思わずあきは背をかがめてそっと窓の外をうかがってしまう。
会社の人間に見られてはいないかと気になったが見る限り知っている人はいなさそうだ。
その様子を見ていた木頭おかしそうに口元をほころばせた。